明治38年3月2日 信濃毎日新聞 広告 |
『信濃教育会雑誌 明治39年7月25日』33頁より |
保科百助(ほしな ひゃくすけ 1868-1911)が保科塾を閉塾(明治39年8月4日)した理由については諸説ありますが、その時、行われていた学生・教員の満韓視察旅行が影響したことも考えられると思います。
明治38年3月2日(日露戦争 奉天会戦中)、保科百助は、7月から3か月間の満韓視察をしたいので「萬般の便宣を與へられ度」という内容の新聞広告を出しました。結局「萬般の便宣」は得られなかったようで、渡航は実現しませんでした。
日露戦争終戦の翌年、明治39年7月、陸軍省と文部省は学生・教員を対象に満韓旅行を企画しました。参加者は全国で3600名余り。長野県は学生85名、教員135名、合計220名。
保科百助はこの旅行に参加していません。人と同じことをするのを好まなかったので、大勢の教員と一緒の団体旅行には不満足だったかもしれませんが、望んでも視察に行けずにいる自分と比べて、強い苛立ち(または失望)を感じていたのではないでしょうか。
『信濃教育会雑誌』によると長野県の視察団の日程は、7月25日宇品港出発、29日大連、31日旅順、8月2日奉天。
信濃毎日新聞にはこの旅行に関する記事や、参加していた太田水穂の報告記事が度々掲載されました。それらを目にして、悔しく、塾が足かせのように感じられて、どうにも嫌になってしまった、というのが閉塾(8月4日)の一つの動機だった可能性もあるのではないでしょうか。
信濃毎日新聞 明治38年3月2日 広告記事
小生儀赤貧洗ふが如くなるにも不拘聊か時
局に鑑みる所あり來る七月上旬當地出發凡
そ三が月の豫定を以て滿韓地方に於ける敎
育實業視察の爲め渡航仕候間視察上心得と
なるべき事其他萬般の便宣を與へられ度尚
何々の事項を視察し來れとの御下命をも蒙
り度此段略儀ながら新聞紙上を以て御願申
上候敬具
明治卅八年三月 在長野市
五無齋事 保科百助
『信濃教育会雑誌 明治39年7月25日』33頁より
滿韓旅行者と本縣人
今回文部省が陸軍省等に交渉して敎育者並學生等の團体滿韓旅行に關し非常なる便宜を與へられ從て本縣にても夫々奨勵され尚信濃敎育會にても殊に該會員の便宜を企圖したるが右旅行者渡航の爲め 甲班《●●》は樺太丸六百人を定員とし七月十五日宇品發仝十九日大連着歸航は八月五日大連發同九日宇品着 乙班《●●》は雛丸六百五十人を定員とし七月十九日宇品發同二十三日大連着歸航は八月八日大連發同十二日宇品着 丙班《●●》は神宮丸六百五十人を定員とし七月二十二日宇品發同二十六日大連着歸航は八月十二日大連發同十六日宇品着 丁班《●●》は御吉野丸一千四十二人を定員とし七月二十五日宇品發同二十九日大連着 戊班《●●》は樺太丸六百人を定員とし七月二十九日宇品發八月二日大連着歸航は八月十八日大連發同二十二日宇品着の豫定なりと云ふ今丁班たる御吉野丸便乘者團体の詳細を記せば左の如し
丁班御吉丸便乘滿韓旅行者團体配属人員
船名 御吉野
乘船月日 七月廾五日
總人員 一、〇四二
府縣又 配當人員 人員計 團体數 團体監督者氏名(※略)
學校名
東京府 三五 九六 一
神奈川縣 五
●埼玉縣 二四
千葉縣 三
●栃木縣 二八
●群馬縣 四五 一〇九 一
●靜岡縣 五八
●山梨縣 六
●茨木縣 八〇 八〇 一
●長野縣 二二〇 二二〇 二
宮城縣 三〇 一四三 一
仙臺醫學 一
專門學校
福島縣 七
●岩手縣 三九
盛岡高等 一〇
農學校
靑森縣 一
●山形縣 一二
北海道 一六
秋田縣 二七
●兵庫縣 一二二 一二二 一
石川縣 二九 八四 一
奈良縣 一八
和歌山縣 一八
●富山縣 一九
●三重縣 八八 一〇二 一
愛知縣 一四
●德島縣 一四 八五 一
●愛媛縣 七一
右表中配當人員は中等以上の諸學校職員生徒及小學校敎員並に附添醫師を通しての數とす又其經路は大連上陸々軍官憲に恊議して定むべしとのこと府縣名の上に●印を付したるは醫師の附添あるものゝ符號なり醫師の附添ある府縣と恊議するを要すへしとのことなり
次に又本縣旅行團体者中敎員出身者各郡市別人員數を聞くに南佐久一、北佐久五、小縣七、諏訪二七、上伊那六 下伊那二二、西筑摩四、東筑摩二三、南安曇四、更級一〇 埴科一、下高井六、上水内一〇、下水内二、長野八計一三五外に學生八五にて合計二二〇人なり
(※東京府等の配当人員の合計は95で、人員計96とは不一致。)
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