2024年2月27日火曜日

竹内武信の紙芝居、北向観音堂の算額

北向観音堂にあった算額の問題(算法瑚璉)
北向観音堂にあった算額の問題(算法瑚璉)

昨年9月に佐久市で竹内武信の紙芝居の話題がありましたが、地元の上田市ではほとんど無反応だったかも…
赤松小三郎の紙芝居を作った顕彰会や上田市マルチメディア情報センターの方々は関心があるのではないでしょうか…

赤松小三郎は、竹内武信の高弟の植村重遠の門弟。
竹内善吾武信(1782?-1853)
植村半兵衛重遠(1795-1870)
赤松小三郎(1831-1867)

赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者
https://museum.umic.jp/akamatsu/


中村信弥『増補長野県の算額』によると、北向観音堂の算額は、古書等で8枚の記録があり、現存は1枚だけ(齋藤善兵衛藤原邦矩)とのこと… 焼失したような話も聞かないので、明治期にどこかに移して忘れられている可能性もある?

WASAN
http://www.wasan.jp/

小林忠良『算法瑚璉』(天保7 1836)
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100244885/16
「所掲于信州上田北向堂者一事 ~ 天保三年歳次壬辰春正月」


竹内武信『規矩術伝来之巻付録』の巻末の記事
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100256198/7
一 竹內武信、尚綗斎、城山ト号ス、当国上田之城主、松平伊賀守家士也、文政年中、依 君命封内之図ヲ製セシム、又所著之書、渾発正義、一冊 本伝発揮、二冊 靖民伝、一冊 雑編、一冊 量地奥義、一冊 都合六冊也、外伝トシテ、先師伝フル所ノ書ニ加フ、地理算学ニ達スルヲ以テ、給人ニ任セラル、
(※尚綗斎 しょうけいさい? 由来は「衣錦尚絅」(中庸)? 城山は郷里の山とすれば天狗山(女神岳)?)


上野尚志(1811-1884)『藤の下露』の竹内武信の記事
ただし、誤りや脚色があるかもしれません。生年は天明2年(1782)と天明4年(1784)の資料があるようです。(嘉永6年(1853)は72歳か70歳)
https://doi.org/10.20730/100166271
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100166271/66

○竹內善吾 名武信 城山と号 封内山田村の人也 人となり深沈朴実にして真率なり 幼より嬉戯の遊ひを好ます 常に算数を以て玩とす 六七歳にして能八算を知り 稍長するに及て村社に至り 算を以て天下第一たらん事を祈る 上田城下原町なる山屋某《?》に従学し其奥を極め又小諸城下荒町なる関某に学ふ 此時家計窮り本藩太田氏の僕たり 故を以て昼は主用を弁し薄暮小諸へ行き未明に帰る かくする事大凡毎夜なり 往来十里 終に東都に遊ひ関流算法清水流規矩術及天文暦数を学ひ幾もなくして皆其薀奥を得たり 後又発明する所ありて其妙所に至る 文化年間本藩に出身し従学するもの数百千人 文政年中武石村を検地して功有 天保年間東武の人某 当時我邦算学有名の人々を挙 東西に分ち優劣を角觝する時 善吾を以て東方の第一大関とす 其素志を達するに似たり 曽て曰 吾邦の算 其初学ふ所有用の有用にして 其中や無用中に有用を存す 択はすんは有へからす 其終や厘毛をさくと雖も実は無用と云へしと 鳴呼此人にして此言あり尊信すへし

(※頭注)尚綗斎ト号ス 文化年間本藩ニ召出サレテ会計局ノ吏トナリ算術測量ノ師範ヲ兼ヌ 幼名熊吉
(※行間注)内田大進といふ人(旧幕臣)
(※頭注)内田大進は江戸麻布市兵衛町根来組屋敷に住す根来同心といふもの也
(※頭注)竹内善吾の男(幼名宝蔵)内田に学ひ藩の算術師範となり(其妻は増田秀実の長女也)明治 年歿す

    示門生詩
  生来好数豈為利、旦夕事算只窮理、勿謂小吏賈人業、是亦聖人六芸裏、

分陰を惜み無用と認むる時はいかなる席にても去りける 又和歌を好み平生道路を歩行するも急足にして和歌を微吟し瞬時も徒費する事なし

    武石村を丈量する時
  風越の嶺をも越ん山人は 武石の里を麓とや見む

    公家の財政窮迫せるを歎きて
  いかにせん せんすへのなき世なりけり 心ならすは思ひなからも

    月前露
  袖ふれは ちるらん萩の露にさへ 心もおかす宿る月かけ

其母も亦奇人たり 毎夜木綿糸をくる事大凡十匁 是を以て通常の稼とし 外又其一半を期して善吾修行の費用に充しとそ 善吾遊学中江戸に至ること二回 母を伴ふて義士の墓に詣てしのみ 母も亦都会の名区繁昌をは更に問はすして只其子修行の形状を見しのみと云 篁軒先生其行実を称して云 真率不徼当世之誉而従学者日多 盖其術之精 人自信之也と 門人植村重遠 小林忠良 栗山悳一 各世に名あり 其著す所算書若干巻 嘉永六年歿す年七十


※詩歌の意訳

門生に示す詩
数を学ぶのは利のためだろうか?
ひたすら計算をするのは、ただ、理を極めるためだ
役人や商人の業務と言うべきではない
これも聖人の芸術の内の一つ

武石村を測量する時
あの高い山々を越える人が、この武石の里を眺めれば、はるか下界のように見えるだろう
(本歌は「かざこしの峰の上にて見るときは雲は麓のものにぞありける」?)

公の財政逼迫を嘆いて
どうすればいいのか、なすすべのない世の中だ。こんなことは思いたくはないけれど

月前の露
袖を振れば散ってしまうような、はかない萩の露にさえ、分け隔てなく月の光が宿っている

※算を以て天下第一たらん事を祈った「村社」は熊野神社? 明治初期の町村誌によると、大湯への峠道の入口で、上田城下まで見渡せる場所。その後、神社は移設?

※先人に ちなんで、算額・絵馬を模した紙などに学芸の成果物・書画・詩歌・願い事等を書いて掲示するようなイベントもどうでしょうか… (本気の難問があってもいいかもしれませんが一般には手に負えなさそう…)

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