2021年2月5日金曜日

別所神社、縁結びの謎

別所神社鳥居の扁額「本朝縁結大神」
別所神社鳥居「本朝縁結大神」(元は「正一位熊野三社大権現」)

本殿背面の3つの祠 飛宮社?
本殿背面の祠は飛宮社?

中央の祠の文字板「賀茂御祖大明神 飛宮大明神 賀茂別雷大明神」?
中央の祠の文字板「賀茂御祖大明神 飛宮大明神 賀茂別雷大明神」?

飛宮御玉石
飛宮御玉石(甲田三男著『上田盆地1600万年をめぐる』(2005) 31頁)

左の祠の柱の文字
左の祠の柱の文字「疱瘡之守」?

本殿階段下の男石?
本殿階段下の男石?(もしかして北向観音 男石明神から?)

別所神社(上田市)の本殿背面の祠について質問を頂き、調べてみたら、どうも謎な話が流通しているようです… (上のカラー写真は頂きもの。冬期や雨後は境内は泥でぬかるむので足元に注意。周辺は雑木で荒れている所もあって景観は期待しすぎないで、とのこと。)
(※露出度を上げるならもっと整備しないと、訪れて怒り出す人がいないか心配になるレベル…)

・本朝縁結大神は別所神社(熊野神社)のことです。(つまり、本朝縁結大神の祠=別所神社本殿。) ただし明確な一次史料は見つからず。
・本殿背面の祠は、おそらく、飛宮(とびのみや・とんびのみや)社。(または中央1つだけ? しかし複数社とすると中央だけ祠の形が異なるのは不自然…)
・本殿背面の中央の祠に文字板があり、不明瞭ですが、右から
賀茂御祖大明神(かも みおや だいみょうじん 下賀茂神社)
飛宮 大明神(とびのみや・とんびのみや だいみょうじん)
賀茂別雷大明神(かも わけいかづち だいみょうじん 上賀茂神社)
と読めます。丸石(少し扁平?)に「飛宮御玉石」の文字があります。祠の柱にも文字が見えて、左の祠の右柱「疱瘡(之守?)」、他の柱は判読できず。
賀茂祠から飛宮社になり、明治32年別所神社境内に移した、という話があります。(『別所村誌』(明治14年)、飯島寅次郎『別所温泉誌』(明治33年))
※『上田市誌 文化財編』や「日本遺産 構成文化財一覧」で本殿背面の祠を本朝縁結大神としているのは根拠が不明、不合理?(岳の幟の調査報告書等を否定するだけの根拠がある?)

・別所神社境内の祠に男石、女石、子種石があるという話は、観光案内の他には見つけられず、具体的にどこにあるのか、わかりませんでした。陰陽石があっても不思議はないですが、確認・報告されているでしょうか? (陰陽石・石棒等は古代に限らず、近世のものも多いのかも。)
・本殿の垣根の中に自然石の男石が立てられている、という話は聞いたことがありますが、現在は見当たらず。本殿の階段の下にある石がその男石ではないか、とのこと。

・別所神社(熊野神社)は「相染川 結神社」とも呼ばれたとの伝承があります。しかし、陰陽石の話は見当たらず、石が由緒かどうか不明。男(夫)神岳・女神岳からの川の合流点にあったこと、祭神がイザナミ・イザナギであることが、縁結びの神社と言われた主な理由ではないでしょうか。
(別所は「別れる所」という風評があるそうで、その対策として「結神社」「本朝縁結大神」のような別名が作られてきた?(江戸時代から現代まで?))
毘蘭樹(びらんじゅ 表記は美欄樹など)は、結の神社の神木が洪水で流されてきたものと言われています。その後、サイカチに替わり、願掛けの木とされ、現在は比蘭樹という地名が残っています。(瀬下敬忠『塩田の道草』(明和4年 1767)、『信濃国小県郡出浦郷別所七久里温泉並名所畧記』『信濃奇勝録』等)

『岳の幟の祭礼調査報告書(改訂版)』(昭和57 1982) より引用
Ⅱ 歴史的考察
(中略 ※14頁)
 次に「岳の幟」の最後の収め所として、現在は別所神社を充当しているので、このことについて、少し触れてみることにしよう。
 長野県町村誌(明治14年5月)によれば、別所神社(村社)
 社地東西37間、南北35間
 面積 4反3畝5歩
 祭神、伊弉諾尊
    伊弉冊尊
    速玉之男命
    泉津事解男命
  相殿 素盞鳴尊
 里伝、建久年間、紀伊国熊野より遷し創建と云ふ。永享年中、本殿を再建し、神殿等造営すと 確証なし。明治11年熊野神社の称号を廃し、更に官に乞うて別所神社と改称す。社地中老松 1株、周囲1丈2尺3寸、長さ8間半、祭日、4月16日。9月28日、素盞鳴尊、祭日7月12日よよ(※より?)14日まで。
 境内雑社 (省略)
建久年間(1190~1198)と言えば、鎌倉初期であり、それから240余年を経て永享年中に本殿を再建し、神楽殿を造営したというが確証ないと書いているので、伝言の程度と解すべきであろう。
 なお、このことについては、昭和30年10月、「別所村史略年表稿」としての別所村誌資料編纂委員会の記事によれば、「熊野神社(別所神社)本殿は昔から現在の位置にあったものではなく、江戸時代の天和2年(1682)に「下」の位置にあった同社を現在の位置に上げて社殿を造営して祀ったという記録が見えるので(西島義雅氏所蔵「万覚帳」)社殿は移動していると思われる。
 その「下の位置」とは、水帳に「みやのまえ」 "みやのわき" "みやのうえ" 等の地名があるので、その辺りであろうことは想像に難くない とあるが、果してその通りであろうか!。
 享保20年の「宗源宣旨」によれば、
 信州小県郡別所村
   正一位熊野三社大権現
 と書かれており、時の願主山極政之奉納の銅鏡にも「信州別所邑、正一位熊野宮広前」と刻み込まれていて、裏面には「享保二十年六月吉日」と書かれている。
 以前鳥居に掲げられていた神社の額には、「正一位熊野三社大権現」と書かれていたのであるが、これは常楽寺に預けられて、現在は鳥居の額に「本朝縁結大神」と記されている所をみると このお宮も時勢の影響を受け、主たる効能は「縁結び」となったもののごとくである。
 さて別所神社に保存される最近の記録を掲げてその全貌を見ることにしよう。

 別所神社
一、鎮座地 別所内大門 2338番
一、境内面積 1923坪(昭和31年国より無償交附)
一、建物 本殿   3坪
     拝殿   8坪
     神楽殿 45坪、間口9間、奥行5間
一、祭神
  伊弉諾、伊弉冊尊
  速玉男命
  泉事解男命
 相殿素盞鳴尊
一、由来 建久年間、熊野大権現を勧請し、創建す。熊野権現、又は本朝縁結神社と号す。
 明治11年、別所神社と改称す。
 永享年中、本殿を再建し神楽殿を造営す。
 明治42年諏訪社、三島、山の神社、住吉神社、八幡社、日月社、愛宕社、温泉社を合祀す。
一、祭日、1月12日新年祭、4月15日祈年祭、5月3日三島祭、7月14日祇園祭、7月15日(岳の幟祭)九頭龍社祭、9月28日例祭、11月28日神甞祭、12月20日大祓祭、
一、宝物 宝剣 一振
一、山林 1反7畝17歩
  三嶋神社旧境内地全部
一、氏子 別所地域現住の人、及び氏子にして他出中の人。
一、運営 神社総代3人
     祭典委員12人
  昭和37年7月23日記録
 と記されているので神社の概要はこれによって知ることができたと思われる。

3.「獅子舞及びささら踊り」の行事と別所神社の関係
 先にも記したように、「岳の幟」の行事は、永正年間に、九頭龍神の加護によって、与水があって以来、その奉賽として、三丈余の長幟を毎年献納して、今日に及んでいるのであるが、これにまつわる獅子舞と、さゝら踊りは何時頃からこの行事に附加されて、最後は別所神社に収められるようになったのであろうか。これについて倉沢美徳氏は「別所温泉の記録」中「岳の幟りと祇園祭」の項で下記の様に説明されている。
 「今日では、岳の幟り、さゝら踊り、獅子舞との三者を一括して "岳の幟りの祭礼" といわれるようになっている。しかし、ささら踊りと三頭獅子とは祇園祭の出し物であって、岳の幟りとは別個の祭りである。むかしは別々に行なわれていた。
 大正10年、小学校舎が増築された際、その祝典にこのさゝら踊りと三頭獅子が奉納された。その後、一両回出演したことがあったが、獅子面が大分破損したので、昭和9年になって資金を募集し、三頭の獅子面を新調した、その際、岳の幟と祇園祭の期日が接近しているので、この二祭を合せて同月日に施行したのがはじまりで、爾来今日に至るまで毎年同時に行なうのが慣例になってしまった。正式にいえば二つに分けて考えなくてはならない。」と書かれているので同時に行なわれるようになった理由も解る訳である。尚この記事の中に獅子面が破損しているので昭和9年に之を新調したと書かれている。獅子面が破損するほどそれ以前に舞い続けたことを想像せずにはいられない。別所には院内に立派な「市神」のお旅所が設けられてあり、三頭獅子舞が以前から行なわれていたことが想像に難くない。(別所の外に、前山、保野等いずれも三頭獅子舞の行なわれた所であるが、共に "市神" を今に伝えている。)
(※以下略)

郡村誌 小県郡(別所村 他)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35230
別所村誌(明治14 1881) 65コマ
飛宮社(中略)祭神 天太玉命 天児屋根命 大雷命 里俗傳に永享元年の創立にして 始めは加茂祠(※かものやしろ?)と称す 故あつて飛ノ宮と改めたりと云ふ 祭日十月廿九日

飯島寅次郎『別所温泉誌』(明治33 1900)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765305/20
飛宮社 祭神天太玉命、天兒屋根命、大雷命、永享元年の創立といふ祭日十月二十九日
明治三十二年本社を別所神社境内に移したり


井出道貞『信濃奇勝録 巻之三』
(男(夫)神岳 女神岳 相染川 結神祠(むすぶのじんし) 美欄樹)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765066/35

(※参考)
箱山貴太郎編『上田市付近の伝承』(昭和48 1973) 17頁より
小玉にある峯の七ツ石の一ツ、われ石というのは約二百貫位の石が真中から二ツに割れていて、此の割れた間に小さな祠があって諏訪明神が祀ってあって、その祠の中には、小豆粒ぐらいの小石が一面に敷いてあって、その上に丸い石や卵形の石が十四五入っている、石は安山岩が川の中の滝壺などで水にもまれているうちに自然と丸くなったもので、川から拾って来たものである。此の地方では、神社の本殿の中には殆んど、このような丸い石が収められている場合が多い。

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