2019年6月9日日曜日

五無斎保科百助碑の碑文

五無斎保科百助碑 碑文
信濃教育 昭和4年1月より 五無斎保科百助碑 碑文

『信濃教育 昭和4年1月』にある、長野市の五無斎保科百助碑の碑文です。浅井洌の撰文。訓読文が三石勝五郎『詩伝・保科五無斎』(1967) 232頁 にあります。

跋渉高山絶壁踏險冒危屢出入死生衢具甞辛酸
而所採集之鑛石達五万餘個盡頒之於各種學校
身不留一物其珍奇者致之於大學資學者研究其
有功斯學爲不尠矣信濃敎育會之創圖書舘也周
旋盡力無不到其有今日實君之力也性恬淡不拘
物卓犖不羈時脱繩墨而識見奇拔多足驚人者矣
初君之在小學校長之職也常語人曰他日辭職跋
渉信中之山河採集鑛物呈諸君供敎授便人以爲
放言後及實現其言人々皆驚更及見圖書舘之成
人服其精神與手腕世之信用漸篤會將大有爲之
期忽罹篤疾不起矣吁

(※丙に攴は更に替えました。)


改めて読んでみると、地学標本と信濃図書館の話に絞って、物語性を持たせた文章になっています。

「身不留一物」は少し誇張で、「当時の余りもの一万余塊」を明治41年に「おもちゃ標本」として一種三銭均一で販売もしています。(『信濃公論 明治42年3月10日』「第九。礦物地質の學普及必要の事。」)
牛山雪鞋も三将軍歓迎会の記事の中で「頗る地質學及礦物學に詳しく、其資産は悉く斯學研究の爲めに費し數年間山野に跋渉して諸種の礦物を採集し之を整理して悉く諸方の學校に寄附し、少しも自身の爲めに殘さず」と書いていたので、長野高等女学校に標本を寄贈した頃から「身不留一物」の話はあったのだろうと思います。

6月7日は保科百助の命日でした。昨年は生誕150年のイベントがあって楽しかったです。まだ埋もれている資料はたくさんあるはずなので、今後も積み重ねて行けたら良いなと思います。

また一つ年を重ねて思うかな 急がずもじき無一物なり
美しき未来に向かい思うかな なめくじ這える日陰もほしなと
足元の死骸を踏みて思うかな 知らぬが仏を知らぬも仏
石一個笑ってみれば思うかな 空に笑いの満ちてあるなり

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