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2024年6月7日金曜日

一なかるべからず、二あるべからず

信濃毎日新聞 明治36年1月29日 保科百助「通俗滑稽 信州地質学の話」
信濃毎日新聞 明治36年1月29日 保科百助「通俗滑稽 信州地質学の話」

6月7日は保科百助(1868-1911)の命日、8日は誕生日(旧暦?)です。今も、少しずつですが、知らなかった資料を見ています。

渡辺敏(わたなべ びん 1847-1930)が保科百助について言ったという「一なかるべからず、二あるべからず」という言葉について、バリエーションがあるので集めてみました。
『信濃教育 昭和4年1月』(保科五無斎号)の北村春畦の記事から、明治33年3月頃の出来事として知られていますが、そのときだけではないのかもしれません。(北村春畦の記事は約30年前の回想であり、記憶違いもあるので(明治33年11月の蓼科学校赴任がない 等)、このエピソードもすべてが事実かどうかはわかりません。)
「不可無一、不可有二」は江戸時代から明治時代の辞書類に載っていて使用例も多くあり、特定の出典は意識されていなかったかもしれません。ただ、保科百助は「以」を入れているので(「不可以無一、不可以有二」?)他にも何か参照していた可能性はあるかも。

明治36年1月29日『信濃毎日新聞』 保科百助 「長野高等女學校長渡邊若翁嘗て予を評して曰く、五無齋は奇人なり 縣下以て一なかるべからず、以て二あるべからざる的の人物なりと」
明治42年3月10日『信濃公論』 保科百助 「日本一の小學校長渡邊敏翁嘗つて五無齋を評して縣下以つて一無かる可らず。以つて二ある可らず的の人物となす。」
大正4年11月10日『信濃教育 大正4年11月』 八木貞助 「保科百助君と信州地學」『渡邊敏先生甞て曰く「五無齋の如きもの信州に一無かるべからず。以て二ある可からず。蓋彼は其天禀に得たるものにして、後人の模倣を許さゞるものあればなり。」と以て至言と稱すべし。然して今や此名物男無し矣。』
昭和4年1月1日 『信濃教育 昭和4年1月』 北村春畦 「五無齋研究」「渡邊敏先生は彼が敎育界に於て以て一なかるべからず以て二あるべからずであると答辨せられた。」
昭和5年6月 『信濃教育 昭和5年6月』 八木貞助 「渡邊先生の人格と其反映」「彼の窮措大五無齋保科百助氏の如きも、先生と肝膽相照すものがあつた。先生は五無齋の如きは信州に一あるべく、二あるべからざる人物であると推奨された。他の多くの人々は彼を敬遠したにも關らす、先生はよくこれを容れ、其長處を暢達せしめ、彼の採集した幾千塊の岩石鑛物標本を入るゝ爲に當時多額の資を投じて容噐を提供し、これに校舍の一部を與へて保管し、且これを整理せしめ長野縣地學標本六百組を造つて廣くこれを頒布し、以て天下に信州地學の一般と其材料の豊富なることを周知せしめたる如きも亦特筆すべき事柄ではあるまいか。」


信濃毎日新聞 明治36年1月29日朝刊1面
通俗滑稽 信州地質學の話 五無齋保科百助述
(二)結晶學及び數學との關係
(中略)有体に白状すれば予は普通の礦物學の始めにある結晶學位は兎も角も故理學士菊池安先生の礦物學敎科書中の結晶の部を了解するの能力なし終りに臨み予は世の數學嫌ひの博物學者に一言を呈せん、曰く動物植物の學は兎も角も礦物地質の學は忽ち失敗に終らん、五無齋の研究を斷念して大採集家となりしは全く是れが爲めなり、採集家は五無齋一人にて足れり、長野高等女學校長渡邊若翁嘗て予を評して曰く、五無齋は奇人なり(予は不服なり人間以上のものなれば何ぞ怪物と言はざる)縣下以て一なかるべからず、以て二あるべからざる的の人物なりと、渡邊若翁は稍予を知るものと謂ふ可し、呵々、


信濃教育 昭和4年1月
五無齋研究 北村春畦
(中略)
  狸と狢(ムジナ)
 これも明治三十三年頃かと思ふ、松本中學長野支校が獨立して、飯田と上田へ新たに中學校の置かれた時である。長野支校の主任島地五六氏は飯田中學校長に、縣視學宮本祐治(※右次)氏は上田中學校長に任命せられた。そこで兩氏の爲め城山館に壯行宴會が開かれたが、盃彈頻りに飛んで宴酣なりし頃、五無齋は談論の行き掛り上、戶野視學官と衝突し風雲將に急ならんとする折しも小林健吉氏は五無齋を拉し去つた。偶々渡邊敏先生が來られて五無齋に代つて其の座へ坐られた、戶野視學官と並んで居た佐柳參事官は憤然として、保科の如き人間が長野縣の敎員間に列して居るのは遺憾である。と云はれたので、渡邊敏先生は彼が敎育界に於て以て一なかるべからず以て二あるべからずであると答辨せられた。所が佐柳參事官は飲みほしたる盃を渡邊敏先生へさしつゝ渡邊君も仲々狸であるわいと戯謔的に云はれた。渡邊敏先生は直に其の盃を飲みほして笑ひながら佐柳さんは流石狢《ムジナ》だけに此の渡邊の狸が見えたわいと、之れ亦戯謔的に云つて返盃された。其の瞬間其の塲に居合せたる春畦は、成程渡邊先生は吾敎育界のオーソリテーであるわい、自分が狸にされながらも遂に談笑の間に對手を狢にしてしまつた、こゝが渡邊先生の老練なる手腕であるとつく/゛\感じた。此の話は聊かレール外ではあるが五無齋の側面觀とするに足る。


渡辺敏と保科百助
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36004932
五無斎保科百助君碑
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36168641


今年の ほしな歌…
歌一つ届かぬ人に思うかな 共に無言歌歌ってほしなと


2023年10月31日火曜日

長野県地学標本 寄付金の謎

「通俗滑稽信州地質学の話 五無斎復讐心に富む事」(信濃毎日新聞 明治36年1月11日)
「通俗滑稽信州地質学の話 五無斎復讐心に富む事」(信濃毎日新聞 明治36年1月11日)


保科百助(1868-1911)「長野県地学標本」製作での"寄付金破約"の経緯は、今も未調査のまま…
避けては通れない話なので、あまり根拠のない推測ですが、書いてみます。

軍への寄付に備えるように、教員に対して指示・示唆があった可能性は考えられないでしょうか。
・日清戦争(明治27年~28年)では、学校で寄付金を取りまとめることが多く行われました。
・採集旅行(明治34年~35年)は、義和団の乱(明治33年~34年)、日英同盟(明治35年1月30日)の頃。日露戦争は明治37年2月~明治38年10月。
・明治34年5月に採集旅行を開始。夏頃(7月~9月頃?)には資金が枯渇したので、破約は5月~6月の頃でしょうか。(「二ヶ月間許りは長野市の某下宿屋に下宿籠城となりたり僅々数円の下宿料にも究するなり」『信濃毎日新聞』明治36年1月11日1面)
・寄付をしたのは師範学校同窓生等で教育関係者。明治34年4月30日の退職広告で上層部に反感を持たれ、協力しないように圧力をかけられた? そのための口実として軍への寄付の準備が利用されたとか…
・標本頒布の募集でも同様の圧力の恐れがあり、その対策として、皇室への献納を行ったのではないでしょうか。(発案が保科百助かどうかはわかりませんが。)

長野県地学標本の寄付金の謎
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/30556999


『信濃毎日新聞』明治36年1月11日1面より

通俗滑稽信州地質學の話
  五無齋保科百助述
⦅四⦆五無齋復讐心に富む事
孔子《こうし》曰《いは》く怨《うら》みをかくして其人《そのひと》を友《とも》とするは
左丘明《さきうめい》之《これ》を愧《は》づ丘《きう》も亦《また》之《これ》を愧《は》づと五無齋《ごむさい》に
至《いた》つては怨《うら》みある人《ひと》を友《とも》とする事《こと》を好《この》まざ
るのみならず面當《つらあて》に復讐的《ふくしうてき》に一と仕事《しごと》仕事《しごと》
をして見《み》せてやらんと欲《ほつ》するなり前段《ぜんだん》にも
記《しる》し置《お》きたりしが如《ごと》く予《よ》は漫遊《まんいう》の旅費《りよひ》とし
て山禎《さんてい》以下《いか》八九人《にん》の諸君《しよくん》より助力《ぢよりよく》を得《え》て四
百五十圓《ゑん》許《ばか》りの額《かく》に達《たつ》したりければ是《これ》さへ
あればとて大《おほい》に喜《よろこ》び乃《すなは》ち漫遊《まんいう》の途《と》に上《のぼ》りた
り當時《たうじ》予《よ》の心中《しんちう》には口《くち》でこそ四百五拾圓《ゑん》な
れ親子兄弟《おやこきやうだい》の關係《くわんけい》あるに非《あら》ず刎頸《ふんけい》の交《まぢは》りあ
りと言《い》ふにもあらず言《い》はゞ普通《ふつう》一偏《ぺん》の寄附《きふ》
金《きん》や草鞋錢《わろじせん》なり寄附金《きふきん》や草鞋錢《わろじせん》としては少《すこ》
しく巨額《きよがく》なるを感《かん》ず若《し》かず一日《にち》も早《はや》く漫遊《まんいう》
を終《をは》り採集《さいしう》を果《はた》して是《こ》れ等《ら》の人《ひと》に報《むく》ゆると
ころなかるべからずと日毎々々《ひごと/\/\》に金槌《かなづち》を振《ふ》
り廻《ま》はし歩《ある》きたるに標本《へうほん》は愈《いよ/\》集《あつ》まりて愈《いよ/\》
多《おほ》く百種《しゆ》位《くらゐ》にては止《とゞ》まるべくも見《み》えず三百
にも近《ち》かゝらん一日《にち》に一種《しゆ》宛《づゝ》を得《う》るとする
も三百日《にち》を要《えう》すべきに其後《そのご》寄附金《きふきん》は破約《はやく》の
緒《いとぐち》を開《ひら》きたり一昨年《さくねん》の夏頃《なつごろ》は随分《ずゐぶん》究厄《きうやく》に
陥《おちゐ》りたるなり二ヶ月間《げつかん》許《ばか》りは長野市《ながのし》の某《ぼう》下《げ》
宿屋《しゆくや》に下宿籠城《げしゆくろうじやう》となりたり僅々《きん/\》數圓《すうゑん》の下宿《げしゆく》
料《れう》にも究《きう》するなり俸給《ほうきふ》を取《と》り居《を》る身《み》にても
あらば友人《いうじん》を訪《と》ふて借《か》りもしまじを収入《しうにふ》な
き身《み》の金《かね》を借《か》りに行《ゆ》くは返《かへ》すべき目當《みあ》ても
なければ体《てい》のよき乞食《こじき》なり然《しか》らば惡《わ》るロ職《くちしよく》
を辞《じ》して還俗《けんぞく》せんか曰《い》はく否《いな》大《おほい》に否《いな》抑々《そも/\》惡《わ》
る口《くち》の職《しよく》たる何《いづ》れの官省《くわんしやう》よりも辞令《じれい》を受《う》
けたる事《こと》なければ名宛《なあて》を認《したゝ》むるによしなく
名宛《なあて》のなき辞表《じへう》は郵便集配人《いうびんしふはいにん》も大《おほい》に當惑《たうわく》せ
ん然《しか》らば漫遊《まんいう》を繼續《けいぞく》せんか旅費《りよひ》の續《つゞ》かざる
を如何《いかん》せん進退《しんたい》維《こ》れ谷《きは》まりたれども亦《また》つく
/゛\思《おも》ふやう若《も》し此儘《このまゝ》にして打過《うちす》ぎなば世《せ》
人《じん》は予《よ》を何《なん》とか評《ひやう》せん法螺百《ほらひやく》は依然《いぜん》法螺百《ほらひやく》
にして天下《てんか》亦《また》予《よ》と齒《よはひ》せざるに至《いた》らん然《しか》れど
も法螺《ほら》の豫告《よこく》に變《へん》じたる事《こと》歷史上《れきしじやう》其例《そのれい》に乏《とぼ》
しからず新言海《しんぜんかい》に曰《いは》く法螺《ほら》の責任《せきにん》を果《はた》した
るもの之《これ》を豫告《よこく》と云《い》ふ豫告《よこく》なる哉《かな》豫告《よこく》なる
哉《かな》若《し》かず如何《いか》にもして漫遊《まんいう》を終《をは》り採集《さいしふ》を果《はた》
さんにはと例《れい》の山禎《さんてい》に泣《な》き付《つ》き旅費《りよひ》を整《とゝの》え
玆《こゝ》に芽出度《めでたく》二ヶ年《ねん》の漫遊《まんいう》を果《はた》し四百餘種《よしゆ》三
萬餘塊《よくわい》の標本《へうほん》を採集《さいしふ》し終《をは》るに至《いた》りたるなり
是《こ》れ予《よ》が破約者《はやくしや》に對《たい》しての復讐心《ふくしうしん》なり面當《つらあて》
的《てき》行為《かうゐ》なり然《しか》れども予《よ》は今後《こんごは》是等《これら》の諸君《しよくん》に
對《たい》しては感謝《かんしや》の意《い》を表《へう》せねばならぬなり。
そは是《これ》にて寄附金《きふきん》の募集《ぼしふ》すべからざるもの
なること人心《じんしん》の賴《たの》むに足《た》らざるものなる事《こと》と
の眞理《しんり》を發見《はつけん》したり今後《こんご》何等《なんら》の事業《じげふ》を經營《けいえい》
するに當《あた》つても予《よ》はチビ/\したる細《こま》かき
寄附金《きふきん》は募集《ぼしふ》せざるべし他人《たにん》の御影《おかげ》は蒙《かふむ》ら
ざるべし即《すなは》ち今回《こんくわい》破約者《はやくしや》に對《むか》つて發見《はつけん》した
る眞理《しんり》は挙々服膺《けん/\ふくやう》して終生《しうせい》忘却《ぼうきゃく》せざらんこと
を期《き》するものなり然《しか》れども讀者諸君《どくしやしよくん》怨《うら》みも
面當《つらあて》も漫遊《まんいう》を終《をは》り採集《さいしふ》を果《はた》すと同時《どうじ》消滅《せうめつ》し
て跡形《あとかた》もなし五無齋《ごむさい》の心事《しんじ》光風晴月《くわうふうせいげつ》の如《ごと》し

2022年6月20日月曜日

信濃国古器集録 成沢寛経 矢嶋行康 井上寂英

『信濃国古器集録』雷斧
『信濃国古器集録』雷斧 長壱尺五寸(約45cm イッカクの角?)

『信濃国古器集録』は明治時代初期の信濃の愛好家や寺社の所蔵品の図を集めた冊子。約40頁。詳細は不明。
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100323866

実相院「石剣」(独鈷石?)、龍洞院(上青木)「缶」(壺?)、東昌寺「浦野美濃守友久 木印」等、今もあるでしょうか。

蔵印「杉園」は 小杉榲邨(すぎむら)(1835-1910)

原昌言(良平 1820-1886) は『弘化丁未信濃国大地震之図』でも知られています。

「成澤金兵衛蔵」「成澤蔵」は明治時代の金兵衛(世襲名)のことかもしれませんが、元は成沢寛経(金兵衛 七郎左衛門 1797-1868)の所蔵品の可能性があります。寛経は家業のために書籍等を多く処分したそうなので、手元に残したものか、その後新たに入手したものか。

飯山の井上寂英(1842-1916)は真宗寺の住職。真宗寺に下宿した保科百助もウニコールの角を見たのでしょうか。

矢嶋行康(吉太郎 1836-1895)所蔵の「石鏃」は玄能石に見えます。もしも原寸大なら約20cmで「石鏃」「矢の根」と呼ぶには大きめ。上田産か、北国街道沿いなので越後産の可能性も。もしかして、海野宿の資料館にあったりするのでしょうか…

両参りと片参りの謎(北向観音、善光寺)
https://kengaku2.blogspot.com/2022/03/blog-post.html
義仲願状、三島社
https://kengaku2.blogspot.com/2022/02/blog-post.html
義仲・鎌倉 Year
https://kengaku2.blogspot.com/2022/01/year.html
鎌倉殿と信州上田
https://kengaku2.blogspot.com/2021/12/blog-post.html
Japan Heritage fake ley line
https://kengaku2.blogspot.com/2022/02/japan-heritage-fake-ley-line.html

2021年1月25日月曜日

武石小学校の焼餅石の謎、高師小僧

武石小学校の焼餅石?
武石小学校の焼餅石?(上田創造館「上田地域の地層・化石・鉱物」(2013年))

住みよい武石をつくる会広報誌に保科百助の紹介記事があることを教えていただきました。気付いた点等です。
・「ふるさとかるた 武石村」(武石小学校 1988?)「すずしげにカラコロと鳴るやきもち石」の題材になった武石小学校所蔵の焼餅石?には謎があって、一般的な緑簾石の焼餅石とは異なるように見えます。褐色の部分があり、管状の突起があります。(管の穴が内部まで続いているかどうかはわかりません。) 一般的な音はコトコトやシャカシャカで、カラコロというのは他にはまだ知りません。表面の文字?も不明です。
・保科百助が最初に入手した緑簾石の焼餅石は、武石小学校の生徒が持ち込んだもの。(『信濃公論 明治41年12月16日』)
・比企忠(ひき ただす)や高壮吉(こう そうきち)が武石村を訪問したのは明治29年4月、5月。(『地質学雑誌 明治29年7月』)
・保科百助が地質学教室に行ったのは、高壮吉によれば明治29年の秋。(『五無斎保科百助評伝』等)
・標本目録の名称は「長野県小県郡鉱物標本目録」(明治28年8月 師範学校同窓会で発表、明治29年7月『地質学雑誌』に比企忠が掲載。武石村の焼餅石が広く知られたのは明治29年?)
・立科町山部
・(七郎左衛門は世襲名の一つで、雲帯(寛致)の孫の寛経も七郎左衛門)
・(「方名 ブセキ」は江戸時代には広く使われていた名称で、もしかしたら地元由来ではなく、村外で発生して伝わってきた可能性も。)
・黄硫鉄鉱の方名は「下武石 余里其他諸所」で共通して「ヂャカ 金武石」、という解釈もできるのではないでしょうか。(「一六 柘榴石 方名 菱石 緒〆石」が似た文章です。)
・武石村産標本はもう一つ「三一 ? 下本入 ドイン石(高師小僧)」があります。長野県地学標本(明治36年)にも収録。産出場所は未確認。(小山真夫によると「下武石区のたつ原」とも。)
・鈴木半兵衛一保(甘井)
・鈴木甘井の手紙で武石をブセキと読んだかどうかは『書簡による近世後期俳諧の研究』では不明ではないでしょうか。

住みよい武石をつくる会広報誌『住みよいたけし 第21号』(2020年10月16日)
たけし 歴史さんぽ道 第3回
https://s-takeshi.jp/tiikizyoho/koho.html
武石村の歩み
https://s-takeshi.jp/siryo/ayumi.html

2020年8月14日金曜日

安曽岡山の櫃石の謎

櫃石(信濃国小県郡年表 26頁)
櫃石(『信濃国小県郡年表』26頁より)

櫃石(ひついし?)は『信濃国小県郡年表』にある石で、他の資料では見たことはありません。約5.4m x 5.4m x 10.8m という大岩。この付近には水平方向の柱状節理の露頭もあるので、それを「巨大な小袖櫃」に見立てたのでしょうか?

上野尚志(1811-1884)『信濃国小県郡年表』(活字本 26頁)
安曾(中略)爰等里人談に柳沢山の中腹に塩田氏の臣安曾(一作浅岡)甚太夫の城跡あり、二つの石塔存す云々。又云、備場とて棚の如き石垣段々あり其下の野に巾三間余長二三丁の堀切あり尤も城は小さし。其鬼門に諏訪明神あり、安曾の社と号す。此山に櫃石とて白き高さ横とも三間余長さ六間余四面削りたる如く小袖櫃に似たるあり。(以下略)


例えば、単位が間(約1.8m)ではなく尺(約30cm)とすると、約90cm x 90cm x 180cm で小袖櫃に近くはなりますが、わかりません…
どんな本でも誤りは大抵あって、原書を確認したら誤記や誤写が見つかって、考察が無駄になった、なんてことも。(例えば『五無斎保科百助全集』の「十二の人」の考察とか)
原書画像や正誤情報の優先順位は比較的高いと思うのですが、『年表』再復刻のときはあまり話題にならなかったようで、ちょっと残念…
(「備場」は「槍立場」(『ふるさと塩田 村々の歴史』石神)と同じ場所でしょうか。元々は曲輪とか建物跡の可能性が高いと思いますが、芳沢の東に「高山」があるので、地名は鷹狩りとも関係があるのかも。)

ちなみに、国立国会図書館のデジタル化資料に『信濃国小県郡年表』(活字本)は無いようです。『小県郡史』はありますが、『余篇』はインターネット公開で、『(本篇)』は図書館送信資料。(図書館送信資料は、全国の特定の図書館・大学等でインターネット閲覧ができるもので、一般の人も一応利用可能。)
著作権保護期間が終了するか、著者・編者が公開を許諾して手続きが行われれば、インターネット公開になるわけですが、著作権以外にも個人情報とか文化財・自然保護等の問題もあって、簡単ではないのでしょうか…
『五無斎保科百助全集』は図書館送信資料、『五無斎保科百助評伝』は未デジタル化のようです。

2020年7月14日火曜日

企画展「博物学と登山」

追悼の連載記事(昭和5年2月27日信濃毎日新聞より)
追悼の連載記事(昭和5年2月27日信濃毎日新聞より)

大町山岳博物館で、渡辺敏(わたなべ びん 1847-1930)没後90年の企画展を開催するそうです。
一壜百験(いちびんひゃっけん)のワークショップ、保科百助関連の講演会等。
地学標本も多く収蔵していて、『市立大町山岳博物館 研究紀要』にもいろいろ資料があります。(別所層の有孔虫等)

渡邊敏 没後90年 令和2年度 市立大町山岳博物館
企画展「博物学と登山 -大正登山ブームと信州理科教育のさきがけ-」
2020年7月18日(土)~9月27日(日)
https://www.omachi-sanpaku.com/

渡辺敏『近易物理 一罎百験』(明治25 1892)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/829985
渡辺敏『郷土史料 長野町小史草稿』(明治30 1897)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765217
渡辺敏『何かの種 猿のもの真似』(明治35 1902)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1168658

渡辺敏と保科百助
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36004932
五無斎保科百助君碑
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36168641

2019年12月30日月曜日

高師小僧(褐鉄鉱)

高師小僧(褐鉄鉱)
高師小僧(褐鉄鉱)

褐鉄鉱(保科百助「長野県地学標本」?)
褐鉄鉱(保科百助「長野県地学標本」?)

上の写真はたぶん湖成層の高師小僧(褐鉄鉱)。軟らかい中空の円筒で、触ると簡単に壊れました。(「○○小僧」とか「○○振り」とか、姿に見立てるには、もう少しデコボコがあった方が良いのかも)
塩尻の千曲川沿いでも大量の褐鉄鉱が見られたという話を聞いたことがあります。こんな感じだったのでしょうか。

下の写真は保科百助「長野県地学標本」の褐鉄鉱。(ただし、容器が破損していて、確実ではありません。)「長野県地学標本」「長野県小県郡鉱物標本目録」に武石村下本入・上武石粘土中の円筒形・棒状の褐鉄鉱があるのですが、採集記録が見つからず、その後の話も聞かず、詳細は不明。小学校等に何か残っていそうな気もするのですが…
(保科百助の「野帳」は採集品の在庫台帳であり、産状の記録はわずか。地質学者になりたかったけれど神保小虎の言葉で諦めたという「筋立て」が怪しく感じられる理由の一つ。)

2019年6月9日日曜日

五無斎保科百助碑の碑文

五無斎保科百助碑 碑文
信濃教育 昭和4年1月より 五無斎保科百助碑 碑文

『信濃教育 昭和4年1月』にある、長野市の五無斎保科百助碑の碑文です。浅井洌の撰文。訓読文が三石勝五郎『詩伝・保科五無斎』(1967) 232頁 にあります。

跋渉高山絶壁踏險冒危屢出入死生衢具甞辛酸
而所採集之鑛石達五万餘個盡頒之於各種學校
身不留一物其珍奇者致之於大學資學者研究其
有功斯學爲不尠矣信濃敎育會之創圖書舘也周
旋盡力無不到其有今日實君之力也性恬淡不拘
物卓犖不羈時脱繩墨而識見奇拔多足驚人者矣
初君之在小學校長之職也常語人曰他日辭職跋
渉信中之山河採集鑛物呈諸君供敎授便人以爲
放言後及實現其言人々皆驚更及見圖書舘之成
人服其精神與手腕世之信用漸篤會將大有爲之
期忽罹篤疾不起矣吁

(※丙に攴は更に替えました。)


改めて読んでみると、地学標本と信濃図書館の話に絞って、物語性を持たせた文章になっています。

「身不留一物」は少し誇張で、「当時の余りもの一万余塊」を明治41年に「おもちゃ標本」として一種三銭均一で販売もしています。(『信濃公論 明治42年3月10日』「第九。礦物地質の學普及必要の事。」)
牛山雪鞋も三将軍歓迎会の記事の中で「頗る地質學及礦物學に詳しく、其資産は悉く斯學研究の爲めに費し數年間山野に跋渉して諸種の礦物を採集し之を整理して悉く諸方の學校に寄附し、少しも自身の爲めに殘さず」と書いていたので、長野高等女学校に標本を寄贈した頃から「身不留一物」の話はあったのだろうと思います。

6月7日は保科百助の命日でした。昨年は生誕150年のイベントがあって楽しかったです。まだ埋もれている資料はたくさんあるはずなので、今後も積み重ねて行けたら良いなと思います。

また一つ年を重ねて思うかな 急がずもじき無一物なり
美しき未来に向かい思うかな なめくじ這える日陰もほしなと
足元の死骸を踏みて思うかな 知らぬが仏を知らぬも仏
石一個笑ってみれば思うかな 空に笑いの満ちてあるなり

2019年6月3日月曜日

星糞(星石)


星糞(ほしくそ 星石)
信州和田峠 星石 (飯田市美術博物館編『江戸時代の好奇心』(2004) 33頁より)

星糞(ほしくそ 星石) 地質学雑誌より
地質学雑誌 明治27年7月 山田・伊木「旅中見聞鎖談ノ續キ」より

先日、勉強会で保科百助「長野県小県郡鉱物標本目録」(明治28年・29年)にもある「星糞(ほしくそ)」の語源の話題がありました。本では菊岡米山『諸国里人談』(1743)、木内石亭『諸国産石誌』(星糞)、『諸州石品産所記』(星石)、伊藤圭介『日本産物誌』(明治5)(ホシイシ 一名ホシクソ)等にあります。

『諸国里人談』は田から黒曜石等のかけら(たぶん遺跡の石器)が出てくるという話で、それを当時の人は星の化石とか星の糞とか呼んだわけです。さらに、星との結び付きの起源は?となると、わかりません。石器時代からあったのもしれませんし、そうではなく、もっと後になって生れたイメージなのかもしれません。
(記述から、主に黒曜石と思われますが、他の石も混在して、明確には区別していなかったのではないかと思います。また、本物の隕石によるガラスを見た記憶や伝承も混じっている可能性も。)

※星糞を「黒曜石の方言」とする説明を見ることがありますが、星糞・星屎(ほしくそ)は中国伝来の本草学の言葉であり、江戸時代には全国的に使われていたので、方言とか地方名とは言えないのでは…(地域・学者によって定義や対象に差異はありますが)

和田峠の黒曜石も江戸時代には(諸地方と同様に)星石、星糞と呼ばれたのだろうと思います。市岡家コレクション(1800年頃)に「信州和田峠 星石」がありました。また、市岡智寛『玄経集』に和田峠の「星カ石」の記述があるそうです。(星化石?)

鷹山の「星糞峠」はもしかしたら明治からの名前かもしれません。天領・国有林で一般の入山は制限されていたそうなので。(戦後に開拓、スキー場開発)
山田・伊木「旅中見聞鎖談ノ続キ」(地質学雑誌 明治27年7月) 、山崎直方「八ヶ嶽火山彙地質調査報文」(明治31 1898)に星糞・星糞峠の名前がありました。(ここは黒曜石に「耀」の字を使ったり、名前にこだわった取り組みをしているので、峠の名前にも何かこだわりがあるのか?と思いましたが、そうではなく、遺跡調査のずっと前から学者の間では定着した名前だったようです。児玉司農武氏の文章にも「有名な星糞峠」という言葉がありました。)

※和田峠等、広範囲が「八ヶ岳中信高原国定公園」になっています。岩石等の採集には土地所有者・権利者の許可が必要で、さらに公園内や史跡等では様々な制限があります。
(誤解を招くような話を見かけますが、自然公園法の制限・許容の対象は当然、地権者。軽微な変更に止めるには不特定の採集は許容できない≒一般の採集禁止?)

菊岡米山『諸國里人談 卷之二』(寛保3 1743)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557402/14

○星糞《ほしくそ》
信濃國岩村田の邊に星糞《ほしくそ》といふ石あり 春 田《た》耕《うへ》す(※たがやす?)ころ土中より掘出す也 色うす鼡にして性《しやう》は水晶石《すいしやうせき》に似たり 大きなるは稀《まれ》也 燧石《ひうちいし》の欠《かけ》たる程の石角たちたる也 此地は他所より流星《りうせい》多き所也 すぐれて流星あるとしは此石もまたおほし これを星糞《ほしくそ》といふ


宮澤恒之「「市岡家の 考古資料」補遺」(2005)
https://doi.org/10.20807/icmrb.15.0_197

伊藤圭介『日本産物志 前編 信濃部 上』(明治5 1872)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801582/3

地質学雑誌 第1巻第10号 明治27年7月
山田・伊木「旅中見聞鎖談ノ續キ」より

旅中見聞鎖談ノ續キ (十五)信州和田峠 上諏訪に着し日尚ほ高かりしを以て之より三里半を隔てたる和田峠を驗したり、此山は木曾街道の一部にして今は舊道廢して新道の通行甚た盛なり 峠の東西に二小村落あり 東に在るを東餠屋と云ひ西に在るを西餠屋と云ふ 山越の旅人の休息所なり、和田峠は一の火山地にして西餠屋の邊より少しつゝ火山岩の散布せるを見る 此より廢れたる舊道を傳ひ行くに岩石累々として橫はり恰も河原を行くが如し 道こそなけん好き岩石は標本は數多集めらるゝなり、岩石の内里人の口にとまれる者は星石及ひ豆石なり、星石は又星の糞と稱す 尋常の黑曜石の稱なり 白き小斑點を有する者あり、豆石は Spherulitic Obsidian の種類とも云ふ可き者にして恰も豆を集めたる如き看をなせり 取り來りて公園の置石等に供せるを見る 顆粒は直徑二三許にして其發生烈しく硝子即ち黑曜石の部分は殆んと有るかなきか位なり 顆粒は多くは核として中心に一個の長石の微晶を有せり、顆粒の内部の構造に二樣あり 即ち長石を取圍みて分子か同心環樣(Concentrically)に排列せると菊座形(Radially)に排列せるものとあり 環層をなすもの多く菊座形をなす者は稀なり 此顆粒の薄片は能く光線を通過せしめす反射光を以ては灰色に見え通過光を以ては褐色に見え尚非常に多く散在せる岩石は粗面岩樣の岩石にして色白く大抵里雲母を有し時として石英を有す 能く流紋組織 Fluxion Structure を顯はし恰も木纖維の如き看を呈する者あり、和田峠に富士岩質の岩石を見さるを以て考ふれは寧ろ古代の火山ならんか 尤も路中玄武岩の露出する所ありと云ふ、(以下略)


震災予防調査会報告 第二十号(明治31 1898)
山崎直方「八ヶ嶽火山彙地質調査報文」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831458/47
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831458/73

第四章 火山特論 より

(十)和田峠
(中略)
峠の頂上に露出せる黑曜石は和田峠の黑曜石とて其名夙に顯れ黑曜石と稱すれば直に和田峠を聯想せしむるに至れるものなり 今此黑曜石噴出の状況を察するに和田峠の直に東に隣り鷲ヶ峯あり 南方霧ヶ峯火山に連る鷲ヶ峯は此附近に於ける最高峯にして東は男女倉澤より星糞峠の方向に長き山脊を曳き西は和田峠より緖占山に連る、黑曜石並に其類似岩は實に此鷲ヶ峯附近を中心として噴出し此等の地方に流れ一部は焙録山の富士流を蔽へり 此黑曜石熔岩は其種類一ならずして所を異にするに從ひ其外觀亦從て異れり
今和田峠地方に露出せる黑曜石の種類を示さんに其最普通なるものは黑色の玻璃にして時々褐色又は白色の彩紋あるものあり 又其色淡きときは白色或は殆ど無色を呈す 此等の黑曜石中球子を含有するものあり 普通豌豆大黝色不透明の非晶物にして其少なきものは唯僅かに點々散在するも其數次第に增加して遂に岩石全體に球子を以て充たされ透明なる玻璃質分は纔に其間隙を填充するに過ぎさるものあり 此球子となるべき物質は又充全なる球状をなせる球子を造らずして泡沫状をなし宛然熔鉄爐より生ずる鑛[金へんに宰]の状を呈し其各泡又純、不純、各種の玻璃質又は磁器状のものより成るものあり 此等の岩石は石質脆弱にして又其不純陶器質の部分は霉爛し易く爲に岩石容易に粉碎して其堅硬なる玻璃質の部分のみを剰し粗粒の砂を作る鷲ヶ峯和田峠の中間に位する山脊、及び星糞峠附近に於て其適例を見るべし、
(中略)
此黑曜石は如何なる種類の岩石の玻璃に屬すべきか試に之を鏡下に檢するに美麗なる流紋状をなせる「ミクロライト」、「ロンギュライト」の外に往々斜長石、顆粒状をなせる輝石、桂状(※柱状?)をなせる角閃石等の介在せるを認むべく、星糞峠の西方には殆と玻璃質の石基より成れる角閃富士岩あり、鷲ヶ峯の角閃富士岩の如きも玻璃質に富み其和田峠に近つくに從ひ此角閃富士岩は玻璃質と共に「ユーターキシット」構造をなすものあり、由て意ふに此黑曜石は富士岩玻璃にして即ち此鷲ヶ峯地方に發達せる角閃富士岩と同一の岩漿より成り唯其急激なる凝結によりて今日の状態をなすものたるに過ぎす 而して其外觀に種々の差あるは亦其凝結當時の状態により彼の泡沫状をなすものは意ふに岩流の表面に生じ、完全なる玻璃質をなせる部分、及び土器質にして緻密流状をなせる部分は稍其内部に位せるものなるべし

2019年5月28日火曜日

三将軍歓迎会での保科百助

保科百助 三将軍歓迎会の記事
信濃毎日新聞 明治39年5月14日号外 より

保科百助 三首朗詠
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より

保科百助 三首朗詠
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より

明治39年5月13日、長野市での三将軍(伊東元帥、東郷大将、上村中将)歓迎会で保科百助が短歌三首朗詠したという話は、大澤茂樹(同窓の大澤茂十郎の子)が「土地の長老先輩」から聞いた話として、『信濃教育 昭和4年1月』(保科五無斎号)に寄稿したものです。

当時の信濃毎日新聞を見ると、近くで控えている保科百助を見た上村中将と新聞記者の牛山清四郎(雪鞋)、川崎三郎との会話が書かれていますが、三首朗詠については何の記述もありません。

信濃毎日新聞 明治39年5月14日号外 より
(同じ記事が15日朝刊にも掲載)

(六)大分怖い人ぢや
上村中將は密かに我等の後に扣えたる保科百助氏を指し、聲をひそめて問ふて曰『あれは誰ぢや大分怖い人ぢやの』余即ち保科氏を紹介し其人物を説明して曰『閣下是れは我信州の名物男五無齋保科百助と申すものにて、頗る地質學及礦物學に詳しく、其資産は悉く斯學研究の爲めに費し數年間山野に跋渉して諸種の礦物を採集し之を整理して悉く諸方の學校に寄附し、少しも自身の爲めに殘さず、現今は當市下に私塾を開いて熱心に諸生を敎育して居ります』と 中將は聽き了りて川崎氏を顧み『信州は中々に奇傑が多い、此培養をしたのは一体誰だらう』『左樣矢張佐久間象山などで御座いませう』『其象山を用ゐた大名は誰ぢや』『眞田侯です』『夫れぢや/\夫が多くの奇傑を出す手本を拵えたのぢや、英雄も豪傑も種がなくては生えぬ』。


※「余」は信濃毎日新聞記者 牛山清四郎(雪鞋 せつあい1865-1939)(信濃公論にも参加)
※「川崎氏」は信濃毎日新聞主筆 川崎三郎(紫山 1864-1943)


東郷大将が保科百助を「こわい人」と言ったという話がありますが(荒木茂平『人間 保科五無斎』等)、新聞記事では東郷大将ではなく上村中将です。
大澤茂樹の文中の、保科百助が「長野県人として三将軍の印象に停つたものは我輩だけである」と言ったという話は、この新聞記事を読んで自慢したのかも。


実はこの「三首」は、明治39年8月(9日?)、長野市で開かれた南信探勝隊歓迎会で、小川平吉を批判する演説の中で語られました。演説内容は信濃毎日新聞(明治39年8月14日)と長野新聞に寄稿。衆議院選挙の新聞広告(信濃毎日新聞 明治41年5月6日)でも触れられています。

6月に家鴨の仕入れに新潟へ出張したとき、汽車の中で「五無斎主人に生写し」の老壮士から、講和反対運動を批反する話を聞いた、という内容です。「三首」は、誰の歌というわけでもなく、老壮士の話の中で唐突に出てきます。日露戦争の後「日本勝った ロシヤ負けた」などの歌が作られ、流行したそうで、「三首」はそれらの流行歌を模して作ったものかもしれません。
演説最後の「万歳」の歌は小川平吉に対するもので、明らかに嫌味です。


三将軍歓迎会で三首朗詠が無かったかどうかは未確定です。
もしも小川平吉を三将軍に置き換えたとすると、誰がなぜこんな話を作ったのか(記憶違いか意図的か)、また、事実ではないことを指摘する人はいなかったのか。

「世界敵なり」は国際社会で孤立するという意味ではなく、演説の中の「今後世の中は頗る物騷となりたり。十年目十年目位には何れかの國と戰端を開く事とならん」に対応する言葉のようです。(日露戦争当時、今後も戦争が続くという見方が広くあり、保科百助もそのように思っていたことがわかります。対外的な戦争が日常の一部という時代であったことを改めて気付かされました。)

各「三首」を比較すると、異なる部分はあるものの、よく似てもいるので、南信探勝隊歓迎会とは別のバージョンが何かあったのかもしれません。(例えば、短冊とか、信濃公論の記事とか。)

大澤茂樹の文(昭和4年)では「世界敵」の歌がありません。荒木茂平『人間 保科五無斎』(昭和31年・37年)でも同じです。ところが、三石勝五郎『詩伝 保科五無斎』(昭和42年)にはこれがあります。三石勝五郎は何を参照したのでしょう?

南信探勝隊歓迎会のオリジナルでは「ロシヤは負けたり」なので「ロシヤ」は2音(ロシャ)のはずです。他のものは「ロシヤ(ロシア)負けたり」なので「ロシヤ」は3音です。
また、「万歳万歳 万々歳 万々歳々 万々と歳」が、他のものはどれも「万々歳々万々歳 万々歳々 万々の歳」となっています。


信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より

寄書
南信探勝隊 歡迎會席上
  五無齋 保科 百助
諸君。余《よ》は當市妻なし《◎◎》の里に住居する獨身ものゝ保科百助《ほしなひやくすけ》と申すものなり。先頃迄は私立學校經營の傍ら養禽《やうきん》事業を營み居りたるものゝ經濟上の事情や其外《そのほか》の原因にて去る四日斷然閉塾して今や純粹の養禽家となりたり。雅號は六無齋マイナス一即ち五無齋とは申すなり。爾來御見知り置かるゝやう御願申上げ奉るなり。
偖《さて》諸君余は去る六月上旬中越後國三條町附近へ家鴨《あひる》の仕入に出向きたる事ありたり。當時四日町や三條一の木戸邊《きどへん》には大竹《おほだけ》代議士歡迎會何々代議士も出席といふ張札《はりふだ》を見たる事ありたり。只々如何にも不可思議に堪えざりしは大竹代議士のみは貳號活字のやうに大書《たいしよ》し殊更赤インキにて三重圈點《 ぢうけんてん》の着けありたるにも拘らず何々代議士の方は普通六號活字の如く書きつけ無圈點《むけんてん》なりし事なり。依て余は歸途の際汽車中にて去る越後者のチヨン髷親仁《まげおやぢ》に抑《そ》も大竹代議士とは如何《いか》なる人物なるやを質問せり。件《くだん》の老人は頗る得意なるものあり。晏氏《あんし》の御者の夫《それ》の如く鼻うごめかしつゝあの人こそ越後第一等の豪《えら》き人物なれ。大竹の旦那とて以前は頗る財産家なりしも今は殆どすべ/\となられたり。然れども親類が親類なれば吾々の如く三度の食物《しよくもつ》にまごつくやうなる事はなし。昨年の何時頃《いつごろ》なりしか今はよくも記臆し居らざれども江戸村に於て非講和大會とか言ふものゝ開かれたる折大竹の旦那が本家本元なりし由《よし》なり。其時には江戸村は愚か日本中の大騷ぎとなりたる樣聞き及ぶなり。あのやうに大きな文字にて書かれて紅《あか》の丸をつけらるも素《もと》より其所《そのところ》なり。大竹の旦那は日本の三人男なりとの評判なり。又來年の選擧の時は數《かず》ならぬ此親仁《このおやぢ》なども御盡力を申し上ぐる積りなり。あの旦那の爲めならば三圓や五圓は持ち出しても國會に出て御貰ひ申さねばならぬと越後中にて申合せ居るなり。南無阿彌陀佛々々々々々々とて此老人は次ぎの停車塲にて下車せり。
茲《こゝ》に又最も愉快なりしは予《よ》が筋向《すぢむかひ》に着座して柏崎日報を閲讀し居たる巣鴨式《すがもしき》の一人物あり。年齡は四十前後ならん。長髮を梳《くしけづ》らず粗髯《そぜん》を撫《ぶ》し慷慨悲憤《かうがいひふん》時事を痛論するの風体《ふうたい》は鏡にて見たる五無齋主人に生寫しなり。此《この》老人の下車するや否や此老壯士は予に一揖《 いつ》して御得意の政治論を擔《かつ》ぎ出せり。曰はく貴下《きか》は何國《いづく》の人又如何《いか》なる人なるかは知らざれども旅は道連れといふ事あり。昔人《せきじん》の如く無闇に沈默を守り居らんも如何《いかゞ》 偖《さて》今の老人の話によつて思ひ出せる事あり 河野廣中《かうのひろなか》や大竹貫一《おほだけくわん 》及び外《◎》一名の如きは明治十三四年頃の政治家也。今時《いまどき》となりては既に骨董的老政治家の好標品《かうへうひん》となりたり。彈劾的奉答文とは抑《そ》も何等《なんら》の失態ぞ。如何《いか》に當時の内閣員が氣に喰はぬとは言ひながら開院式の敕語奉答文中に彈劾的の文句を書き加ふるとは何等《なんら》の戲言《たはこと》ぞ。是《こ》は田中式の栃鎭漢《とつちんかん》と謂ふものなり。三百餘の代議士が揃ひも揃うて立ちそこない各《おの/\》壹貳萬兩の運動費を棒に振りたるなどは近頃以つて笑止の至りなり。又昨年の非講和大會の如きは何等《なんら》の惡戲《あくぎ》ぞ。償金《しやうきん》三十億バイカル湖以東の取れなかつ(た)のが不平なりとの意ならんかなれどもソハ書生の空想論といふものなり。老政治家の容易に口にすべきには非るなり。當時我國の經濟事情を察するに戰爭の繼續は殆んど覺束なし。一時休戰するの止むを得さること屁を見るより明らかなる道理なり。講和條約とは言ふものゝ其實は一種の休戰條約に外ならず。今後世の中は頗る物騷となりたり。十年目十年目位には何れかの國と戰端を開く事とならん。

 ロシヤ負けた ロシヤは負けたり ロシヤまけた ロシヤはまけたり ロシヤは負けたり
 されど又 世界は敵ぞ 世界てき 世界敵なり 世界てきなり
 故《ゆゑ》に又 金《かね》をたむ可し 金ためよ 金をたむ可し 金をたむ可し

表面丈ケは講和條約とせねば一億五千も取れぬなり。樺太半分も取れぬなり。休戰條約によつて一億五千の償金《しやうきん》が取れ樺太半分と旅順大連もお手のものとなり鐵道も砲臺も戸籍が此方《こつち》のものとなり朝鮮の宗主權も確定したりとすれば小村全權の外交は先以《まづも》つて小成効を奏《そう》したるものと謂ふ可し。當時帝國に使用の途《みち》なくよく/\遊び居る金の三十億もあらば三十億の償金は取れん。五十億の遊び金あらば五十億の償金は受合なり。金を借りるとしても一萬の財産ある者ならでは一萬の借金は出來ぬなり。吾人《ごじん》の如き無一物《む ぶつ》の素寒貧《すかんぴん》には百圓の借金も出來ぬなり。演説でもする積りにて貴宅《こちら》のお猫さんは太つて居らしやるなり。貴宅《おたく》のお狗さんは大兵肥滿《たいへうひまん》に渡《わた》らせらるゝなりなど其外《そのほか》床の間の軸物《ぢくもの》より勝手元《かつてもと》のお鍋殿《なべどの》迄をも襃めそやして偖《さて》其後《そのゝち》に時に閣下金子拾圓時借《ときがり》など申出でゝは見たれども何時《いつ》も謝絶の運命に接すること殆んど千遍一律《 べん りつ》なり。之《これ》を要するに外交の懸け引きなどいふことは無き事なり。最後の談判は必竟《ひつきやう》○《るま》問題なり。吾人《ごじん》が全權大臣としても此位《このくらゐ》の外《ほか》は出來ず。然らば河野や大竹に此位な理屈がわからぬかと言ふに夫《そ》れ程な馬鹿でもなし。此位な事は知りぬいて居《を》れども實は他《た》に一つ爲めにする所あるが爲めなり。ソハ言ふまでもなく運動費なしに何回となく永久に代議士となるか國務大臣とでもなりたしとの野心《のごゝろ》に外《ほか》ならず。代議士としての外《ほか》三が月《つき》に二千圓の月俸の取れぬ大馬鹿者なることは彼等《かれら》の深く自覺する所ならん。凡《およ》そ代議士には歳費二千圓の外《ほか》汽車只乘法《きしやたゞのりはふ》の特典あり。行々《ゆく/\》は汽船の只乘も出來ん。女郞《ぢよろ》や藝者もロハとならん。運動費なしに出られるとすれば吾人《ごじん》も出て見たきものなり。但し代議士としての抱負などは一ツもなし。帝國憲法は發布の翌日半分許《ばか》り讀みさしにして偖《さて》止《や》みたり。然れども汽車汽船にロハ乘りが出來女郞《ぢよろ》や藝者が只買へるとすれば百圓や二百圓位ならば借金を質《しち》に置いても出て見度《みた》きものなり。然れども其百圓か二百圓の金でも出來ぬとは何《なん》ぼう悲しき事ならず哉《や》と言はざるを得ず。

江戸といふ所は大分《だいぶ》利口な人も居《ゐ》る代りに馬鹿な人も隨分澤山ある樣子なり。騷擾事件の時の人出《ひとで》は實に夥《おびたゞ》しきものなり。是《これ》は大竹や河野の爲めに助練《すけね》りとか附《つ》け練《ね》りとかいふものを出したるなり。助練りとは譬《たと》へは御地《おんち》の妻科の祭禮に城山《じやうやま》や權堂邊《ごんだうへん》からも練り物《もの》を練り出すなり。肝腎要《かんじんかなめ》の大竹や河野や其外《その◎》の人達が無罪で助練りに出たものが有罪とは頗《すこぶ》る御目出度《おめでた》きものなり。さすが法官《はふくわん》は獨立など言へども少《すこ》しく受取れぬ話なり。百四十餘の辨護士の助練りも大したものなり。併《しか》し是《これ》も例の辨護士連の廣告の一種なりとすれば左程に惡《に》くゝもなし 廣告なる哉《かな》。廣告なる哉。

汽車の長野に着《ちやく》するや車掌の長野々々《ながの/\》三十分停車の聲に打ち驚かされつゝ倉皇《さうくわう》下車すれば忽《たちま》ちにして此《この》老壯氏を見失ひ其《その》南柯《なんか》の一夢《 ばう》たりしに心づきたり。

偖諸君。諏訪明神樣や御嶽山《おんたけさん》座王大權現殿《ざわうだいごんげんどの》は江戸村附近に於ては大分《だいぶ》靈驗まします樣持《も》て囃され居《を》れども我《わが》信州地方にては實は夫《そ》れ程でもなし。是《これ》は豫言者故鄕《こきやう》に名あらずといふものならん。大宰春臺や佐久間象山でさへも諸人渇仰《しよじんかつかう》の本尊《ほんぞん》とはならず。渡邊兄弟《わたなべけいてい》の如き實は何でもなし。故に其外《その◎》のヘボ代議士の如きは況《いは》んやに於てをやと言はざるを得ず。

偖諸君。今回は江戸村の新聞屋が其數を盡して各代表者を御出し被下《くだされ》諏訪明神樣への助練《すけね》りの御寄附何とも痛み入つたる次第なり。御禮の申上樣《まをしあげやう》は萬々《まん/\》なし。然り而《しかう》して赤貧洗ふが如き家鴨屋《あひるや》の五無齋までが助け練りの又其助け練りの爲めに大枚金三圓の會費を出して出席致す事如何に義理人情にて固めたる娑婆お附き合なら火事にでもといふ浮世とは申せ若し神樣佛樣よりコを見給はゞ如何に棒腹絶倒し給ふらん。是れが何《なん》ぼう芽出度事《めでたきこと》ならずや。

少しく酩泥《めいでい》の餘り何を云ふた事やら自分にも絶えて分らぬ事もあるやうなり。終りに臨み予は謹んで名譽ある野心《のごゝろ》深き靑年政治家小川平吉君《をがはへいきちくん》の爲に萬歳を祝《しゆく》せざるを得ず

 小川君 萬歳々々《ばんざい/\》 萬々歳《ばん/゛\ざい》
  萬々歳々《ばん/゛\さい/\》 萬々と歳《ばん/゛\さい/\》

失敬多罪《しつけいたざい》

2019年5月25日土曜日

保科塾と満韓旅行

保科百助 満韓視察 新聞広告
明治38年3月2日 信濃毎日新聞 広告

信濃教育会雑誌 明治39年7月25日 33頁
『信濃教育会雑誌 明治39年7月25日』33頁より

保科百助(ほしな ひゃくすけ 1868-1911)が保科塾を閉塾(明治39年8月4日)した理由については諸説ありますが、その時、行われていた学生・教員の満韓視察旅行が影響したことも考えられると思います。

明治38年3月2日(日露戦争 奉天会戦中)、保科百助は、7月から3か月間の満韓視察をしたいので「萬般の便宣を與へられ度」という内容の新聞広告を出しました。結局「萬般の便宣」は得られなかったようで、渡航は実現しませんでした。

日露戦争終戦の翌年、明治39年7月、陸軍省と文部省は学生・教員を対象に満韓旅行を企画しました。参加者は全国で3600名余り。長野県は学生85名、教員135名、合計220名。
保科百助はこの旅行に参加していません。人と同じことをするのを好まなかったので、大勢の教員と一緒の団体旅行には不満足だったかもしれませんが、望んでも視察に行けずにいる自分と比べて、強い苛立ち(または失望)を感じていたのではないでしょうか。

『信濃教育会雑誌』によると長野県の視察団の日程は、7月25日宇品港出発、29日大連、31日旅順、8月2日奉天。
信濃毎日新聞にはこの旅行に関する記事や、参加していた太田水穂の報告記事が度々掲載されました。それらを目にして、悔しく、塾が足かせのように感じられて、どうにも嫌になってしまった、というのが閉塾(8月4日)の一つの動機だった可能性もあるのではないでしょうか。


信濃毎日新聞 明治38年3月2日 広告記事

小生儀赤貧洗ふが如くなるにも不拘聊か時
局に鑑みる所あり來る七月上旬當地出發凡
そ三が月の豫定を以て滿韓地方に於ける敎
育實業視察の爲め渡航仕候間視察上心得と
なるべき事其他萬般の便宣を與へられ度尚
何々の事項を視察し來れとの御下命をも蒙
り度此段略儀ながら新聞紙上を以て御願申
上候敬具
明治卅八年三月 在長野市
五無齋事 保科百助


『信濃教育会雑誌 明治39年7月25日』33頁より

滿韓旅行者と本縣人
今回文部省が陸軍省等に交渉して敎育者並學生等の團体滿韓旅行に關し非常なる便宜を與へられ從て本縣にても夫々奨勵され尚信濃敎育會にても殊に該會員の便宜を企圖したるが右旅行者渡航の爲め 甲班《●●》は樺太丸六百人を定員とし七月十五日宇品發仝十九日大連着歸航は八月五日大連發同九日宇品着 乙班《●●》は雛丸六百五十人を定員とし七月十九日宇品發同二十三日大連着歸航は八月八日大連發同十二日宇品着 丙班《●●》は神宮丸六百五十人を定員とし七月二十二日宇品發同二十六日大連着歸航は八月十二日大連發同十六日宇品着 丁班《●●》は御吉野丸一千四十二人を定員とし七月二十五日宇品發同二十九日大連着 戊班《●●》は樺太丸六百人を定員とし七月二十九日宇品發八月二日大連着歸航は八月十八日大連發同二十二日宇品着の豫定なりと云ふ今丁班たる御吉野丸便乘者團体の詳細を記せば左の如し

丁班御吉丸便乘滿韓旅行者團体配属人員
船名 御吉野
乘船月日 七月廾五日
總人員 一、〇四二
府縣又  配當人員 人員計 團体數 團体監督者氏名(※略)
學校名
 東京府   三五  九六   一
 神奈川縣   五
●埼玉縣   二四
 千葉縣    三
●栃木縣   二八
●群馬縣   四五 一〇九   一
●靜岡縣   五八
●山梨縣    六
●茨木縣   八〇  八〇   一
●長野縣  二二〇 二二〇   二
 宮城縣   三〇 一四三   一
 仙臺醫學   一
 專門學校
 福島縣    七
●岩手縣   三九
 盛岡高等  一〇
 農學校
 靑森縣    一
●山形縣   一二
 北海道   一六
 秋田縣   二七
●兵庫縣  一二二 一二二   一
 石川縣   二九  八四   一
 奈良縣   一八
 和歌山縣  一八
●富山縣   一九
●三重縣   八八 一〇二   一
 愛知縣   一四
●德島縣   一四  八五   一
●愛媛縣   七一

右表中配當人員は中等以上の諸學校職員生徒及小學校敎員並に附添醫師を通しての數とす又其經路は大連上陸々軍官憲に恊議して定むべしとのこと府縣名の上に●印を付したるは醫師の附添あるものゝ符號なり醫師の附添ある府縣と恊議するを要すへしとのことなり
次に又本縣旅行團体者中敎員出身者各郡市別人員數を聞くに南佐久一、北佐久五、小縣七、諏訪二七、上伊那六 下伊那二二、西筑摩四、東筑摩二三、南安曇四、更級一〇 埴科一、下高井六、上水内一〇、下水内二、長野八計一三五外に學生八五にて合計二二〇人なり

(※東京府等の配当人員の合計は95で、人員計96とは不一致。)

2019年3月30日土曜日

玄能石(ハンマーヘッド形)

玄能石
玄能石(T字形 各約6cm)

玄能石
『長野県地学図鑑』(1980)138頁 玄能石(T字形 約10cm弱)

『長野県立歴史館たより Vol.98』表紙
『長野県立歴史館たより 2019 春号 Vol.98』表紙


玄能石(げんのういし・げんのうせき)の名前の由来かもしれない、T字形の玄能石です。
(※越戸の産地は採集禁止、立入禁止になっています。)
『長野県地学図鑑』にあるようなT字の下棒が長いタイプはあまり見ませんが、短いタイプは見かけます。
両錐形のものだけを見ても金槌・玄翁は連想しにくいですが、いくつかある中にT字形のものが一つでもあれば、ハンマーが連想されて、両錐形のものもハンマーの頭部に見立てることができるかもしれません。
明治28年に武石(たけし)小学校の保科百助(ほしな ひゃくすけ 1868-1911)のところに持ち込まれた玄能石にも、T字形のものが含まれていたのかも。

海外ではどんなものに見立てているか、ウェブを検索してみると、blade(刃)、cross、star-shaped、chicken foot(鶏の足、紅葉)、rose rock、pine cone(松かさ)、パイナップル、サブマリン、molekryds(モグラのcross?)、Gersternkorner(大麦の粒)等がありました。ハンマーに見立てる例は日本以外では見つかりませんでした。石製のハンマーの頭部を hammer stone、hammerhead stone と呼ぶことはあるようです。

一番下の写真は『長野県立歴史館たより 2019 春号 Vol.98』表紙より、佐久市下茂内(しももうち)遺跡の槍先形尖頭器(石槍)(無斑晶質安山岩製)です。両錐の玄能石は、このような石槍・尖頭器に似ていますが、「(あまり似ているようには見えない)玄翁に似ているから玄能石と呼ばれた」という話が広く受け入れられています。名前から由来が作られる作用は、人間にとって、不可避な錯覚のようなものなのかも。

長野県立歴史館 2019年巡回展「長野県の考古学-時代を映す匠の技」
平成31年3月16日(土)~6月23日(日)
https://www.npmh.net/