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2026年6月29日月曜日

松本郷と下之郷

 

『天正六年二月 上諏訪造宮帳』塩田十二郷の負担分
『天正六年二月 上諏訪造宮帳』塩田十二郷の負担分

「三御柱小縣郡 塩田拾二郷」(1578)の各郷(村)の数値をグラフにしてみました。気付いた点です。

・「塩田拾二郷」とありますが記載は11郷。記載のない村落は、八木沢、舞田、保野、山田、野倉、十人。舞田・保野は小泉庄の時代がある。他は隣接する別所や手塚等と一括だったのかも。東西松本郷は(もしかしたら下之郷も)元は一郷だった?
(初期の塩田十二郷は、例えば、松本郷、柳沢郷、本郷、五加郷、小島郷、中野郷、前山郷、手塚郷、山田郷、八木沢郷、別所郷、野倉郷?)
・負担の数字と村の規模の関係は不明確ですが、中世は近世以降よりも上流部の村の規模は相対的に大きかったのかも。
・西松本郷と下之郷は代官が同じ市左衛門尉。安曽神社と下之郷明神(現在の生島足島神社)を管轄していた? 兼任はこの二郷だけで他の郷にはない。下之郷と東西松本郷は同じ尾根川水系で、下之郷は松本郷の下流に位置する。本郷は産川水系であり、下之郷とは水系が異なり、地形的な上下関係もない。村を「郷」と呼んでいた中世には、本郷と下之郷を名称で関連付けることはなかったはずで、「松本郷の下之郷」と解されていたことは確実?
・柳沢郷が西松本郷と別になっている。何度か合併・分離をした?


『天正六年二月 上諏訪造宮帳』(1578)

三御柱小縣郡 塩田拾二郷
西松本郷 三貫五百文 代官 市左衛門尉
東松本郷 三貫文 代官 左近丞
手塚郷 四貫五百文 代官 弥衛門尉
別所郷 参貫文 代官 右衛門尉
魔山郷 四貫文 代官 小衛門尉
五家郷 壹貫五百文 代官 与五左衛門尉
柳沢郷 壹貫五百文 代官 内蔵助
小島郷 六百文 代官 半七郎
中野郷 八百文 代官 金子三助
下之郷 七百五十文 代官 市左衛門尉
本郷 壹貫文 代官 小左衛門尉
  合廿四貫百五十文
右之拾貮郷ヨリ此外三貫七百五十文小祝分
          小池右近丞取之


厩山、魔山
https://kengaku2.blogspot.com/2026/01/blog-post.html


2026年2月28日土曜日

一つ火と上田郷友会月報

山口鬼火實撿ノ顛末(明治19年)
山口鬼火實撿ノ顛末(明治19年)


明治19年(1886)11月『上田郷友会月報』「山口鬼火實撿ノ顛末」は、勝俣英吉郎(1865-1930)が学生時代、友人から鬼火の伝承について聞かれ、「彼ノ中小ノ學、嘖々タル其名ト唯ニ校舎ノ壮觀ニヨリテ之レヲ得タルカ」と煽られて、夏休みに観察した、というレポートです。
結果は人家の灯火で、感想は「要スルニ余カ今囘ノ成績ハ大ニ自他意想ノ外ニ出テタルヲ驚カズンバアラス今ヤ理化ノ學何ノ處ニカ用ヰン嗚呼三日ノ試驗皆是古人ノ輕々ニ行ヒ得可カリシモノナラントハ書キ終リテ浩嘆之レヲ久フス」

この件が人々に記憶されて、「上田地方には、山口の一つ火を、「迷信と宗教」(井上圓了博士)のいふやうに、狐狸の所為と思つてゐるものは一人もない」(藤沢衛彦編『日本伝説叢書 信濃の巻』大正6 1917)と言われたのかも…

こういう話を伝承することにも意味はあるのではないでしょうか。


『上田郷友会月報 明治19年11月』(1886)
○論説
 山口鬼火實撿ノ顛末 勝俣英吉郎述
去歳客アリ問フテ曰ク聞ク子カ郷ニ鬼火ナルモノアリト果シテ之
レアルヤ否曰ク有リ曰ク鬼火ノ竒怪ナル之レヲ傳フル久シ郷人既
ニ之レヲ實見セルモノアリヤ曰ク竒説百出シテ未タ實見ノ説アラ
ズ曰ク子カ郷ハ文化盛ニ行ハレテ教育日ニ舉リ夙ニ中學ノ設ケア
リ學士又林ヲナセリト聞ク然ルニ獨リ此ノ鬼火ノ事ニ至リテ未マ
ダ實見ノ説ナキハ何ゾヤ曰ク然リ、然レトモ人各其職アリ焦眉ノ急
ニアラスシテ手ヲ餘事ニ下タスモノ稀レナルハ世情ノ常ナリ何ソ
獨リ我ガ郷先生ノミノ咎ナランヤ曰ク然ラハ子ハ京ニ在ル數年、
理化ノ學、之レヲ學バストナス能ハズ然ルニ子ニシテ之レヲ實見
スルノ勇ナキハ何ゾヤ曰ク余モ亦此ノ研究ニ志ス年アリ而シテ未タ
之レヲ果タスノ機會ナカリシノミ曰ク鳴呼々々子何爲レソ此言ア
ルヤ今ヤ理學ノ研究漸ク深逺ニシテ宇宙洪漢ノ間ニ其力ヲ逞フセ
リ之レヲ以テ後進ノ學者、自已ガ研究ノ餘地ナキニ困シミ幾萬里
ノ波濤ヲ越ヘテ辛酸ヲ異郷ノ深山幽谷ニ甞メ貴重ノ生命ヲ以テ理
學ノ犠牲トナスニ非ラスヤ然ルニ郊外里許ヲ出テザルノ地ニ數百
年来疑惑ノ解ケザルモノアルヲ知リ看々之レガ實見ニ躊躇スル、
何ゾ夫レ無勇ノ甚シキヤ子ハ漫ニ罪ヲ機會ナキニ移シテ恬乎タリ
余レ其評スペキ言ヲ知ラス將タ又理化ノ脩學甚タ淺薄ニシテ之レ
ガ研究ニ堪へザルニ由ルカ然ラハ彼ノ中小ノ學、嘖々タル其名ト
唯ニ校舎ノ壮觀ニヨリテ之レヲ得タルカ余ハ稍之レヲ疑ハサルヲ
得ズト、余遂ニ一言ナシ、今玆八月暑季休暇ニ際シテ郷ニ歸リ乃ハ
チ之レヲ實撿シテ左ノ成績ヲ得タリ由テ序スルニ客言ヲ以テス然
レトモ余ハ更ニ客ニ之レヲ示見スルヲ憚カラサルヲ得サルモノアリ
何ゾヤ他ナシ其成績ノ甚タ意外ニシテ先輩ノ意見ニ反スレパナリ
否我ガ數百年来ノ暗愚ト無稽トヲ曝露セサルベカラザレバナリ
   明治十九年八月    稿者識ス
(以下略)

2026年1月30日金曜日

厩山、魔山

天正六年二月上諏訪造宮帳より
魔山郷(左から3行目。茅野市「守矢史料館企画展の史料について」より)

干支に因んだ話題… 塩田の前山は中世に小規模な牧場があって、厩山(まいやま)と呼ばれていたのが、後に前山と書かれるようになったのではないか、という仮説です。
平安時代、手塚氏か塩田氏が経営していて、木曽義仲と共に滅亡、生き残った人達も離散して牧場は消滅…
南は山、北と西は川があるので、主に東側に柵や施設を設置していたのではないか…
厩山の表記は長く残って、「天正六年二月 上諏訪造宮帳」(1578)に「三御柱 小縣郡 塩田拾二郷 ~ 魔山郷」とあるのは、「厩山」を誤読・誤写したのではないか…

信濃史料 巻十四(3)
https://adeac.jp/npmh/catalog/mp000014
https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000014/1403/?pagecode=75

茅野市八ヶ岳総合博物館 アーカイブ
守矢史料館企画展の史料について
https://www.city.chino.lg.jp/site/y-hakubutsukan-archive/kiyo-jinbunrekishi.html


2025年9月29日月曜日

北向観音の由緒と古文書の謎

北向観音堂勧進帳
正徳2年北向観音堂勧進帳(表紙は延宝6年?)『常楽寺綜攬』P38


別所温泉の北向観音の由緒話は、内容を見ればわかる通り、フィクションです。成立については不明、史実を反映した部分があるのかどうかも不明。
そもそも、由来を伝える文書にも謎があって、本を調べると、題名が異なる文書がいくつも出てきて、内容を確認できないものもありました。
(調べれば何かがわかるというわけではないですが、できることが十分に行われてきたというわけでもないのでは…)

今年は由緒話の薬師如来・観音菩薩の出現(天長2年 825)から1200年で、前立本尊の御開帳等もあるとか。基礎的な部分の進展はあるでしょうか…
(現在の北向観音の本尊は江戸時代中期、正徳4年(1714)の製作。前立本尊については未調査。昭和36年の御開帳のときには本堂が改修され現在の撞木造りになりました。また、夕焼小焼の歌碑が建てられました。)


北向観音由緒の文書
名称年代原書の確認所載等
勧進帳正徳2
(1712)

部分画像
『常楽寺綜攬』(1990) P38
原本か写しか不明。表紙は延宝6(1678)か?(※1)
信濃國小縣郡出浦郷別所七久里温泉并名所畧記江戸後期?
画像公開
版本。「弘化三午年二月廿二日求之」の書込あり。(弘化3年 1846)
善光寺道名所図会
巻之五
嘉永2
(1849)

画像公開
版本。「以上別所七久里温泉由来記を抄出す」とある。「出浦古記 上畧」とあり木曽義仲軍の焼討の話(小説か?)がある。鳳来寺峯の薬師の話がある。
※「北向山大悲殿厄除千手観世音(略)毎歳二季彼岸ノ中日開扉回向」とある。
信濃國北向堂厄除千手観世音畧縁起不明
全文翻刻
版本。(※2)
別所本起錄不明
部分要約
『小県郡史 余編』(1923) P559 『小県郡民譚集』(1933) P34
小山真夫 記。
北向山厄除觀世音菩薩縁起不明
部分要約
『小県郡史 余編』(1923) P559 『小県郡民譚集』(1933) P34
小山真夫 記。
信濃國小縣郡北向山厄除観世音菩薩御傳記不明
部分要約
『長野県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第20輯』(1939)
小山海太郎「別所北向山の桂」
「(北向山別當常樂寺藏版)」とある。
信濃國北向山厄除観世音菩薩縁起/信濃國小縣郡北向山厄除観世音菩薩御傳記明治?
画像あり
版本?(名称は外題/内題)
信濃国出浦郷北向堂縁起不明
部分要約
『常楽寺綜攬』(1990) P24 P73
黒坂周平、半田孝淳 記。「常楽寺所蔵」とある。「北向観音縁起書」とも。
北向堂大悲殿本起不明
部分要約
『常楽寺綜攬』(1990) P33
山極尚一 記。

※1 勧進帳(『常楽寺綜攬』(1990) 38頁)
(表紙?)
延寶六 つちのへ 午 年
  勸進帳

(本文?)
 信州小縣郡塩田庄別所郷
 北向千手觀世音菩薩御堂
 敬奉大修繕奉加帳
夫當北向山は 人皇五十三代
淳和天皇の御勅定を蒙り天長
二年圓仁慈覚大師の開基たり
せば其功德無量大慈大悲㧞苦
與樂厄難消除の御誓ひ空し
からすと云
  別當常樂寺四十六世住
    権大僧都法印翁玄
于時正德二壬辰年應鐘吉祥日

(備考)
延宝六年戊午(1678)
元禄七年(1694) 北向観音堂が常楽寺持ちになる。
正徳二年壬辰(1712) 應鐘は10月。同年5月北向観音堂焼失。享保4年(1719)再建。
偶然かもしれませんが、1行の字数が揃っています。定型原稿とか活字印刷物から写した?


※2 「信濃國北向堂厄除千手観世音畧縁起」翻刻
『文教大学国文 第52号』(2023.03.15) P25-41
稲垣 泰一「『信濃國北向堂 厄除千手観世音畧縁起』について―解説並びに翻刻―」
https://doi.org/10.15034/0002000008
https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/record/2000008/files/BKK0004411.pdf

※出現した観音菩薩の言葉として、「我は是火坑出現の観音薩埵《さつた》なり、国中の人民仏神に帰依《きい》する事うすく、現世は邪曲《じやきよく》に長じ、未来は地獄《ぢごく》に堕《だ》せん事を悲《かな》しみ、衆生《しゆじやう》を済度《さいど》し、天下静謐《せいひつ》、国家豊饒《ぶねう》を守らん為、此地に出現せんと、汝を待事年久し、今汝が法味に預り歓喜《くはんぎ》踊躍《ゆやく》せり、即今我止《とゞま》る処最上《さいじやう》の勝地《しやうち》なるが故、我像《わがぞう》を北面《ほくめん》に安置すべし、我北に向はん事は北斗の千載にひとしく、寿命長久を守らんためなれば、信心堅固にして、ひとたび歩《あゆみ》を運《はこ》ぶ輩《ともがら》は、現世は厄難《やくなん》を除《のぞ》き、諸願を満足せしめ、未来はこと/゛\く成仏なさしめん、(以下略)」とあり、観音菩薩は、現世の厄除け・諸願成就だけでなく、未来の成仏も誓願しています。


※『常楽寺綜攬』(1990) 25頁に「もとより伝承のことであるから、学問的に真否は確かめようもなく、またその必要もないが、ただこの内容から想像されることは、常楽寺はもともと北向観音と並々でない関係をもつ寺であったということである。」とありましたが、伝承には確かめる必要があることも当然あります。このような論調は柳田国男の著書でも見られますが、結果的に、不確かな関係性を断定して、その根拠の調査・考察を遠ざけてしまうのでは…


※北向観音堂は実際は約32°北西を向いていて、善光寺とは向き合っていません。古代でも太陽や星の位置から北の方角はわかったと思われ、向きの話は後付け?
北向観音の「善光寺地震絵馬」によると、善光寺参りの仲間の中で、一人だけ別行動で北向観音に参詣しているので、江戸時代には片参り・両参りの話はなかったか、一般的ではなかったのかもしれません。
現世利益と未来往生を分ける話も善光寺地震以降に発生した俗説かもしれません。
江戸時代、善光寺の御印文(御血脈の御印)を頂けば誰でも極楽往生ができるという俗信が広まり、その中で善光寺地震が発生(弘化4 1847)、御開帳参拝の旅行者千人余りが亡くなりました。皮肉な被災を合理化し、不審・不協和を解消するのに、現世利益と未来往生を分ける話は、当てはまったのかも…

(「皮肉な被災」のリスクはどこにもあって、例えば、北向観音の本堂前は明治時代の盛り土で、いつかは崩れる可能性があります。(『常楽寺綜攬』41-42頁「夫婦杉の幹が根本から四、五尺埋められた」(約1.5m)、「境内に埋められた土量も一万立方米を越える」) 安全を優先するなら本来は人を集めるイベント等は避けるべき?)


※民俗的な言霊(ことだま)について考察すると… 別所⇒別れる所⇒縁切り⇒悪い縁を切る⇒厄除け というのが別所温泉の伝統的なコンセプトでしょうか。これに追加して、 悪い縁を切り、良い縁を願う⇒縁結び と展開させた?(最近の企画の デトックス&チャージ も基本的には沿っている? レイライン は直接的には関連しない?)


※『常楽寺綜攬』(1990) 38頁より引用。
「記録」によると、本堂は正徳二年(一七一二)五月六日夜、観音堂と隠居家(三間に五間半)が火災により焼失し、八年後の享保四年に間口五間、奥行七間の観音堂が費用三百十九両、米三十五石で再建されたとある。今の御堂の原型である。この火災のため「古仏」も焼失したので、国分寺村の仏師藤川弁朝に依頼し、常楽寺で二ヵ年の歳月をかけ新仏が作られた。假堂を造り、正徳四年一月入仏式を行ったという。

(文中の「古仏」の製作年代等は不明。)


北条国時、北条時春の勅撰集和歌
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2025年6月28日土曜日

長野県の方言「するしない」と「ないないことば」

『しおだ町報 昭和36年12月』塩田平の ないないことば
『しおだ町報 昭和36年12月5日』4頁 「塩田平の ないないことば」

テレビ番組で「するしない」という北信(長野県北部)の方言を紹介しているのを見ました。
上田市周辺で似た方言に「塩田平の ないないことば」というのがあります。(ありました?)
(これは自分の感覚なので、違うという人もいるかもしれませんが)語尾に「ない」(なえ、なゐ、なゑ)を付ける言葉で、特に決まった意味やニュアンスはありません。「ない」を「な」「なあ」「ね」「ねえ」等に置き換えたのとたぶん意味は同じ。
(塩田平にも表面的には同じ「するしない」がありますが、「するない」も普通です。「する・しない」ではなく「するし・ない」という意識があります。イントネーションもたぶん違って、「い」は下げるのが普通。)

早いない(早いな、早いなあ、早いねえ)
早いしない(早いしな、早いしなあ、早いしねえ)
あるない(あるな、あるなあ、あるねえ)
あるない?(あるな?、あるねえ?、あるよねえ?)
あるしない(あるしな、あるしなあ、あるしねえ)
あるしない?(あるしな?、あるしねえ?、あるよねえ?)
するない(するな、するなあ、するねえ)
するない?(するな?、するね?、するよねえ?)
するしない(するしな、するしなあ、するしねえ)
するしない?(するしな?、するしねえ?、するよねえ?)

北信の「するしない」は比較的新しい俗語で、同意・勧誘のニュアンスがある言葉みたいです。
もしかして、語尾「ない」が特定のニュアンスに限って生き残り、または、復活したものでしょうか…

荒井崇裕「北信方言「~シナイ」について」(2000)
http://hdl.handle.net/10091/00022431

『しおだ町報 昭和36年12月5日』 4頁
紙上講座 塩田平の ないないことば 東川多寿男
 塩田平の特有なことばとして、昔から伝えられていることばに、いろいろあるが、その中でおもしろいのは、塩田のないないことばである。「それでない」とか「あれでない」「ないそうだない」というように「ない」ということばが親しい間がらに、つかわれている。
 昔から「塩田のない、ないないことばはやめておくれ」といわれるぐらい「ない」ということばがつかわれたが、このごろではあまりつかわれないらしい、それでもときどき耳にすることがある。
 またこんなことばも残っている「そのうえせ、のつけておけ」その上にのせておけとか、あげておくようにという意味だが、他府県のものには、その言葉がわからないらしい。
 このような塩田平に残されている特有な「ことば」と思われるものを、ひろいあげてみると、なかなか数が多いものである。
 いけやあ(行こう)、いかね(行かぬ)、いいじやねいか(よいではないか)、いきやしよう(いきましよう)、ろくすつぽ、ろくつたま、ばんばあ(おばあさん)はなる(はじまる)、ばかこけ(ばかをいうな)、ばたこん(なわとび)、ほける(だんだん大きくなる)、ほたつぽ(薪のふといもの)、ほうたろ(ほたる)、ぼこ(幼児)、べちやべちや(よくぬれた)へえび(蛇)へえ(灰または蠅)、べろ(舌)、どうずく(なぐる)、どんびん道具(葬式道具)、どうだない(どうですか)とんでけ(とんで行け)、とべねえ(とべない)、とうやん(父)おべちや(おふろ)、おまんま(飯)おめえ (お前)、おざんざ(めん類)およはん(夕飯)、おしよぼる(折る)おき(たんぼ)わんだれ(お前たち)わりやいい(割合がよい)、かあやん(母)、かくねつこ(かくれんぼ)、がきや(子ども)よなべ(夜仕事)、たつぽ(たんぽの中)、たべなや(召あがれ)、そのかあち(そのかわり)、ぞぜえる(あまえる)なつぱ(菜)、うめい、うんめい(おいしい)、うそだうず(うそでしよう)、うちいれ(うどんの太いもの)、うそこけ(うそをいうな)、えべや(いくこと)、えんにや(否)、えれえ(えらい)えつける(のせる)、ええべべ(よいきもの)、でいろ(かたつむり)、でつかい(大きい)、ていら、でいら(平のこと)、あちやそうかつちや(ああそうだつたですか)、あんしやん(兄)、あんた(あなた)、きんな(昨日)、ゆうべな(昨晩のこと)、めためた(益々)、まんがれい(馬鍬洗)、しめし(おむつ)、しよつぺい(塩からい)、しんのい、しんのう(つかれたこと)、じやんぼん(葬式)、せつこうよい(精出してはたらく)
 以上の外にまだまだいくらもあげることが、できると思う。



方言は、最近の変化もあって、自分の語感がすでに伝統的なものではない可能性も… いくつか書いてみると…

おやげねえ
「親気ない」「人情がない」「ひどい」「理不尽」というニュアンスが強いです。「かわいそう」だけの意味で言う人もいて、それを聞くと違和感があったりします…

なから
「だいたい」「ほぼ」という意味で「適切・妥当な量」というニュアンスもあります。何の「なから」なのか多義的だったり省略されていることもあります。(「なから仕事が終わった」は「"仕事"のなから」と「"終わった"のなから」の両方の意識があり、例えば、7割の進捗のときに、「なからの作業は終わったけれど…」(だいたい主な作業は終わったけれど、まだ終わっていない部分もある)は言うかもしれませんが、「なから作業が終わった」(ほぼ終わった)は言いません。)

おはようでごわす
丁寧な朝の挨拶。「こんにちは」「こんばんは」では「ごわす」は聞きません。
「おめでとうでごわす」も改まったお祝いの言葉。
他には「おはようさん」「こんちは」「おこんちは」「おこんにちは」「おこんばんは」「お疲れー」「お疲れでごわす」「お疲れでごわした」「ごめんなすって」「ごめんよー」

にわごめーん
人の家の庭を通させてもらうときに言う挨拶。人がいてもいなくても言う。

ご苦労様です
仕事の始め・終わりの挨拶。「お疲れ様です」「お疲れです」「お疲れ」 終了時は「ご苦労様でした」「ご苦労でした」「お疲れ様でした」「お疲れでした」「ご苦労でごわした」「お疲れでごわした」
ビジネスマナーにあったような上下の使い分けはありません。勤務に対する慰労の言葉で、感謝の意味は直接的にはありません。何かしてもらって感謝を言うときは「ありがとうございました」

しんの、しんのい
疲れた。「しんどい」「しんど」も言う。

カミナリ
「小麦粉に油を入れて味噌汁で掻き、野菜を入れたもの。」(『信州上田附近方言集』35頁)
黄色の蕎麦掻きみたいなものだったような…

へーぼー
クマバチ。(クロスズメバチは「じばち」)

じくまん、くまんばち
オオスズメバチ。

せんげ
堰。子供の頃は、堰(せき、せぎ)の言葉を聞いたことがなく、「せんげ」しか知りませんでした。


アーカイブ・エディティング、報告書等
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2025年5月23日金曜日

アーカイブ・エディティング、報告書、上田市誌等

長野県 地域発 元気づくり支援金事業の資料(全国つるし飾りまつり他)
長野県 地域発 元気づくり支援金事業の資料(全国つるし飾りまつり他)

アーカイブの対象は、ウェブコンテンツの他には、団体の会報・会誌、議事録、事業報告などもあります。どんな形式で保存するのか、どんな情報を記録したいのか、どんな手続きが必要か等、検討すべきことはたくさんありそう……
例えば、ウェブで公開されている補助金事業の概要報告書は、ある程度定型的ですが、やはり情報量は少ないです。(日付が書かれていないものも多くあって、年と年度の揺れとか、いちいち確認しないといけないのは結構大変……) そして時間が経つと消されて行きます……

学校等で、数時間でいいので、地域の過去の資料を調べて報告するような実習はできないでしょうか。例えば「道の駅の計画と実績」「ご当地カルタの系譜」とか、もっとピンポイントで具体的な課題とか。
完成できなくても構いません。今ある情報が消えて行くことや、記録を残すことの意味について、一度くらいは考えてみても良いのではないでしょうか……

長野県「地域発 元気づくり支援金」
https://www.pref.nagano.lg.jp/shinko/kensei/shichoson/shinko/shienkin/index.html

「地域発 元気づくり支援金」優良事例の選定事業【平成20年度】
https://www.pref.nagano.lg.jp/shinko/kensei/shichoson/shinko/shienkin/jisshijokyo/yuryoh20.html
情緒溢れ、楽しく歩ける温泉街づくり 別所温泉観光協会(上田市)

「地域発 元気づくり支援金」 フォローアップ調査について (平成27年?)
https://www.pref.nagano.lg.jp/shinko/kensei/shichoson/shinko/shienkin/20150421followup1.html
☆県内10団体の特色ある事例
復活上田雛によるまちづくり 全国つるし飾りまつりin別所温泉実行委員会(上田市)


市誌については、これまでは記録が中心でしたが、今後は追加・修正等を含めた仕組みを目指して行けたら良いのではないかと…
上田市誌編纂の概略が、刊行の最終になった『総説 上田の歴史』の冒頭にありました。

『上田市誌 総説 上田の歴史』(平成16.3.1 2004)
刊行のことば 上田市誌刊行会長 上田市長 母袋創一
 『上田市誌』につきましては、平成四年に大勢の皆様から新しく『市誌』を発刊してほしいとの御要望をいただきました。折しも、上田市は平成十一年の市制施行八十周年を迎えようとしており、その記念事業の一つとして『上田市誌』の発刊が取り上げられ、平成五年に上田市誌準備委員会を設けて検討を重ねました。
 その結果、すでに上田市では、昭和十五年に藤沢直枝先生が中心となって執筆された『上田市史』があり、高い評価を得ていましたが、その後の第二次世界大戦を経過した六〇年間は上田市も激しく変貌《へんぼう》し、学問の進歩も目覚ましいものがありました。また、古《いにしえ》からの歴史を礎としてさらなる発展を期するためにも、新しい『上田市誌』による歴史の再確認と、市民への提供が必要であることを改めて認識しましたので、平成十一年から刊行を目指すこととなりました。
 平成六年三月に、東京大学名誉教授・国立歴史民俗博物館長(当時)の石井進先生から内容や本のつくり方について御指導をいただきました。同年四月に上田市は市誌編さん室を新たに設け、上田市誌刊行会、上田市誌編さん委員会を組織して検討を重ね、自然編・歴史編・近現代編・民俗編・文化財編・人物編・別巻の計三一冊の発刊を目指すこととなりました。
 指導者(国立歴史民俗博物館長退任後は監修者)に石井進先生、編さん委員長には黒坂周平先生に御就任いただき、平成六年十二月には、特別委員、執筆委員、調査協力員をお願いして本格的な調査・研究に着手し、平成十一年十一月の上田市制施行八十周年記念式典に併せてまず三冊を発刊し、その後も半年ごとに三冊ずつの発刊を続けてきました。
 この間、平成十二年三月、黒坂周平先生の編さん委員長退任・病臥・ご逝去のことがあり、十二年四月以後、小池雅夫先生が編さん委員長に御就任くださり刊行を受け継いでいただきました。また、平成十三年十月には監修者の石井進先生が急逝されるという、思いがけない悲しい事態になりましたが、平成十四年一月、後任の監修者に東京大学教授・文学博士佐藤信先生をお迎えすることができました。(以下略)



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2025年3月30日日曜日

仏像は動く、菩薩立像の謎

長福寺銅造菩薩立像の説明

1月に、仏像がテーマのテレビ番組で、長福寺銅造菩薩立像の発見を「大正時代」としていました。疑問に思って、関連の話を探してみたのですが、よくわからず……
『信濃 昭和10年8月』の記事では「二三百年前」でした。(不確かな伝承があるだけで、別の由来の可能性もあるということ?)
国の重要文化財の来歴の話なので、それなりに重要と思うのですが……

NBS「みほとけ信州美仏めぐりin上田」 2025年1月31日(金)放送
https://www.nbs-tv.co.jp/program/focus8/single.php?id=95


「昭和19(1944)年に信州夢殿と共に長福寺へ寄進」は正確ではなく、仏像の所有者変更は昭和16年12月5日(官報)、八角堂は戦争中の昭和17年起工、19年竣工のようです。(戦後まで続いたという話も。) 資料によって、昭和17年、18年、19年等の表現がありました。

※生島足島神社社殿も信州夢殿も、戦勝祈願と死者への鎮魂の思いを込めて建てられたはずで、文化財として解説するときに、それを省略したり僅かな言葉で済ませるべきではないのでは……(インバウンドでトラブルの原因になる可能性もある?)

※『上田市誌 文化財編』の「昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。」(81頁)は誤りかも。昭和13年は小布施の吉沢家から大塚稔が仏像を入手した頃でしょうか。

『上田市誌 文化財編』(1999) 81頁
この夢殿観音と呼ばれる菩薩像は、もとは上高井郡小布施町(旧都住村)の旧家に伝わるものでしたが、昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。そして菩薩を祀る信州夢殿が昭和十七年(一九四二)に建てられました。

(※仏像展の講演でも不正確な内容になっていました。一度、記録を整理するべき?)


「今まで3回盗まれて戻ってきた」は、公式サイトにもある話ですが、探してみると、昭和23年と平成7年の2回は見つかりましたが、残りの1回は見つからず……

『信州上田 塩田平ガイドブック』(平成28 2016)では「二度の盗難」。(10頁「菩薩立像は二度の盗難に遭い、長い間行方不明になっていたが、二度とも無事戻ってきた。」)

「分かっているだけで3回」という言葉はいくつも見ましたが、その情報源は示されていません。
例えば、小布施で盗難があったことが、本当に「わかっている」のでしょうか?

(もしも、伝言ゲームの勘違いの可能性もあるとしたら、例えば、平成18年に返還されたときに、「(今回を含めて)2回盗まれた」→「(今回を含めず)2回盗まれた」→「今回で3回」→「長福寺で2回だから小布施で1回あったのかも」→「小布施で1回、長福寺で2回盗まれた」と変化したとか?)

昭和23年の盗難についても不明確な部分があります。
・発見は盗難の「次の日」という話と「1か月後」という話がある。
・盗んで川に捨てるのは不自然。
・浸水した仏像(旧国宝)の清掃や修理の記録が見当たらない。
(もしかして、子供のいたずらで持ち出されて、川原に放置されていたとか?)

清水利雄編『小県上田歴史年表 続』(昭和35 1960)
(昭和23年)四、一二 東塩田村長福寺の国宝救世観音盗まる。幸い次の日産川の川の中より子供達どじようと共に救い出す

UCVレポート(平成18年10月22日仏像一般公開のレポート)
この菩薩立像は以前にも盗まれたことがあり、そのときには1か月後に近くの用水路で発見されています。


『信濃 昭和10年8月』
吉澤氏の古佛像に就て
 ▽玻璃版は正面と背及側面
   栗原生
 去る五月二十六日小布施、都住に開催の信濃史談會に際して發見されたものが二三あつた。其の中の一つは都住中子塚區吉澤龜之助氏方に前代から奉安された觀音の古佛像である。
 同家の傳へに依れば二三百年前同區字下谷地と稱する人家を離れた畠の地下二三尺の所より發掘されたとの事である。
 寫眞版でも窺ひ得る通り、光背も臺座も共に失はれ、剩へ左手もなく誠に痛々しい姿に成つては居るが、相好と云ひ、時代と云ひ平安前期のもので、北信に三體(上水若槻の山千寺、下水太田の新當寺と併せ)と云ふ古佛像であると、當日栗岩氏は説明された。
 由來都住村では藥師堂の特建物、準國寶の藥師如來、藤原期と稱せらるる聖觀音(淨光寺)等、世間周知の事なるにも拘らず、この古佛像のこれまで餘り知られなかつたのは抑も何故か。
 吉澤家では昔から鄭重に奉安して置かれ乍ら一般に參拜を許さなかつた爲めか、其安置の爲め別に結むだ草庵は今尚ほ一切其儘ではあるも、これも時勢の變、最近養蠶のために尊像は居宅の座敷へ移し御堂は雜庫に利用されて居る。
 處で此の古佛像を今囘の史談會一行に見て頂きたい、見せてはといふ人が吉澤氏の友人にあつて、私達は夫等の人々の心配で會前の十四日に初めて拜觀した。
 私の今日迄に親しく取り上げて拜觀した金銅佛ではこれが第二囘目で、(其の一は南安曇郡栗尾山滿願寺の彌勒菩薩で白鳳の稱あるもの)實に襟を正して拜した次第である。
 身丈九寸、文字は何處にも見えぬが茲に殘された問題は此の佛像が最初何人に據つて如何なる所に安置されたかにある。今日迄の所では高井郡殊に延德沖の南部には此の時代に此の佛を奉安された樣に思へる寺院は文獻にも口碑にも存してゐない。
 然し乍ら湖南の高井郡は千曲川河東の文化の吹き溜りとも云ひ度い場所柄であるが故に、何時如何なる大氏人があつてこれを奉戴したのか知れない。況んや南北朝時代の如きは中央史的大氏人がこの地方に出入頻繁であつたり、殊に千曲川を隔てて西には古代文化の中核地のあるありと云ふに於てをやである。是等の點もやがては詳しく研究されて發表される時が來るであらう。


鎌倉街道歴史遊歩道
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2025年2月28日金曜日

鎌倉街道歴史遊歩道

鎌倉街道
鎌倉街道(広報うえだ 昭和54年8月16日 前山寺の西)

昭和の『広報うえだ』で「鎌倉街道歴史遊歩道」というのを見かけたのですが、思い当たる節はあるものの(たぶん、今のあじさい小径と重なる)、具体的なコースや作られた経緯は知らなかったので、少し調べてみました。

1975(昭和50) 「三·五キロにわたって「鎌倉街道歴史遊歩道」ができ道案内板もある」(前山寺から中禅寺が約1.4kmなので、残りは、前山寺-手洗池-安曽神社(約2.3km)のコースか?)
1981(昭和56) 11月1日 塩田三代北条まつり(別所温泉と前山で時代行列、ふるまい等。翌年、翌々年も開催)
1983(昭和58) 上田市予算 商工費 塩田史跡めぐり道路改修工事費 1100万円
1984(昭和59) 上田市予算 商工費 鎌倉街道歴史遊歩道整備事業 452万円
1984(昭和59) 4月14・15日 前山塩野神社 甲子祭(60年に一度)
1985(昭和60) 4月3日 NHK「真田太平記」放送。(翌年3月19日まで 全45話)

現在は、パンフレット等では見ませんが、現地には「鎌倉道遊歩道」の案内表示があるようです。手洗池の西方、安曽神社、砂原池、上窪池など。
ただし、上窪池では、安曽神社北側の小道の写真に「鎌倉道遊歩道 650m」と書いてあるだけで、どこのことを言っているのか不明です……(上窪池から安曽神社までは直線距離で約1.5km)
また、柳沢から安曽神社までのコースもはっきりしません……
(「鎌倉道」自体も、そう呼ぶ理由が特にあるのか、ぼんやりした印象。隣接する集落間の道で、もっと古くからあったと思われますし、その他の道もあって日常的に使われていたでしょうし……)


服部英雄「鎌倉街道・再発見」(1994)
https://hdl.handle.net/2324/1517814
Ⅱ 都道府県による歴史の道調査 (七)長野県
22頁
塩田平 以前に塩田城跡(上田市)を現地調査した折、前山寺と塩田城の間の道が鎌倉街道であると説明を受けた。のちに黒坂周平先生にその話をしたら「あれはまちがいだった」とのことだった。それより北方、下城戸を通るのが正しい鎌倉街道とのことである。
 『上田小県誌』(一)(一九八〇)をみると、先述の前山寺前から砂原峠に通ずる道が直路《すぐじ》、即ち軍用道路で、一方、下城戸を通る道が本道だったとあり、「この鎌倉とを結ぶ道(現在鎌倉道と呼んでいる)」(九八九頁)というまぎらわしい記述があった。四三五頁の地図では下城戸通過分の道のみに「鎌倉街道」とある。研究者が推考した「鎌倉街道」と、実際に伝承されてきた「鎌倉街道」は峻別して記録に残すべきではなかろうか。この道についての歴史の道の報告はない。


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2025年1月31日金曜日

龍骨、立石(龍ヶ沢)

寶珠山龍光院之景(『信濃宝鑑』1901)
寶珠山龍光院之景(『信濃宝鑑』1901)

1月なので干支の話題を…
昨年、北条国時・北条時春の記事の中で一度書きましたが、明治時代の『信濃宝鑑』によると、前山の龍光院の寺宝に「龍骨」があるそうで、昔、大蛇を退治して埋めたら祟りがあったので、掘り返して仏前で供養した、とのこと。
由来は後付けかもしれませんが、一応、何かの用途はあったのかも。今はどうなのか、わかりませんが… (地元ではあまり関心はない?)

渡辺市太郎編『信濃宝鑑』(1901)
長野縣信濃國小縣郡西塩田村大字前山
曹洞宗 寶珠山龍光院之景
(中略)
寶物
一 龍骨  個
寺傳ニ曰ク、當山開基ノ時、深村中大蛇アリ。之レヲ捕殺シ境内ノ南方ニ埋ム 爾後災異数々至ル 依テ之レヲ発堀シ 其頭骨ヲ納メテ佛前ニ供シ埋所ニ石ヲ建テ祀ル 今其地ヲ立石、又龍ヶ沢ト云フ
一 木像
塩田入道 道祐ノ像 一躰


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2024年12月28日土曜日

縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?

縛られ地蔵(左:南蔵院 右:品川願行寺)
縛られ地蔵(左:南蔵院 右:品川願行寺)(本山桂川『日本民俗図誌 第二冊』昭和17 79頁)

『上田小県誌』の「表35 文献にあらわれた上小地方の伝説」に「縄目地蔵(塩田町とあるのみ)」というのがあるのですが、実際には、該当するような地蔵像や伝承・風習は見当たりません。塩田地域だけでなく、小県郡全体でも見つからない……(『上田小県誌 第5巻 補遺 資料篇1』昭和48 1973 615頁)
出典を辿ると、『土の鈴』という大正時代に長崎で発行されていた雑誌(会誌)が初出のようでした。実物は未確認で、確認してから記事を書こうと思ったのですが、それから何年も経ち、もう今年も終わるので、一度、書いておきます……
この雑誌を参照したのが以下の本です。

『日本伝説名彙』柳田国男監修 日本放送協会編(昭和25 1950) 415頁
繩目地藏  長野縣小縣郡鹽田村
 石地藏に旱天に降雨を祈る。荒繩で縛り、降雨があると、これを解くといふ。(土ノ鈴 一六)

※改版(昭和46 1971)では村名に「(現塩田町)」を追加。
※『土の鈴 第16輯』大正11年12月 土の鈴会 主宰:本山桂川

そもそも「小県郡塩田村」が実在しません。東塩田、西塩田、中塩田のどれかだろうと推測されたのかもしれませんが、間違いや別の塩田村と取り違えられた可能性も考えられます……
(ちなみに、小泉 山口の塩田神社の一帯も「塩田村」と呼ばれていたという話があります。もし、そうなら、上田原合戦の戦場でもあるので、武田の古文書の「塩田の城」は、ここの村上の城のことを言っていた可能性もある?)

本山桂川(1888-1974)『信仰民俗誌』(昭和9 1934) に「神仏脅迫祈願」「縛られ地蔵の類形」の記事がありましたが、この小県郡の話はありませんでした。
ちなみに、同書には「倒(さかさま)にして水中に浸す」等の話も。

本山桂川『信仰民俗誌』(昭和9 1934) 239頁
阿波名東郡佐那河内村にも「雨乞地藏」といふがある。旱魃の時には、雨乞の祈禱をして附近の池へ此地藏像を擔ぎ行き、倒にして水中に浸すと雨が降ると云はれてゐる。(後藤捷一氏)。


地域の「代表的な伝説」の中には、いつ頃どこで語られていたのか不明で、近世以降の書籍等が起源である可能性がある、むしろ都市伝説に近いような話もあります。(伝承と都市伝説の区別は実質的に不可能で、民俗学でもほとんど放棄されている? そのため、実態から離れた考察がされたり、民俗学の論説が伝承を上書きしたりもする?)
しかし、本に書かれた話が受容されないこともあるようで、縄目地蔵は、外部から地域の伝説集に伝播したものの、定着しないまま、放置されてきた、という事例なのかもしれません。
(ただし、今後、受容される可能性がないわけでもなく…… 例えば、塩野神社や生島足島神社は、平安中期の『延喜式』の僅かな記述が、約800年後の近世になって再利用されたものです……)

伝説の伝播の事例と言えるかどうかわかりませんが、小学校の生徒が先生から縛られ地蔵の話を聞いて、地元の石地蔵を縛られ地蔵と解釈する話がありました。それまでは縛られているとは認識していなかったようなので、もしかしたら、例えば、古い前掛の紐だけが残っているのを見て、縛られていると思ったとか……
(豊島区の「目白通り二又子育地蔵尊」のことだとしたら、現在は縛られてはいないようです。)

桂田金造『尋常一年の綴り方』(大正6 1917) 180頁
 然らば、經驗はかくまで深く滲みこんだものばかりかといへば、左樣でもない、私は以前次の如き例にあつた事がある。私は「縛られ地藏」といふつまらない自作の話を兒童に試みた際。兒童は相當の興味を以て聞いたらしい。そしてその日の午後、一年の兒童は長崎村のあたりを散歩した。しかるに、そこに一つの石地藏がある、偶然にもその地藏が紐で縛られてあつた。所がこれは前からこんなにして立つてあつた石地藏であつたにもかゝはらず。その日に限つて兒童の注意を引いて、「あゝ縛られ地藏」「縛られ地藏」とよつてたかつて、嬉しがつて無邪氣な兒童は、後から前からこれを眺めて、まだ足りなかつたかそこらの繩
のはしを拾つて來て、又もや石地藏を縛つたり、はやし立てゝ歸つたものらしい。そして早速私を取りまいて、
「先生縛られ地藏がありました。」
「あの長崎村の十町川から少し行つた所に道が三つに分れてゐる所があるでせう、そこにあるのですよ。」
「お地蔵樣は立つて拜んでゐるのですよ。」
「ほら、屋根がしてあるお地藏樣があるでせう。」
「地藏さんは眼を閉ぢてゐましたよ。」
「涎掛がきたないのですよ。」
「何々」「何々」
 とそれは詳細をきはめて、私をして了解せしめやうとつとめた。これらは經驗と、新しい觀察とが比較的短い間にあらはれた一例である。



歳の瀬に…
返歌?
この世をばあの世とぞ思う望月の妬ましきこともなしと思えば

二年参りにて
神仏に金運開運あるならば賽銭箱も無用なるらん


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2024年11月23日土曜日

上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?

上田市誌
上田市誌(『広報うえだ 平成16年/2004 8.16』7頁)

20年前の2004年(平成16年)は、4月に上田情報ライブラリーが開館、11月に『上田市誌』の刊行が完結したという年。
情報ライブラリーは20周年の記念事業が行われましたが、上田市誌の方はどうだったのでしょう。(合併前の旧上田市の事業なので、力の入れ加減が微妙だったとか?)

「上田市誌編さんだより(105)最終回」は、監修の 佐藤 信 東京大学教授(当時)の文で、今後の史料類の保存・活用について触れられていました。
活用については、市誌全体のデジタル化、データベース化の話になると思いますが、検討や計画は、刊行後20年の間にあったのでしょうか?


広報うえだ 平成16年11月1日号 5頁
上田市誌編さんだより(105)最終回
『上田市誌』と日本史
上田市誌監修者 東京大学教授 佐藤 信
(中略)
なお、編さんの過程で寄贈や収集によって集められた大量の貴重な古文書や写真・地図などの史料類が市誌編さん室にはあふれています。私の最後の心配は、上田の歴史の「あかし」であるこうした史料類が活用されずに「お蔵入り」になってしまわないかということです。史料類を保存し、『上田市誌』の成果を市民や全国に発信し続けていく役割を果たし、上田の歴史・文化を学ぶ人々に情報サービスができるような体制ができるとありがたい、と思っています。


上田情報ライブラリーは開館20周年を迎えます
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/96023.html
上田情報ライブラリー開館20周年事業
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/96583.html


なお、2004年は市誌編纂の顧問をされた黒坂周平氏が亡くなられた年でもあり、今年は没後20年。(広報うえだ 平成16年4月1日 15頁等)
(Wikipedia で逝去の日付が2003年2月7日になっていました… 参考文献の『古代交通研究 第13号』の表紙を見たら「2003年度」とあって、もしかして、この数字を使ったとか?(発行は「2004年5月20日」) それと、参考文献の記事タイトルに誤字…)


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2024年9月28日土曜日

下小島の雨降り地蔵

雨降り地蔵の由来(下小島)(中塩田村時報 昭和27年11月)
雨降り地蔵の由来(下小島)(中塩田村時報 昭和27年11月)

昭和27年11月の中塩田時報(中塩田村時報)に下小島の雨降り地蔵の話がありました。
祈りの言葉は「南無地蔵大菩薩 雨降らせ給へな」
上小島と下小島は元は小島村で、一緒に池生神社(諏訪大明神)・小島大池で雨乞いをすることもありましたが、その他に地蔵尊にも祈ったということでしょうか。どんな慣習があったのかは未確認です。

塩田は諏訪社が多いですが、湯川沿いは、八木沢 兜神社、舞田 塩野入神社、保野 塩野神社、中野 諏訪神社、上小島・下小島 池生神社、どれも諏訪社です。(保野塩野神社は「諏訪大明神宮」(宝永指出帳)で、祭神は「塩垂津命、健御名方命、素盞男命」(明治の町村誌))
祈りの言葉は「雨降らせたんまいな、ナーム、諏訪の大明神」(『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』中野)等でしょうか……


『中塩田村時報』昭和27年11月27日
分舘めぐり =下小島の巻=
雨降り地藏の由來
部落の西側を、人家に沿つて、流れる水路は、大池の水が流れる主要水路である。水路と並んで、一間幅の道路があり、所謂、下の角がある。下の角も別所街道寄りの所に、立派な格子作りの家に、地蔵尊が鎮座する。
其の昔、上小島から遁がれて、下小島の地に、新開地を求めた、当時の開拓者達が、土地の守本尊として、祀つたものである。
元禄五年九月二十四日建立されたが、降つて、文久三年、今も尚、地蔵尊の前に建つている石燈籠が建てられた。
以来毎年九月二十四日には、子供達によつて、地蔵尊のお祭りが行はれる。
又、日照りの続いた時には、人々が集つて、雨乞いすると、一天俄かにかき曇り、慈雨をもたらしたといふ事である。
地蔵尊がある所から、別所街道迄の曲りくねつた坂道を、人呼んで地蔵峠と云ふ。
地蔵尊を抱う様にして、生い茂つていた、ひもろの大木は、数百年の風雨に耐えて来たが、今春 三月果樹の赤星病撲滅の為に伐られたが、公民舘の欄間に用いられて区民の話題になつている。


『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』(昭和63年 1988) 95頁
大正十三年の大旱魃には昼夜交替で鐘をたたき調子を合せて「南無地蔵大菩薩雨降らせ給へな」と祈願し、近郷からも大勢の参拝者が訪れて一週間後には恵みの雨がふりました。


金井の雨乞い地蔵尊
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大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
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大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
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もう一人の林東馬の謎
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北条国時、北条時春の勅撰集和歌
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もの恋し火ともしころを散る桜
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2024年8月25日日曜日

金井の雨乞い地蔵尊

金井の雨乞い地蔵尊(神科村誌)
金井の雨乞い地蔵尊(神科村誌 439頁)

『神科村誌』(昭和43 1968)に、戦争中の雨乞いの記事がありました。(昭和17年8月)
文章と写真撮影は、編集顧問 清水利雄氏。(「神科村誌あんない / 六 執筆礼言 / ○清水編集顧問には、身を以って、第一章と「部落めぐり」を書いていただき、始めと終りをひき締めた。」)

雨乞いにいろいろなルール設定(難易度設計?)があって、興味深いです。(「出座したが最後雨が降るまで必ず引きこめない。もしこのことに反すれば、より以上の災害が来る」「この地蔵尊の乾かざるよう休みなく水をぶっかける。もし乾く事があればご利益解消という」)
寺社はあまり関係しないのか、僧侶や神職についての記述はありません。
真剣だったとは思いますが、お酒も入って、楽しみの面もあったのかも。

雨乞いの加虐性については曖昧な印象。(本質的にスペクトラム?)
地蔵(石の坐像)を運ぶとき、はしごを輿にして上に載せて「結わいつける」のは、落とさないように固定する目的だと思いますが、見た目には、縄で縛って引き回すようにも見えるかも。
水中に入れるのは、水をかけ続けることの延長であり、同時に、面倒だから沈めてしまえ、という気持ちにもなったかも…

『神科村誌』(昭和43 1968) 437頁
(十二 部落めぐり 山口 金井 蛇沢)
 地区の雨乞い
 上田盆地は全国的に有名な雨量の少ない所である。このため用水池や用水堰の発達もまた有名である。しかし絶対雨量の少ないこの地方では、万駄《*だん》たきなどの雨乞いも各地区毎に数多く行われている。神科地区でも特に水に恵まれない上田地区の雨乞いが有名で、山口の千駄たきと特に金井の雨乞い地蔵の行事はものすごかった。

●山口の千駄たき
 消防団が主体になって各家からも出た。役員は朝から出て早くから用意した。まず大きな四本の木を柱にくみ、まん中にしんを立てた。柱と柱の間には横木を何本となく渡してその間には燃え易いそだ木を一ぱいさしこむ。あっちからもこっちからも持ちはこばれた枝で山のよう。
 やがてころを見はからって火がつけられる、と、めりめりと焼けた空にほのほが立ちあがる。太郎山の中腹に天をこがす一大火柱の出現――村じゅうあげての願いをこめて。焼け残った柱は、希望者に分けるのが例であった。

●金井の雨乞い
 雨乞い地蔵尊は鎮守草創《**くさわけ》神社前の古い道ばたの吹きさらしの小堂の中に安置されている。『元文四年 六十六部供養』と銘が刻まれている。最近では大正十三、十四年と昭和十七年との二回が記録されている。特に昭和十七年の八月に直接この行事を写真にしようと出向してその真剣さには背をうたれた。
 まず区集会を開いて雨乞いまで 持ちこむかと熟議をこらす。出座したが最後雨が降るまで必ず引きこめない。もしこのことに反すれば、より以上の災害が来る。そこで万一の場合には女子も出動する相談づくで決定となる。何しろ弥吾平の桑の葉が日に日にしおれて来る。村の唯一の丘堰にも水一滴も来ない。こうした天空を見上げながら、区集会全員一致で決定となると、
 第一に矢出沢川金井橋より百メートル下位の淵のところをせきとめて水をたたえる。その中央に土俵を積み重ねて地蔵尊の座をつくる。準備完了と共に雨乞い地蔵尊をはしごに結わいつける。鏤《しよう》に太鼓にあわせて『雨降らせ給え』とさけびながら行列をくんで先の台座の上に安置する。そしてこの地蔵尊の乾かざるよう休みなく水をぶっかける。もし乾く事があればご利益《りやく》解消という。村じゅう一戸一名ずつ出動した男子が、酒をのみのみ、かわるがわる夜、昼なく、鏤と太鼓と「雨降らせ給え」の祈りに合せて、水を手でぶっかける。「いまだかつて三日にして降らざる事なし」という信念のもとに――。
 実に真剣そのものである。昭和十七年太平洋戦争熾烈《**しれつ》にして物資いよいよ窮迫というこの時、集まった酒五斗五升という。もっとも、この行事の最中には、遠く近くあちこちから、酒一升をつるしての陣中見舞と応援の人達が多かった。この昭和十七年のときも三日日に確かに夕立が来た。区民全員欣喜雀躍、地蔵尊をかつぎ帰る行列は実にこうごうしいかぎりであった。

(※「鏤」は鉦?)

大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
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2024年7月28日日曜日

もう一人の林東馬の謎

林東馬
林東馬(『レコード音楽技芸家銘鑑』昭和15年 126頁)

林東馬と言えば幕末・明治初期の東馬焼ですが、以前、ネットを検索していて、同名の有名人?がいることを知りました。昭和前期の歌手の林東馬です。東塩田の出身、昭和12年(1937)にビクターの歌手としてデビュー、レコードは昭和15年までに10枚余り(活動期間は約1年半? 主に所謂 戦時歌謡)、戦後は昭和25年から29年に10枚余り(コロムビア、林康夫名義)。
その後、作曲家に転向、1967年頃まで歌謡曲(演歌)のレコードに10曲余りを提供(林恭生 等の名義)。
1968年以降の活動はわかりませんでした。

情報は少なく、誤情報もあるかも…
林東馬・林康夫以外のレコードについては、写真や音声からは別人のように思えました。
本名は記事によって林康夫または林東馬…
生年月日は大正7年2月3日と大正8年11月3日の記事がありました。(二と11の取り違えとか?)

林東馬が芸名だとしたら、幕末の林東馬を何か意識したのか、それとも偶々でしょうか?

地元の関係した話も聞いたことはありません。活動期間が短く、戦争と重なったために、あまり話題にならなかったのでしょうか…

できれば正確な記録・資料を残して頂きたいのですが…


レコード世界社『レコード音楽技芸家銘鑑』(昭和15.10 1940) 126頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056525/1/74

林 東馬《ハヤシ トウマ》(應召中)
 大正七年(※8年?)二月(※11月?)三日長野縣小縣郡東鹽田村に生れ、十四歲上京、東京市芝區巴町長谷川花店に入り、性來の歌好きから業務の餘暇を見ては歌の獨習に專念す。其の後同店が日本ビクターの御用を受けて花の取引をするやうになつてからは、一層歌手への熱望を燃やし、一意勉勵するうち昭和十三年一月遂に佐々木俊一氏に天分を認められ、ビクター歌手として異數の推擧を受くるに至る。當時新聞紙上に「花屋の店員から流行歌手に轉向」と報道され、世の視聽を集めたものである。當時より奧田良三氏に聲樂を師事。デヴユーは愛國流行歌「戰友想へば」。その稀に聽くバスと熱心な勉强ぶりとは、將來の大成を期待されてゐる。昭和十四年九月應召。


(※以下の雑誌記事もありましたが、真偽は未確認。
「以前ビクターレコードに居て少しは名前の知れた林東馬、(中略)最近は淺草の金龍館に時々現はれる位」(『音楽の友』1942.12 ※昭和17年には東京で音楽活動をしていた?)
「戦時中は病気静養の為活躍せず」(『平凡』1952.12)
「戰後ずつと藝能界から遠ざかり歌謠學院で後進の指導に當つていたが」(『近代映画』1952.5))


塩田平ガイドマップ(15) 林東馬の碑
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34720794

北条国時、北条時春の勅撰集和歌
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2024年6月24日月曜日

北条国時、北条時春の勅撰集和歌

伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))
伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))


北条国時、北条時春の勅撰集和歌
北条国時、北条時春の勅撰集和歌


平安時代末の塩田庄にはたぶん手塚光盛と塩田高光がいて木曽義仲に従い滅亡、鎌倉時代には惟宗忠久(島津氏初代)、比企能員の変(1203)の後に北条氏(北条義時、泰時、重時、義政、国時 等)、南北朝時代から村上氏(代官 福沢氏?)、その後、武田、真田、仙石、松平。

北条義政(1243?-1282 重時の5男)の子が国時、時治(時春)、胤時で、胤時はほとんど記録がなく、国時と時治も情報は少なく、生年も不明です… 義政の生年没年から考えると、1260年頃から1282年の間。北条義政の没年の1282年には満年齢で0~約22歳。国時の没年とされる1333年には51~約73歳。

時春は新後撰和歌集(1303)に1首、玉葉和歌集(1312)に2首、国時は玉葉和歌集(1312)に3首入集しています。
新後撰和歌集(1303) 21~約43歳、玉葉和歌集(1312) 30~約52歳。

玉葉和歌集(1312)には、宗尊親王(1242-1274 6代将軍1252-66)の歌と時春の歌が並んでいる箇所と、北条義政と国時が並んでいる箇所がありました。
宗尊親王は北条義政とほぼ同年齢で、将軍在位中は時春は年少かまだ生まれていないので、直接の交渉はなかった可能性が高いのではないかと思います。北条義政と国時も、親子ですが、歌のやり取りがあったかは不明です。
玉葉和歌集が成立した1312年は、宗尊親王の没後38年、北条義政の没後30年、国時と時春は30~約52歳。
勅撰集入集はそれだけで十分に名誉なことだと思いますが、この歌の配列は特に厚遇だった可能性はないでしょうか。国時は本当に嬉しかったと思いますし、名誉ある家系として広く知らしめることにもなったのかも。

臆測でしかありませんが、北条義政の死後、子供達は年少か成人したばかりで、家を継いだというより、親類の庇護下にいた可能性も。負け組として軽んじる人もいれば、リスペクトして支援する人もいたのではないでしょうか。
(もし、もっと冷遇されていたら… 名前は残さなかったかもしれませんが、他の諸流と距離を置いて、信州で南北朝時代まで続いた可能性もあったのでしょうか… もし、塩田北条氏に(真逆の)反得宗の気運があったら、信濃は流動化して、中先代の乱もなく、早々に割拠状態になった?)

国時の「式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を」(玉葉和歌集 巻第九 恋歌一)の「式部卿親王家」は、久明親王(1276-1328 8代将軍 1289-1308 式部卿 1297-)でしょうか。式部卿任官(1297)から将軍辞任(1308)の間の可能性がありますが、それ以外もなくはないかも…
久明親王の生年(1276)は国時・時春の生年の範囲(1260年頃から1282年)の後半になります。これも臆測ですが、恋歌であることや「おなじ心を」という言葉から、国時は久明親王と同年代のような雰囲気も感じます。北条義政が10代の頃に同年代の宗尊親王(11歳で6代将軍)の近くで諸芸を学んだ(推測)ように、国時・時春の兄弟も同年代の久明親王(14歳で8代将軍)の側で和歌等を学んだという可能性も考えられないでしょうか。その中で生まれた歌、評価、人脈が勅撰集入集に繋がった、という流れは一応は自然に思えます…(やはり違う可能性は残り続けますが…)

歌の中では、時春の「風にゆく峯の浮雲跡はれて夕日にのこる秋の村雨」「西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山」は塩田の風景が連想されました。時春も国時も若い頃はほとんど鎌倉か京都にいたのかもしれませんが。

ところで…
北条国時と同じ読みで、北条邦時(1325-1333)(高時の長男)がいますが、1331年、元服時に9代将軍 守邦親王(1301-1333)から邦の字を受けたそうなので、もしかしたら、それ以降は国時の名前は使わなかったのかも。

塩田と狩野と言えば、太平記の塩田民部大輔俊時と狩野五郎重光。この2人がモデルなのでしょうか… ちなみに塩田の今の読みは地元では「しおだ」です。昔がどうだったかはわかりません…

太平記の「塩田父子自害ノ事」の国時は、俊時に先立たれた後、読経を続けて、狩野重光に嘘で催促されて自害、鎧を奪われて遺体は放置? という、あまり格好は良くない最期でしたが(もちろん本当のことはわかりません)、子供が目の前で死んでしまい、ただ茫然として、読経しながら呆けていたとすれば、お坊ちゃん気質の、やさしい人だったのかな、とか妄想してしまいます…


新後撰和歌集(1303)
 巻第十四 恋歌 四
  恋歌の中に 平時春
 あはぬ夜のつもるつらさは敷たへの 枕のちりそ先しらせける
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2579163/1/72

玉葉和歌集(1312)

 巻第五 秋歌 下
  秋雨を 中務卿宗尊親王
 雲かゝる高根のひはらをとたてゝ むらさめわたる秋の山本

  平時春
 風にゆく峯の浮雲跡はれて 夕日にのこる秋の村雨
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562646/1/15


 巻第九 恋歌 一
  式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を 平国時
 逢とみるその面影の身にそはゝ 夢路をのみや猶頼むへき
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/12

 巻第十 恋歌 二
  題しらす 平国時
 恋しさのなくさむかたとなかむれは 心そやかて空になりゆく
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/29

 巻第十五 雑歌 二
  題しらす 平時春
 西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/11

 巻第十八 雑歌 五
  平義政
 夢ならでまたはまこともなきものを たが名付けけるうつゝなるらん

  平国時
 身のうさを思ひねにみる夢なれは うつゝにかはるなくさめもなし
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/62



『太平記』(刊 慶長12 1607)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2543812/1/57

○鹽田父子自害(ノ)事
爰ニ不思議ナリシハ鹽田陸奥(ノ)入道(、)道祐カ子息民部
大輔俊時親ノ自害ヲ勸(メ)ント腹掻切テ目(ノ)前ニ卧タリケ
ルヲ見給テ幾程ナラヌ今生ノ別ニ目クレ心迷(イ)テ落ル泪
モ不留(ラ)先立ヌル子息ノ菩提ヲモ祈(ノ)リ我逆(ク)修ニモ備ヘン
トヤ被思ケン子息ノ尸骸ニ向テ年來(ロ)誦《ヨミ》給ケル持《゛》經ノ
紐《ヒホ》ヲ解要(ウ)文𠁅(ロ)々打上(ケ)心閑ニ讀誦シ給ケリ被打漏タ
ル郎等共主ト共ニ自害セントテ二百餘人並居タリケル
ヲ三方ヘ差遣シ此(ノ)御經誦(ミ)終《ハツ》ル程防矢射ヨト下知セラ
レケリ其(ノ)中ニ狩野五郎重光計ハ年來ノ者ナル上近ク
召仕レケレハ吾(レ)腹切テ後(チ)屋形ニ火懸テ敵ニ頸(ヒ)トラスナ
ト云含(ク)メ一人被留置ケルカ法華經巳ニ五ノ巻ノ提
婆品ハテントシケル時狩野五郎門前ニ走出テ四方ヲ
見ル眞似ヲシテ防矢仕ツル者共早皆討レテ敵攻(メ)近付

候早々御自害候ヘト勸(メ)ケレハ入道サラハトテ經ヲハ左
ノ手ニ握(キ)リ右ノ手ニ刀ヲ抜テ腹十文字ニ掻切テ父子
同枕ニソ卧給ケル重光ハ年來ト云重《゛》恩ト云當時遺《ユイ》言(ン)
旁(タ/\)難遁(レ)ケレハ軈テ腹ヲモ切ランスラト思タレハサハ無テ主
二人ノ鎧(ヒ)太刀刀剥(キ)家中ノ財寶中間下部ニ取持セテ
圓覺寺ノ藏《゛》主寮《レウ》ニソ隱居タリケル此(ノ)重寶共ニテハ一
期不足非シト覺シニ天罰ニヤ懸リケン舟(ナ)田入道是ヲ
聞付テ推寄セ是非ナク召捕テ遂(イ)ニ頸(ヒ)ヲ刎テ由井(ノ)濱ニ
ソ掛ラレケル尤(モ)角コソ有タケレトテ惡(マ)ヌ者モ無リケリ


北条国時の木像と聖徳太子像を、天文21年(1552) 美濃国塩田の鹿野重勝が前山の龍光院に託したという話がありました。この木像が現在常楽寺にあるものでしょうか?(昭和前期頃に移された?) それとも別々で、国時像はもう一つある?

渡辺市太郎編『信濃宝鑑』(1901)

長野縣信濃國小縣郡西塩田村大字前山
曹洞宗 寶珠山龍光院之景
本尊 釋迦牟尼佛
本寺創立ハ弘安五年 今ヲ去ル六百二十年 ニシテ、開基ハ塩田陸奥守國時。
開山ハ月溪大皎大和尚ナリ。開基國時ハ北條時政ノ孫時氏ノ三男、武藏守義政ノ子、時國ノ男ニシテ、祖父義政鎌倉執権加判タリシカ、建治三年五月其職ヲ辞シ、当郡塩田庄前山ニ閑居シ、氏ヲ塩田ト改ム
國時ハ正慶中北條高時ニ屬シ、鎌倉ニ在リシカ 新田義貞ノ攻ムル所ト爲リ、其男俊時ト共ニ白刃セリ 即チ本寺ノ東方、凡三丁許ヲ距ル、字、上町ニ墓碑アリ。碑面龍光院殿前朝散大夫教覺道祐大禪定門ト記シ、右方ニ正慶二癸酉年五月廿二日、左方ニ塩田陸奥守入道道祐平朝臣國時トアリ。
初メ塩田氏此地ニ住スルヤ、城ヲ字上町ニ築キ、代々当地ヲ領シ、当郡別所村溫泉地ニ閑院ヲ設ケリト云フ 今尚ホ院内ト称スル地アリ
而シテ仝氏ノ末裔、鹿某ト云フ者アリ 美濃國塩田ノ地ニ住シ、祖先傳來ノ聖德太子ノ銅像、並ニ開祖國時ノ木像ヲ有シ最明寺内ニ安置セシガ、仝寺零落ノ爲メ、天文廿一年五月鹿野重勝ナル者ヨリ、其像ヲ當地ニ致ス。依テ太子ノ像ヲ本寺ニ安置セリ。
又本寺南方ニ寺有ノ山林アリ。林中秋葉ノ祠アリ 應仁元年十二月塩田庄ノ代官、福澤左馬助信胤ノ勧請ナリ。福澤氏ハ塩田氏ノ裔ナリト云フ
而シテ本寺ハ塩田氏開基ノ故ヲ以テ、往昔ハ寺領五拾五貫文ヲ有シ、境内亦頗ル廣ク東西五丁南北拾丁餘ニ渉レル、大寺ナリシガ幾多星霜ヲ經ルニ随ヒ、漸々衰頽ニ屬セシヲ以テ 慶長六年 今ヲ去ル三百一年 當國埴科郡東舟山村 今ノ埴生村 曹洞宗滿照寺ノ末派ニ加ハリ、仝寺七代瑞應ヲ以テ中興開山トス
降テ享保十七年五月 今ヲ去ル百六十九年 堂宇悉ク焼失ス。依テ仝年九月庫裏ヲ 仝廿一年三月本堂ヲ 天明五年三月衆寮ヲ 天保十四年八月鐘楼ヲ再建ス。但土蔵黒門等ハ古來ノ建設ナルモ其年代ハ詳ナラス

寶物
一 龍骨  個
寺傳ニ曰ク、當山開基ノ時、深村中大蛇アリ。之レヲ捕殺シ境内ノ南方ニ埋ム 爾後災異数々至ル 依テ之レヲ発堀シ 其頭骨ヲ納メテ佛前ニ供シ埋所ニ石ヲ建テ祀ル 今其地ヲ立石、又龍ヶ沢ト云フ
一 木像
塩田入道 道祐ノ像 一躰

2024年5月25日土曜日

もの恋し火ともしころを散る桜

もの恋し火ともし比をちる桜
「ひと恋し火とほしころをさくらちる」(左から2行4字目)、
「もの恋し火ともし比をちる桜  志ら尾」(右2行目)
(上田市立博物館『上田藩の人物と文化』(1986) 41頁 44頁)

「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」は、加舎白雄(かや しらお 1738-1791)の代表作と言われていますが、十年以上推敲したのと、没後の変化もあったため、微妙に異なる句があるそうです。

「もの恋し火ともし比をちる桜」は初期の案。『安永五年きぬさらぎ七日 草稿』という、手塚での句会の記録(自筆)にあります。
これはこれで良い句に思えます。(というか、どれも一長一短のような… 「人恋し~」は花の句にしてはイ音が少し煩い感じ…)
「もの恋し~」の句碑を、手塚の桜の名所か、とっこ館とかに建ててみるのはどうでしょうか。

「火とほし」は「火とおし」と読んでいた可能性はないのか?と思って探してみましたが、例は見つかりませんでした。
(方言かもしれませんが、火が消えることを「火がとぼる」と言います。「火とぼし頃」に「消す」のニュアンスを感じてしまい、少し混乱するようです…)

(画像の字句)
杜宇啼や撞楼に人のかけ 楚丘
もの恋し火ともし比をちる桜 志ら尾
纜や心もとなき五月雨 楚丘
疑宝珠に緑青うきぬ五月雨 双魚
白梅にうたひの響く障子かな 楚丘
寺町や竹の子賣に雨そほつ ヽ

遅日ゆふつきて燈籠の辻福田
なにかしかもとにやとる
花となかめ桜と詠め日は
くれぬ ひと恋し火とほし
ころをさくらちる

参照:
上田市立博物館『上田藩の人物と文化』(1986)
矢羽勝幸『俳人加舎白雄伝』(2001)
加舎白雄
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/008.html


(今年の花見)
暁に鳥に食われし花もあり
風止みて虫を目で追う花見かな
悠々と君の眠りし花車

2024年4月27日土曜日

大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き

富士山村の歴史、ふるさと塩田 村々の歴史 第2集
『富士山村の歴史』『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』

旧富士山村(ふじやまむら)の雨乞いについて、『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988)と『富士山村の歴史』(1998)を読んでみました。

『ふるさと塩田』には、「千駄焚き」は最後の手段で、それより前に「もらい水」の行事をすることが書かれていますが、『富士山村の歴史』によると、大正13年には8月10日に郡下一斉に千駄焚、8月15日から長村吾妻山と平井寺殿上山の御水をもらって雨乞いをした、とのこと。

どちらも60年以上後の記述で、どの部分がどの程度確実なのか、わかりません。一次資料を参照したのか、人から聞いた不確かな推測なのか、例えば「大姥様」も、知られているものとは別の大姥像とか、地蔵や薬師仏とか、実は別の地区の話が紛れ込んだとか、いくらでも疑うことができます……
確かさを確認しながら資料を集める必要がありますが、実際には、例えば、「池に放り込んだことがあるそうです。」という伝聞の内容が「池に放り込んだ。」と断定に変わったり、伝言ゲームのように「池」が「川」に変わったりということが、当たり前のように発生します……
(先行の話が誤りで、変化後が偶々正しいという可能性もあり、つまり、わかりません……
基礎的な調査の不備が、無関心や混乱に繋がる?)


『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988) 28頁
奈良尾(富士山)
(三)雨乞い
(中略)
ところで、最後の手段としての「千駄焚き」を行う前に「もらい水」の行事を行ったりしました。これは雨乞いに効果があると信じられている神社から水種をもらい、それを村人が運び帰って、それを撒く方法です。富士山地区では、戸隠神社や立科神社(「お水」と呼ばれていた)などから、水を運びました。
 また、お地蔵様などを泥の中に漬けたり池の中に放り込み、これを怒らせて雨を降らせる方法なども行われたようです。奈良尾では大姥様を山から下ろし、池に放り込んだことがあるそうです。
 さて、この「千駄焚き」も最近は行われなくなりました。富士嶽の山頂で行われたのは、大正一三年頃の大旱魃の時が最後です。この時は「千駄焚き」の火が周りに移り、山火事になりました。村の男衆は毎日水を背負って、山に登っていったそうです。しかし、暑い時期だったので喉が渇きます。ほんの少しだけと、背負ってきた水を飲んでしまい、火のある所に着いた時には、一滴も残っていなかった等という話もあります。この山火事はおよそ一ヶ月も燃え続けていたそうです。このことがあってから「千駄焚き」は、砂原池や水沢池の土手で行われるようになりました。


『富士山村の歴史』(1998) 380頁
第三節 干害
 降水量が少く水源も近い富士山では、昔から干害を被ることはまぬがれない運命であり、稲作は勿論畑作についても大きな被害を受けた年が多かった。年表に表れているような大被害のあった年も三〇年に一回位はあり、大正、昭和の五〇年位の間にも雨乞いをした年が一〇回以上あった。依田川より用水導入の工事が完成してからは稲作については、ようやく安心できるようになったが、現在進行中の県営の塩田かんぱい事業が完成の暁には畑作についても干害をのがれる事ができるであろう。
 被害の大きかった大正一三年をみると、この年は一月以降雪も雨も少く、五月より八月まで雨らしい雨もなく、畑の被害は勿論作付不能な水田が続出し、ようやく作付したものの枯死または出穂不能な稲が多く、過半は三分作以下で免税となる始末であった。
 八月一〇日には郡下一斉に千駄焚が行われた。富士山では富士嶽山頂へ登って草木を切り倒し積み上げ大変大きな千駄焚が行われた。見事な火景は富士山は勿論遠方からも望まれたと言う。しかし、水の無い山頂のことで、消火が不十分であったため、次の日になっても燃え残りがくすぶり煙を出す始末で、その消火に何日も苦労することとなった。水を入れた樽をかついで登るわけであるが、途中で飲み水に変わったりして頂上に着くころには大分減っていたと言うようなわけで消火もはかどらなかった。八月一五日には雨乞いを決議して、長村吾妻山山家神社及平井寺殿上山の二か所より、御神水を受け一週間にわたり昼夜行う。夜間も数時間に渡り婦人会の応援を受けて祈願したが仲々降雨がなかった。 大正一四年も前年と同じく六月から一〇月まで降水量が少なく、日照時間多く気温も高く、干魃による植付不能、枯死した水田が生じた。昭和一四年には五月から九月にかけて降雨が少なく、水田、畑作物に干害が大きかった。この頃、蓼科の御泉水から神水を受けた。御水を受けたら止ってはいけない(止るとそこに雨が降ってしまう)といわれており、村の若者がリレーで運んだ。昭和一五年は六月から七月にかけて降雨が少なく、山極の水田に植付不能のものが出た。昭和二三年には冬期間に降雨量が少く溜池の貯水量が確保できず、植付不能または植付遅延を来たした。昭和二四年の七月上旬から八月一九日まで四五日間旱天のため担当面積に被害が出た。昭和四一年頃からは富士山地域の八〇パーセントの水田は圃場整備が完了して配水路が完備されたことと、依田川からの揚水路が整備されたことにより水田での干害が極めて少なくなった。しかし畑作物についてはその後も四~五年に一度は干害の被害があり、平成六年には七月上旬から九月下旬までは降雨がなく畑作に大きな被害が出た。

2024年3月26日火曜日

大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?

絵堂の地蔵尊
絵堂の地蔵(「大正13年の大旱魃に8月8日より15日間〝雨降らせたんまいな南無地蔵大ぼさつ〟昼夜兼行1分の休みもなく村人の叫びが続いた」『五加の歴史』(1982)138頁)

2024年は大正13年(1924)の大旱ばつから100年。
干害はこの年だけではありませんが、言及されることが多く、知名度の高い災害の一つです。
「時報」が多くの村で発行され始めた時期で、当時の人のいろいろな思いを知ることができます。
西塩田時報(大正12 1923~)、中塩田時報(大正13 1924~ ただし、大正13年の現存は4号(題字は第三号? 6月)、9号(11月))

雨乞いの記録を集めて行くと、多くの村で地蔵菩薩に雨を祈っていたことがわかります。
上田市日本遺産のタイトルの元になったという龍の吹き流し幟?も、大正13年の絵堂地蔵の雨乞い祭りのもの?(龍は地蔵菩薩の眷属・配下の扱い? "お地蔵様カンパニー"の雨担当?)
「お地蔵様と生きるまち」だった?

御嶽堂(富士山村の隣り)では、蓼科山の御水を貰い、雨乞い地蔵に雨を祈ったそうです。このお地蔵様は塩田平へも貸し出されたそうで、降雨の実績があれば、引く手あまた になったのかも。

小県郡丸子町御嶽堂区『ふるさと御嶽堂ムラのむかしといま』(平成17 2005) 102頁

(35)雨乞い地蔵
 この地蔵様は、南原公民館の裏山に、ちょっとした小屋掛の中に祭られています。大正十三年(一九二四)は大旱魃に見舞われ、南原でも他部落と同様に「雨乞い」を次のような形で実施したということです。
 旱魃の続く七月、ムラの青年の幾人かが、朝暗いうちに蓼科山へ出向き、水(一説には残雪)を竹筒に詰め、津金寺・箱畳とリレーで運び、お薬師様に供えて雨乞いを祈りました。またムラの若い女性たちは、薬師堂の裏に祭られている雨乞い地蔵を、山寺跡近くの古井戸に運び、畚(モッコ)に乗せて井戸の中へドブンドブンと何回となく投げ込み、雨乞いをしました。その名残りとして地蔵様の顔が欠けています。(中略)
 なお雨乞いは、薬師堂の庭にこのお地蔵様を安置し、鉦《かね》を叩きながら「雨地蔵大菩薩雨降らせてたんまいな」と唱えながら、疲れきるまで回ったといいます。(以下略)

※同書67-68頁にも蓼科山の御水貰いの記録があります。

塩田平ガイドマップ(12) 絵堂の地蔵尊
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34620178

2024年2月27日火曜日

竹内武信の紙芝居、北向観音堂の算額

北向観音堂にあった算額の問題(算法瑚璉)
北向観音堂にあった算額の問題(算法瑚璉)

昨年9月に佐久市で竹内武信の紙芝居の話題がありましたが、地元の上田市ではほとんど無反応だったかも…
赤松小三郎の紙芝居を作った顕彰会や上田市マルチメディア情報センターの方々は関心があるのではないでしょうか…

赤松小三郎は、竹内武信の高弟の植村重遠の門弟。
竹内善吾武信(1782?-1853)
植村半兵衛重遠(1795-1870)
赤松小三郎(1831-1867)

赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者
https://museum.umic.jp/akamatsu/


中村信弥『増補長野県の算額』によると、北向観音堂の算額は、古書等で8枚の記録があり、現存は1枚だけ(齋藤善兵衛藤原邦矩)とのこと… 焼失したような話も聞かないので、明治期にどこかに移して忘れられている可能性もある?

WASAN
http://www.wasan.jp/

小林忠良『算法瑚璉』(天保7 1836)
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100244885/16
「所掲于信州上田北向堂者一事 ~ 天保三年歳次壬辰春正月」


竹内武信『規矩術伝来之巻付録』の巻末の記事
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100256198/7
一 竹內武信、尚綗斎、城山ト号ス、当国上田之城主、松平伊賀守家士也、文政年中、依 君命封内之図ヲ製セシム、又所著之書、渾発正義、一冊 本伝発揮、二冊 靖民伝、一冊 雑編、一冊 量地奥義、一冊 都合六冊也、外伝トシテ、先師伝フル所ノ書ニ加フ、地理算学ニ達スルヲ以テ、給人ニ任セラル、
(※尚綗斎 しょうけいさい? 由来は「衣錦尚絅」(中庸)? 城山は郷里の山とすれば天狗山(女神岳)?)


上野尚志(1811-1884)『藤の下露』の竹内武信の記事
ただし、誤りや脚色があるかもしれません。生年は天明2年(1782)と天明4年(1784)の資料があるようです。(嘉永6年(1853)は72歳か70歳)
https://doi.org/10.20730/100166271
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100166271/66

○竹內善吾 名武信 城山と号 封内山田村の人也 人となり深沈朴実にして真率なり 幼より嬉戯の遊ひを好ます 常に算数を以て玩とす 六七歳にして能八算を知り 稍長するに及て村社に至り 算を以て天下第一たらん事を祈る 上田城下原町なる山屋某《?》に従学し其奥を極め又小諸城下荒町なる関某に学ふ 此時家計窮り本藩太田氏の僕たり 故を以て昼は主用を弁し薄暮小諸へ行き未明に帰る かくする事大凡毎夜なり 往来十里 終に東都に遊ひ関流算法清水流規矩術及天文暦数を学ひ幾もなくして皆其薀奥を得たり 後又発明する所ありて其妙所に至る 文化年間本藩に出身し従学するもの数百千人 文政年中武石村を検地して功有 天保年間東武の人某 当時我邦算学有名の人々を挙 東西に分ち優劣を角觝する時 善吾を以て東方の第一大関とす 其素志を達するに似たり 曽て曰 吾邦の算 其初学ふ所有用の有用にして 其中や無用中に有用を存す 択はすんは有へからす 其終や厘毛をさくと雖も実は無用と云へしと 鳴呼此人にして此言あり尊信すへし

(※頭注)尚綗斎ト号ス 文化年間本藩ニ召出サレテ会計局ノ吏トナリ算術測量ノ師範ヲ兼ヌ 幼名熊吉
(※行間注)内田大進といふ人(旧幕臣)
(※頭注)内田大進は江戸麻布市兵衛町根来組屋敷に住す根来同心といふもの也
(※頭注)竹内善吾の男(幼名宝蔵)内田に学ひ藩の算術師範となり(其妻は増田秀実の長女也)明治 年歿す

    示門生詩
  生来好数豈為利、旦夕事算只窮理、勿謂小吏賈人業、是亦聖人六芸裏、

分陰を惜み無用と認むる時はいかなる席にても去りける 又和歌を好み平生道路を歩行するも急足にして和歌を微吟し瞬時も徒費する事なし

    武石村を丈量する時
  風越の嶺をも越ん山人は 武石の里を麓とや見む

    公家の財政窮迫せるを歎きて
  いかにせん せんすへのなき世なりけり 心ならすは思ひなからも

    月前露
  袖ふれは ちるらん萩の露にさへ 心もおかす宿る月かけ

其母も亦奇人たり 毎夜木綿糸をくる事大凡十匁 是を以て通常の稼とし 外又其一半を期して善吾修行の費用に充しとそ 善吾遊学中江戸に至ること二回 母を伴ふて義士の墓に詣てしのみ 母も亦都会の名区繁昌をは更に問はすして只其子修行の形状を見しのみと云 篁軒先生其行実を称して云 真率不徼当世之誉而従学者日多 盖其術之精 人自信之也と 門人植村重遠 小林忠良 栗山悳一 各世に名あり 其著す所算書若干巻 嘉永六年歿す年七十


※詩歌の意訳

門生に示す詩
数を学ぶのは利のためだろうか?
ひたすら計算をするのは、ただ、理を極めるためだ
役人や商人の業務と言うべきではない
これも聖人の芸術の内の一つ

武石村を測量する時
あの高い山々を越える人が、この武石の里を眺めれば、はるか下界のように見えるだろう
(本歌は「かざこしの峰の上にて見るときは雲は麓のものにぞありける」?)

公の財政逼迫を嘆いて
どうすればいいのか、なすすべのない世の中だ。こんなことは思いたくはないけれど

月前の露
袖を振れば散ってしまうような、はかない萩の露にさえ、分け隔てなく月の光が宿っている

※算を以て天下第一たらん事を祈った「村社」は熊野神社? 明治初期の町村誌によると、大湯への峠道の入口で、上田城下まで見渡せる場所。その後、神社は移設?

※先人に ちなんで、算額・絵馬を模した紙などに学芸の成果物・書画・詩歌・願い事等を書いて掲示するようなイベントもどうでしょうか… (本気の難問があってもいいかもしれませんが一般には手に負えなさそう…)

2023年11月29日水曜日

大姥石仏の謎

薬師仏・大姥仏の記事(富士山村誌 明治14 1881)
薬師仏・大姥仏の記事(富士山村誌 明治14 1881)


奈良尾石造大姥坐像の銘文について、明治時代の富士山村誌(写し)に読めない文字があったので、実物の写真を探して見たら、普通に読めました…
以前は実物を確認していなかったのでしょうか?
もしかして、石の表面を研磨して刻字し直したという可能性もある?

富士山村誌(明治14 1881)
藥師佛 大姥佛 塔 藥師佛ハ南ノ方富士嶽ノ内字黒谷ノ嶺ニアリ大姥佛ハ黒谷ノ東ニアリ里老ノ傳ニ寛正三年大旱ノ時人民該山ニ登リ雨ヲ祈リテ驗アリ依テ之ヲ建ルト今ニ至テ旱魃ノ年ハ村民登山シテ雨ヲ祈ルヲ例トス
 藥師佛一基 高サ一尺七寸
 大姥佛一基 仝上
  裏ニ
   願主 權大僧都眞海 釆?初 和尚位
   寛正七(年)丙戌五月日ト刻シ
   アリ

富士山村誌(明治14 1881)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1246422/1/572

『小県郡史 余篇』(大正12 1923) 603頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/965787/1/315
二一二六 寛正七年丙戌五月日 石 大姥佛 富士山村富士嶽の中峰 願主大僧都眞海釆初和尚位。

上田情報蔵 解説石造大姥(おおば)坐像(市指定文化財)
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668031
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668033
(背面の写真)
願主
権大僧都真海法印和尚位
寛?七??五月日


「権大僧都~法印」は修験道でよくある名称のようです。
佐加神社に人が集まって大姥仏に雨を祈ったという話もあって、修験道の儀礼の名残りなのでしょうか…

https://kotobank.jp/word/法印-627033
>先達であれば法印権大僧都を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。