2024年6月24日月曜日

北条国時、北条時春の勅撰集和歌

伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))
伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))


北条国時、北条時春の勅撰集和歌
北条国時、北条時春の勅撰集和歌


平安時代末の塩田庄にはたぶん手塚光盛と塩田高光がいて木曽義仲に従い滅亡、鎌倉時代には惟宗忠久(島津氏初代)、比企能員の変(1203)の後に北条氏(北条義時、泰時、重時、義政、国時 等)、南北朝時代から村上氏(代官 福沢氏?)、その後、武田、真田、仙石、松平。

北条義政(1243?-1282 重時の5男)の子が国時、時治(時春)、胤時で、胤時はほとんど記録がなく、国時と時治も情報は少なく、生年も不明です… 義政の生年没年から考えると、1260年頃から1282年の間。北条義政の没年の1282年には満年齢で0~約22歳。国時の没年とされる1333年には51~約73歳。

時春は新後撰和歌集(1303)に1首、玉葉和歌集(1312)に2首、国時は玉葉和歌集(1312)に3首入集しています。
新後撰和歌集(1303) 21~約43歳、玉葉和歌集(1312) 30~約52歳。

玉葉和歌集(1312)には、宗尊親王(1242-1274 6代将軍1252-66)の歌と時春の歌が並んでいる箇所と、北条義政と国時が並んでいる箇所がありました。
宗尊親王は北条義政とほぼ同年齢で、将軍在位中は時春は年少かまだ生まれていないので、直接の交渉はなかった可能性が高いのではないかと思います。北条義政と国時も、親子ですが、歌のやり取りがあったかは不明です。
玉葉和歌集が成立した1312年は、宗尊親王の没後38年、北条義政の没後30年、国時と時春は30~約52歳。
勅撰集入集はそれだけで十分に名誉なことだと思いますが、この歌の配列は特に厚遇だった可能性はないでしょうか。国時は本当に嬉しかったと思いますし、名誉ある家系として広く知らしめることにもなったのかも。

臆測でしかありませんが、北条義政の死後、子供達は年少か成人したばかりで、家を継いだというより、親類の庇護下にいた可能性も。負け組として軽んじる人もいれば、リスペクトして支援する人もいたのではないでしょうか。
(もし、もっと冷遇されていたら… 名前は残さなかったかもしれませんが、他の諸流と距離を置いて、信州で南北朝時代まで続いた可能性もあったのでしょうか… もし、塩田北条氏に(真逆の)反得宗の気運があったら、信濃は流動化して、中先代の乱もなく、早々に割拠状態になった?)

国時の「式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を」(玉葉和歌集 巻第九 恋歌一)の「式部卿親王家」は、久明親王(1276-1328 8代将軍 1289-1308 式部卿 1297-)でしょうか。式部卿任官(1297)から将軍辞任(1308)の間の可能性がありますが、それ以外もなくはないかも…
久明親王の生年(1276)は国時・時春の生年の範囲(1260年頃から1282年)の後半になります。これも臆測ですが、恋歌であることや「おなじ心を」という言葉から、国時は久明親王と同年代のような雰囲気も感じます。北条義政が10代の頃に同年代の宗尊親王(11歳で6代将軍)の近くで諸芸を学んだ(推測)ように、国時・時春の兄弟も同年代の久明親王(14歳で8代将軍)の側で和歌等を学んだという可能性も考えられないでしょうか。その中で生まれた歌、評価、人脈が勅撰集入集に繋がった、という流れは一応は自然に思えます…(やはり違う可能性は残り続けますが…)

歌の中では、時春の「風にゆく峯の浮雲跡はれて夕日にのこる秋の村雨」「西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山」は塩田の風景が連想されました。時春も国時も若い頃はほとんど鎌倉か京都にいたのかもしれませんが。

ところで…
北条国時と同じ読みで、北条邦時(1325-1333)(高時の長男)がいますが、1331年、元服時に9代将軍 守邦親王(1301-1333)から邦の字を受けたそうなので、もしかしたら、それ以降は国時の名前は使わなかったのかも。

塩田と狩野と言えば、太平記の塩田民部大輔俊時と狩野五郎重光。この2人がモデルなのでしょうか… ちなみに塩田の今の読みは地元では「しおだ」です。昔がどうだったかはわかりません…

太平記の「塩田父子自害ノ事」の国時は、俊時に先立たれた後、読経を続けて、狩野重光に嘘で催促されて自害、鎧を奪われて遺体は放置? という、あまり格好は良くない最期でしたが(もちろん本当のことはわかりません)、子供が目の前で死んでしまい、ただ茫然として、読経しながら呆けていたとすれば、お坊ちゃん気質の、やさしい人だったのかな、とか妄想してしまいます…


新後撰和歌集(1303)
 巻第十四 恋歌 四
  恋歌の中に 平時春
 あはぬ夜のつもるつらさは敷たへの 枕のちりそ先しらせける
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2579163/1/72

玉葉和歌集(1312)

 巻第五 秋歌 下
  秋雨を 中務卿宗尊親王
 雲かゝる高根のひはらをとたてゝ むらさめわたる秋の山本

  平時春
 風にゆく峯の浮雲跡はれて 夕日にのこる秋の村雨
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562646/1/15


 巻第九 恋歌 一
  式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を 平国時
 逢とみるその面影の身にそはゝ 夢路をのみや猶頼むへき
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/12

 巻第十 恋歌 二
  題しらす 平国時
 恋しさのなくさむかたとなかむれは 心そやかて空になりゆく
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/29

 巻第十五 雑歌 二
  題しらす 平時春
 西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/11

 巻第十八 雑歌 五
  平義政
 夢ならでまたはまこともなきものを たが名付けけるうつゝなるらん

  平国時
 身のうさを思ひねにみる夢なれは うつゝにかはるなくさめもなし
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/62



『太平記』(刊 慶長12 1607)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2543812/1/57

○鹽田父子自害(ノ)事
爰ニ不思議ナリシハ鹽田陸奥(ノ)入道(、)道祐カ子息民部
大輔俊時親ノ自害ヲ勸(メ)ント腹掻切テ目(ノ)前ニ卧タリケ
ルヲ見給テ幾程ナラヌ今生ノ別ニ目クレ心迷(イ)テ落ル泪
モ不留(ラ)先立ヌル子息ノ菩提ヲモ祈(ノ)リ我逆(ク)修ニモ備ヘン
トヤ被思ケン子息ノ尸骸ニ向テ年來(ロ)誦《ヨミ》給ケル持《゛》經ノ
紐《ヒホ》ヲ解要(ウ)文𠁅(ロ)々打上(ケ)心閑ニ讀誦シ給ケリ被打漏タ
ル郎等共主ト共ニ自害セントテ二百餘人並居タリケル
ヲ三方ヘ差遣シ此(ノ)御經誦(ミ)終《ハツ》ル程防矢射ヨト下知セラ
レケリ其(ノ)中ニ狩野五郎重光計ハ年來ノ者ナル上近ク
召仕レケレハ吾(レ)腹切テ後(チ)屋形ニ火懸テ敵ニ頸(ヒ)トラスナ
ト云含(ク)メ一人被留置ケルカ法華經巳ニ五ノ巻ノ提
婆品ハテントシケル時狩野五郎門前ニ走出テ四方ヲ
見ル眞似ヲシテ防矢仕ツル者共早皆討レテ敵攻(メ)近付

候早々御自害候ヘト勸(メ)ケレハ入道サラハトテ經ヲハ左
ノ手ニ握(キ)リ右ノ手ニ刀ヲ抜テ腹十文字ニ掻切テ父子
同枕ニソ卧給ケル重光ハ年來ト云重《゛》恩ト云當時遺《ユイ》言(ン)
旁(タ/\)難遁(レ)ケレハ軈テ腹ヲモ切ランスラト思タレハサハ無テ主
二人ノ鎧(ヒ)太刀刀剥(キ)家中ノ財寶中間下部ニ取持セテ
圓覺寺ノ藏《゛》主寮《レウ》ニソ隱居タリケル此(ノ)重寶共ニテハ一
期不足非シト覺シニ天罰ニヤ懸リケン舟(ナ)田入道是ヲ
聞付テ推寄セ是非ナク召捕テ遂(イ)ニ頸(ヒ)ヲ刎テ由井(ノ)濱ニ
ソ掛ラレケル尤(モ)角コソ有タケレトテ惡(マ)ヌ者モ無リケリ


北条国時の木像と聖徳太子像を、天文21年(1552) 美濃国塩田の鹿野重勝が前山の龍光院に託したという話がありました。この木像が現在常楽寺にあるものでしょうか?(昭和前期頃に移された?) それとも別々で、国時像はもう一つある?

渡辺市太郎編『信濃宝鑑』(1901)

長野縣信濃國小縣郡西塩田村大字前山
曹洞宗 寶珠山龍光院之景
本尊 釋迦牟尼佛
本寺創立ハ弘安五年 今ヲ去ル六百二十年 ニシテ、開基ハ塩田陸奥守國時。
開山ハ月溪大皎大和尚ナリ。開基國時ハ北條時政ノ孫時氏ノ三男、武藏守義政ノ子、時國ノ男ニシテ、祖父義政鎌倉執権加判タリシカ、建治三年五月其職ヲ辞シ、当郡塩田庄前山ニ閑居シ、氏ヲ塩田ト改ム
國時ハ正慶中北條高時ニ屬シ、鎌倉ニ在リシカ 新田義貞ノ攻ムル所ト爲リ、其男俊時ト共ニ白刃セリ 即チ本寺ノ東方、凡三丁許ヲ距ル、字、上町ニ墓碑アリ。碑面龍光院殿前朝散大夫教覺道祐大禪定門ト記シ、右方ニ正慶二癸酉年五月廿二日、左方ニ塩田陸奥守入道道祐平朝臣國時トアリ。
初メ塩田氏此地ニ住スルヤ、城ヲ字上町ニ築キ、代々当地ヲ領シ、当郡別所村溫泉地ニ閑院ヲ設ケリト云フ 今尚ホ院内ト称スル地アリ
而シテ仝氏ノ末裔、鹿某ト云フ者アリ 美濃國塩田ノ地ニ住シ、祖先傳來ノ聖德太子ノ銅像、並ニ開祖國時ノ木像ヲ有シ最明寺内ニ安置セシガ、仝寺零落ノ爲メ、天文廿一年五月鹿野重勝ナル者ヨリ、其像ヲ當地ニ致ス。依テ太子ノ像ヲ本寺ニ安置セリ。
又本寺南方ニ寺有ノ山林アリ。林中秋葉ノ祠アリ 應仁元年十二月塩田庄ノ代官、福澤左馬助信胤ノ勧請ナリ。福澤氏ハ塩田氏ノ裔ナリト云フ
而シテ本寺ハ塩田氏開基ノ故ヲ以テ、往昔ハ寺領五拾五貫文ヲ有シ、境内亦頗ル廣ク東西五丁南北拾丁餘ニ渉レル、大寺ナリシガ幾多星霜ヲ經ルニ随ヒ、漸々衰頽ニ屬セシヲ以テ 慶長六年 今ヲ去ル三百一年 當國埴科郡東舟山村 今ノ埴生村 曹洞宗滿照寺ノ末派ニ加ハリ、仝寺七代瑞應ヲ以テ中興開山トス
降テ享保十七年五月 今ヲ去ル百六十九年 堂宇悉ク焼失ス。依テ仝年九月庫裏ヲ 仝廿一年三月本堂ヲ 天明五年三月衆寮ヲ 天保十四年八月鐘楼ヲ再建ス。但土蔵黒門等ハ古來ノ建設ナルモ其年代ハ詳ナラス

寶物
一 龍骨  個
寺傳ニ曰ク、當山開基ノ時、深村中大蛇アリ。之レヲ捕殺シ境内ノ南方ニ埋ム 爾後災異数々至ル 依テ之レヲ発堀シ 其頭骨ヲ納メテ佛前ニ供シ埋所ニ石ヲ建テ祀ル 今其地ヲ立石、又龍ヶ沢ト云フ
一 木像
塩田入道 道祐ノ像 一躰

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