2020年12月25日金曜日

論社と偽因果

科野大宮社 棟札「大宮 生嶋足嶋神社」
科野大宮社 棟札「大宮 生嶋足嶋神社」(UCV「科野大宮社 収蔵品のお披露目」(2019)より)

日本遺産 構成文化財一覧の生島足島神社の解説にある「生島大神と足島大神を祀る神社は全国的にも珍しく」から連想されるのは、江戸時代の社号争いの話です。このときの結果によっては、社号・祭神が入れ替わったり、今も論社が複数あった可能性も。(塩野神社みたいに)
(下之郷明神が生島足島神社の名称を許可されたのが寛政11年(1799)、上本郷の諏訪大明神(明和2年棟札)が泥宮(寛政2年棟札)になったのも同時期で、もしかして一連の動き?)

上田市の科野大宮社が「秋季大祭」2019を開く!
https://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000586745.html

『上田市史 上』(昭和15 1940) 133-134頁より
若し臆測を馳するならば、武田信玄が天文廿二年、下之郷の地に来たりし時、其所に鎮座する神社の名を尋ねた時、下之郷明神と聞き、諏訪神勧請の社と合点して、自分信仰の神なるより、直に社領安堵の状を出したものか、さもなくば、此社人等が、信玄の諏訪神信仰の篤きを知り、諏訪神勧進の社と称して社領の安堵を図りし者か、若し又然らざれば、此当時土地の人は勿論、神主等も何神を祭れるやも知らざるに至り、下之郷名神を下之郷明神と称して奉祀し終に、諏訪明神と誤るに至ったものか、若し延喜の頃より生島足島神社と正しく伝はり来たものならば、寛政の頃に至て神号に就て、他の喙(くちばし)を容るゝ余地のあるべき筈が無いと考へられる。信玄祈願状中の下之郷諏訪法性大明神を、生島足島神社を指した者と為す時は、願状中の下之郷両社とは、諏訪神社の上社下社の両社と云ふ事に成り、生島足島神社は存在を失ふことになる。

生島足島の神社号
 此社の重大儀たる、御遷り神事に拠り、上宮を生島足島二神の社殿、下宮を諏訪神の社殿と為すこと、穏当なるべしと思ふ。此社は、藩政時代の寛政以前の頃は、唯下之郷明神とのみ呼んで居たのであるが、寛政十一年正月十九日、京都吉田家より、生島足島神社の旧号に復する許可を得て、茲に生島足島神社と称する事となった。此時の上田原町問屋日記に
 一、下之郷明神生島足島之神社に相成り、信州二ノ宮小県惣社と唱へ神事有之由に候事
とあれば、此時には、信州二ノ宮で、小県総社と云ふたのである。

神社号の異議
 此神社号に就ては、常田村 今上田市内 大宮神主、川上対馬の故障申立てありしも、寛政十一年、下之郷明神は、生島足島神と認められた。後文化六年再び川上対馬、神社号に就て異議を唱へ、京都表に於て、下之郷神主工藤近江と論争の末、訳《ワケ》(分)社号と為す事となり、常田大宮を生国大明神と称するに協定したが、近江帰村の後、村人社人悉く之に反対し、訳社号を承認せず大騒となった。依て近江は出奔し、訳社号の件は中止と成った。此後天保四年三たび社号の儀に就き、常田大宮神主川上将監が争ふことがあったが、下之郷生島足島神社の社号は、依然変ることは、無かったのである。(生島足島神社史料)


『広報うえだ 令和2年11月』「知ってる?上田市の日本遺産③」等で令和元年10月の百八手に触れていました。このイベント(10月5日)は不都合な偽因果の事例で注目しています。
鳥居の方位にパワーを感じる人達は、不都合な偽因果をどう見るのでしょう。
良いことは信じて悪いことは信じないとか、認知フィルターによって自然に完全スルーできるとか。
多少は気になって、この時期は避けようという話が出てくるとか。

広報うえだ 令和2年 12月(生島足島神社) 11月(百八手)
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/koho/12263.html

安曽神社社叢越しの安曽岡山の写真を独鈷山と呼ぶのはどうなのでしょう。続いてはいますが…

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