2020年11月12日木曜日

日本遺産 ストーリーのデパートメント化

生島足島神社・泥宮付近
生島足島神社・泥宮付近(長野県小県郡地図 大正11)

これも先日の話で、登録には一括が必要だったのかもしれませんが、一まとめにするとオカルトが強くなり過ぎて、知名度は上がっても、地域ブランドは悪化する恐れがあるので(賛否があるのは計画時に周知共有済?)、分割して相互干渉しないルールにした方が、個々を健全なレベルに維持できるのではないか(信州上田・塩田平のレイライン「信濃国分寺のレイライン(立地環境と太陽の線)」「生島足島神社と泥宮のレイライン(太陽の線)」「別所温泉と別所線のレイライン(祈りと心の絆の線)」+「雨乞いとため池」)… というような話もありました。

つまり、塩田平のレイラインとは、
(証拠はないが)生島足島神社、泥宮、信濃国分寺は直線状に配置されたのかもしれない、という話と、(なんとなく)別所温泉と別所線は生島足島神社のレイラインに並んでいるようにも見える、という話?
(観光用に、「かもしれない」成分と「なんとなく」成分を薄めて、断定的、確信的にしたもの? 結果的に地域社会から乖離した、観光業のための強引なストーリーになっているような。シビックプライド?黒歴史?)

国分寺の立地の調査・研究はいろいろあったと思います。太陽の線は相原文哉氏の説でしょうか。(『信濃路 42号』昭和58.7 1983)

生島足島神社と泥宮の間は直線的な道があったそうで、日の出入との関係も意識されてきた可能性はあると思います。『長野県小県郡地図』(大正11 1922) では「下之郷」の文字を斜めに通り、境内から今の大鳥居の方へ向かう線がその道でしょうか。(この地図では泥宮側は途中で北に曲がっている?)

『ふるさと塩田 村々の歴史 第一集』(昭和62 1987) 37頁より引用

上本郷
六 生島足島神社と本郷
 生島足島神社は本郷に鎮座してましたが、中古に下之郷へ遷座したと伝えられています。そのことは、上本郷から生島足島神社まで一直線の道路(区域整理で今は無い)のあったこと、神社の正面の鳥居は西側で本郷の方を向いていて、宮司さんが神様にお仕えするとき西から進んで御奉仕されること、七年目に一度の御柱祭の柱を引くとき第一の柱を上本郷が引くことになっていて、その柱は西鳥居から入ること、生島足島神社の御神体が大地であり 泥宮は泥を祭った神であること、そして本郷地籍に「諏訪」があり石の祠が残っていることなどから本郷と生島足島神社とが深い関係のあることを知ることができます。


別所温泉と別所線のレイラインの資料はわかりません。一番の難問? 地形と風水を根拠にした新解釈ということではだめでしょうか…
例えば、上田市南部では山脈の方向が西から東になっていて、川と平野の方向性も同様です。太陽は川の流れて行く方角から昇り、川の源流の方角へ沈みます。人々は、この、太陽と大地と水、地上と天上の循環を感じながら暮らしてきました。(東西循環の地勢感覚。特別なものではありませんが。自然環境との一体感の基になっているもの。) 別所温泉は、夫神岳・女神岳に降る雨と、大地から湧き出す温泉という、二つの水源のある霊地として、古くから神仏への祈りの場所にもなってきました。別所線は近代の鉄道ですが、大地に従い、川に従い、生島足島神社や別所温泉などの信仰の場所を結んで循環していて、交通手段というだけでなく、人々の心をつなぐ線にもなっています。こんな感じの、太陽と大地の循環する流れが別所温泉と別所線のレイライン、というような…

「同じ方向性の線が複数ある」「(あれもこれも)一本の線に沿って配置されている」 前者は普通にありそうに思える話(戦略としてはダメ?)、後者はどうでしょう?
目的には共感します。(できるなら最後の一本は残ってほしい)

以下は相原文哉氏の「太陽の線」の概略(一部)です。(『信濃路 42号』昭和58.7 1983)
12月?日、国分神社(八幡社)拝殿から、鳥居の中央、国分寺跡の上に夕日が見えた。
国分神社から国分寺跡を結ぶ線を延長すると、生島足島神社、泥宮、王子塚、女神岳山頂を通る。(太陽の線 ※ただし、かなりアバウト?)
生島足島神社から国分寺までの距離と女神岳までの距離が等しい。(5.2km)
この線上で冬至には女神岳に夕日が没む。(※実際は女神岳よりも南?)
女神岳は大和の三輪山に似ている。或いは夫神岳と女神岳で二上山(雄岳と雌岳)に対応する。
仮説:冬至の日没を眺める場所、太陽を見る場所が生島足島神社の位置。塩田平の暦を作る聖地、生島足島神社と女神岳(太陽の沈む山)を結ぶ線上に国分寺を建立したのではないか。しかし、国分寺にはそれ自体の立地条件があるので、生島足島神社と女神岳から自動的に決定されたとは考えにくい。初めに泥宮を建て、次に泥宮と女神岳の線上に国分寺を建て、その後女神岳と国分寺の中央に生島足島神社を建てたのではないか。
生島足島神社から太陽の線に直交する北西方向に弓立神社(※弓崎神社?)がある。そこから国分寺と女神岳の中間点を決めたのではないか。
太陽の線を北東に延ばすと大日ノ木(おひのき)地区に大日孁(おおひるめ)神社がある。
女神岳山頂に磐座(いわくら)がある。


(※弓崎神社の他に、福田神社、吉田の神明社も同様の向き? 道路では六中の西の道路等、旧松本街道と直交する方向。もしかしてこれは条理遺構以前の古代の道路の復元? 冬至日没が女神岳に来る線上に道路を作り、その道路沿いに(後で偶々)生島足島神社と泥宮を建てた? 国分寺の立地は諸条件により選定し、冬至日没が女神岳(ここからは見えない?)に来る位置に微調整した?
大日孁(おおひるめ)神社はラインの北側で向きも南寄り?
女神岳の磐座は山城の石積み?)

独鈷山、鉄城山、殿城山
https://kengaku2.blogspot.com/2020/03/blog-post.html
日本遺産 レイラインの幅
https://kengaku2.blogspot.com/2020/10/blog-post_15.html



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