上田温泉電軌株式会社の観光パンフレット(昭和初期) |
両参り(両詣り)、片参り(片詣り) という言葉がありますが、「片参り」は「一方では不足」「力が小さい」という意味になるので、「両参り」を使うようにと言われたことがあります。
「両参りのご利益は 1+1=2。片参りのご利益は両方合わせても 0.5+0.5=1。両参りの方がご利益は大きい。両参り>片参り×2」という冗談?みたいな話…
どちらの言葉も、ネット等で繰り返し見たりすると、強迫めいて感じられて、良い気持ちはしませんが。
(ご利益に"得手不得手"があるとか… 「土葬水葬火葬までする」と同類の悪口でしかないことがわからない? 例えば「当山は"来世担当"で現世はちょっと弱い」とか「こちらだけではご利益はない」とか、お寺が言うのでしょうか? 子供に得意顔でするような話ではないはず…)
(お寺や神社のお参りを増やして、お賽銭を増やせば、ご利益が確実になるのでしょうか? 数が足りないのは不安でしょうか? どれだけ増やせば安心できるのでしょうか…… 何も違わないことを私たちは知っているのでは? いらない尾ひれを、競うように増やし続ける?)
『信州善光寺御堂額之写』(明治10 1877)
https://adeac.jp/shinshu-chiiki/
https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100080-mh088100/ht081010
>実際には病気平癒など切実な願いで参詣する人が多かった
調べてみると、お伊勢参りや富士参り・大山参り等で、片参りの禁忌がいろいろあり、誘客に利用もされたようです。
何か並立するものがあるとき、扱いに差をつけると恨みを受ける、という発想は、自然発生的な生活の知恵のようなものでしょうか。
(商売人は「片参りはいけない」「昔から~」「皆~」「一般的~」と勧誘し、一般の人もそんな気になって(自分だけ真に受けているのも嫌なので? 納得したい、自慢したい?)口コミでも広まる、というような流れかも…)
別所の北向観音の片参りの起源はいつ頃か、記録を探してみたのですが、なかなか見つかりません。
『信濃奇勝録』『善光寺道名所図会』『別所村誌(明治14年)』『北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝』に見つからず、今のところ、昭和初期の鉄道会社の観光パンフレットが最初です。
北向観音の片参りの話を広めたのはこの頃の鉄道会社でしょうか?
(大正13年(1924) 千曲川橋梁の開通後に活発化?)
「片参り」ではありませんが、飯島寅次郎『別所温泉誌』(明治33.4 1900)(飯島保作(雪堂)が中心の共著?) に「抑當國善光寺如來は南に向ひ當觀世音菩薩は北に向ひ相對して」とありました。善光寺との対比・並立があれば「片参り」もすでにあるか、発生直前と思われます。
(※実際は北向観音堂は北西向きで、善光寺とは向かい合っていません。)
善光寺との対比・並立もこれ以前にありそうですが、未確認です。(「当国(信濃国?)観世音巡拝第一番の札所」に関する文書にある?)
飯島寅次郎『別所温泉誌』(明治33.4 1900)(飯島保作(雪堂)が中心の共著?) 25頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765305/21
抑當國善光寺如來は南に向ひ當觀世音菩薩は北に向ひ相對して互ひに不捨の光明を交はし攝取の誓ひ空しからざるを以て遠近の賽客日々に群聚し護摩の煙、鐘皷の音絶ゆる時なく籤を抽き符を乞ふもの引きも切らず盛なりといふべし當國觀世音巡拜第一番の札所にして巡拜の歌に
救世の誓ひ廣き惠みの北向に沸や泉の涼しかるらん
一に
救世の誓ひ廣き惠みの北向に沸や出湯の藥なるらん
慈惠大師の詠なりといへり堂前の東北は崖に臨み石を疊むこと數丈にして石階を設く和漢三才圖會に攝州有馬湯山權現凡寺社多南向當社北向也とあり蓋し地形によりて南向に建る能はざるより北向とせしならんか此觀音堂も其類ひなるべし
追記:江戸後期の『上田往来』に北向観音と善光寺の対比があることを教えて頂きました。片参り両参りの話もこの頃には存在していた可能性も。
宣伝の痕跡が見つからないのは、歩き旅の時代には両参りが簡単ではなく広まりにくかったとか、規模の差があって並立とは考えにくかったから、とかでしょうか…
古松周政(白鵞 海風堂 1777-1853)『上田往来』(1810年頃以前?)
文化11年(1814)4月写
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100263926/viewer/57
北向堂には厄除《ヤクヨケ》の願《ネカイ》を籠《コメ》て来る人や札を納に老《ヲイ》たるも態《ワサ》々歩行を運《ハコ》ふなり 抑《ソモ/\》此御堂を北向と申事は善光寺の本堂より真向に建《タテ》し故《ユイ》とかや
上田温泉電軌株式会社のパンフレット「善光寺から別所温泉へ」より
(絵図に青木線(1921-1938)と西丸子線(1926-1963)があるので昭和初め)
聞いてためになる汽車の中の話
或る日、汽車の中で、若い娘をつれたお婆さんと、信州人らしい青年との間に、次のやうな会話がありました。
(中略)
青年『殊にあなたは、善光寺さんのお帰りださうですから尚更都合がよいわけですね』
老婆『それは又、どういふ訳ですか』
青年『別所の観音さんは北向になつて居り、長野の善光寺さんは南向になつて居り、つまり両方向き合つてゐる訳ですね。それで善光寺さんにお詣りしたらば、別所の観音さんにもお詣りせねばならないと昔から言つて居るのです。私もさう言ふ訳で今から行く所です』
老婆『つまり善光寺さんだけでは、片詣りになつてしまふといふ訳でございますね。観音さんを先にして、善光寺さんを後にお詣りしたらばどうなるでせうか』
青年『それはちつとも構ひませんです。汽車の時間の都合でさういふやうなお詣りをする方も沢山あります』
老婆『電車賃や宿賃はお高いでせうか』
青年『いゝえ、電車賃はタツタ三十五銭です 宿賃も二円と言ひばよいでせう――オヤ、もう上田駅です。あそこに大きな電車があるでせう。あれに乗れば直ぐ別所温泉へ行きます』
老婆『どうも色々ありがたうございました。うちへ帰りましたら、早速近所の方にもお話して別所観音さんへお詣りに来るやうに申しませう』
どちらが先でも構わないと言っていますが、例えば「善光寺地震絵馬」の話では参詣の順番によって身代わりの守り札がないことになります。その辻褄合わせはどう考えていたのでしょう? 仏の慈悲は時空を超越するとか?
(「善光寺地震絵馬」からわかること
・1847年(江戸時代末)には北向観音の片参りの話は一般的ではなかった。(別行動で参詣したのは病気平癒や厄除けが目的?)
・お礼の奉額は1件で、北向観音を参詣して犠牲になった人もいた可能性はある。(当時は自然にそう思われていた?))
青年が高齢者を「ためになる話」で勧誘し高齢者が近所の人を勧誘する、という(今なら催眠商法を思わせる)図式ですが、当時、高齢者が主要な顧客層だったのでしょうか。
不思議なことに、多く見かける現代のステマ投稿も類似パターン?(公式は関与していないとは思いますが… ステマの放置も信用低下につながります。大丈夫でしょうか…)
義仲願状、三島社
https://kengaku2.blogspot.com/2022/02/blog-post.html
義仲・鎌倉 Year
https://kengaku2.blogspot.com/2022/01/year.html
鎌倉殿と信州上田
https://kengaku2.blogspot.com/2021/12/blog-post.html
脱日本遺産、泥宮の朝日、レイラインの競合
https://kengaku2.blogspot.com/2021/11/blog-post.html
Japan Heritage fake ley line
https://kengaku2.blogspot.com/2022/02/japan-heritage-fake-ley-line.html
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