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『善光寺道名所図会 巻之五』木曽の軍勢 北向山を焼討にす (木曽義高(義隆) 手塚光盛 等) |
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『上田市誌 文化財編』84頁 中禅寺薬師如来像の台座の戯画 |
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と関係がありそうな人物について書いてみました。
北条義政(1242?-1282)は北条義時(1163ー1224)と姫の前(?-1207)の子の重時(1198-1261)の4男。孫ですが義時の死後なので登場はなさそう。
木曽義仲(1154-1184)は登場するようですが、手塚光盛や塩田八郎高光はどうでしょう。一場面でもあったら感涙する人もいるかも…
例えば、義仲が立ち寄った寺で仏師が仏像を作るのを眺めていたら、手塚光盛が台座用の板に落書き、僧は困った顔、義仲と家臣は「似てる」「似てない」と面白がって、仏師も絵を見て笑い出す、みたいな。(権威よりも諸芸実力重視の新興の気風と心の繋がり。台座の戯画は実在。手塚光盛は手塚治虫の先祖という説も。手塚光盛の話は(近世の義仲伝説と同様に)根拠のない推定も多く大部分は偽史かもしれませんが)
中禅寺 木造薬師如来像
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/056.html『善光寺道名所図会』等に木曽義仲の軍勢が上田市別所温泉の寺院を焼き討ちした話がありますが、どうも史実ではないようです。出典とされた『出浦古記』については不明。たぶん江戸時代中頃の小説か小説を基にした歴史書ではないかと思いますがわかりません。北向観音の由来話も同じルーツ?
(別所を「出浦」と呼び(出浦への帰属意識?)、先祖から代々北向観音を支え、木曽義仲とは敵対する、という意識を持った人達が江戸後期にいて、その「歴史」が現在まで継承されているということでしょうか)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087151
此上は暫時に押寄一宇も不残焼払へと其夜十万の軍勢松明を用意し油断を見すまし忍び入数ケ所の寺院に火を懸たり
折節魔風頻に吹て甍を並べし大伽藍寺院町家民家迄一端に焼上る
思ひ寄ざる事なれば上を下へと騒動す僧俗男女の焼亡いふも更なり
嗚呼今日いかなる日ぞや寿永二癸夘五月廿一日さしも東国一の大伽藍一時の灰燼と成にける
木曽の軍勢十方より鯨波《ときのこゑ》天地に響き押よする 下略
信濃国守護になった比企能員(?-1203)、その一族で塩田庄の地頭になった惟宗忠久(1179-1227 島津氏初代)
(ちなみに、明治時代に違い石など小県郡の鉱物の分析をした比企忠(1866-1927)は、比企氏の子孫として系図作りなどもしているので、信州に因縁を感じていたかも。)
小泉庄を本拠にしたと言われる泉親衡。確実な史料や遺構は少ないようですが、反乱に失敗、追っ手を撃退、逐電、後世様々に伝説化したという怪人物。映像で見てみたいです…
『新刊吾妻鏡 巻二十一』 建暦三年(1213) 二月十五日、十六日、三月二日
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599728/51https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599728/53文禄3年(1594)(豊臣秀吉の時代)の記録の写しで、本当かどうか、出典も不明ですが、安楽寺開山の樵谷惟仙が木曽義仲の一族という話がありました。(常楽寺と手塚氏や塩田氏に親戚関係があった可能性があり、没落後に別所を頼った人がいた可能性はあるとは思います。)
信濃史料 巻五_2
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2000710100/2000710100100010/0502/?pagecode=6塔名(銘)写
崇福山安楽禅寺開山樵谷伊遷(惟僊)禅師者、源朝臣木曽生縁也、憐(隣)寺之於常楽教寺、年齢到於拾六歳迄、成天台之学
木造惟僊(仙)和尚坐像(安楽寺)
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/059.html藤原景清(?-1196?) 平家方の怪力の武士。伊藤景清 平景清 悪七兵衛景清 上総悪七兵衛尉景清 など。
御嶽堂の宝蔵寺(岩屋堂観音)に悪七兵衛景清の旗があるそうです。(後付けの伝説以外で)実際にいつ頃どういう縁があって作られたのか不明…
御嶽堂村誌(明治12頃? 1879?) 龍洞山宝蔵寺(72)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35190寺宝ニ七兵衛景清ノ旗ト云フ赤絹ニ 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 ノ四句ト 治承四年八月廿一日 ノ文字アリテ 景清ノ花押アリ
同髻観音ノ小銅像 同聖徳太子ノ像アリ 又 牛ノ玉アリ
旗の言葉は妙法蓮華経で、観音を念じれば敵は退散するという意味。
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818281/30「髻観音」は悪七兵衛景清が髻(もとどり)の中に常に入れていた千手観音菩薩像で後に伝来したものとも。
「牛の玉」は「牛玉」「牛王(ごおう)の玉」
海野小太郎幸氏。人質の木曽義高の身代わりをした話が吾妻鏡にあり、ドラマでも場面がありそう。その後は鎌倉幕府の御家人として活躍。義高と同年代とすれば、義仲に従って戦った話は他の海野氏の可能性も。(義仲を担いだ信濃の武士が鎌倉時代にも存続しているのは、当初は頼朝と義仲は一応協調していたこと(義仲にとって頼朝は父義賢のかたきの義朝・義平父子の子・弟)、義仲は旗印であって絶対に代替できないほど強固な関係ではなかったこと(義仲は河内源氏の義賢の遺児であり、信濃領有は一時的なので "信濃源氏" とするのは無理がある?)、馬の生産・運用の専門家集団でもあったこと、等が理由でしょうか。)
新刊吾妻鏡 巻第三 寿永三年 四月 廿一日
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563194/64而海野小太郎幸氏者與志水同年也 日夜在座右 片時無立去 仍今相替之 入彼帳臺 卧宿衣之下 出髻云云
義経討伐で敗死した土佐坊昌俊(渋谷金王丸?)。土佐坊昌順が舞田の法樹院を創建したという言い伝えや、塩野入(渋之入?)に渋谷金王の墓所があったとか、金王五輪塔は土佐坊昌俊の供養塔ではないかという話があります。塩田北条氏を頼った渋谷氏の一族がいたかもしれないとか。実際に関連があるのか、いつ頃できた話か不明。近世に「金王丸信仰」のようなものがあって、その痕跡とか?(本当に鎌倉時代で古文書(嘉暦4 1329)「小泉庄内前田・罡村泉小二郎知行分」が舞田・岡村なら、泉氏が建立した可能性も。)
吾妻鏡 文治元年九月九日 十七日 二十六日
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019645/121郡村誌 小県郡舞田村(114)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35230法樹院(中略)寺傳ニ文治元年渋谷土佐入道昌順故有テ創建シ金玉庵ト称ス後法樹院ト号ス 字塩野入ニ渋谷金王ノ墓所有リ永禄中大破ニ及ヒ某室賀入道某室賀甚七ヲシテ之ヲ再建スト云フ確乎タラス
『檀林飯沼弘經寺志』(摂門 1782-1839) (浄土宗全書 第19巻)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226434/419○葉蓮社秋譽紅巠は大阪人 飯沼に止錫習學し數年ののち諸國廻國し信濃國上田領鹽田庄舞田村飯繩山法樹院報應寺を中興し住務二十年
寺記云 左馬頭義朝朝臣の臣澁谷金王丸當國出生也 主君沒後賴朝卿に仕へ後落髮し土佐坊昌俊と名 文治元年義經主を討んと上京時五條河原にて誅に伏す 其臣舞田次郞首を壓炭と成し其骨幷守本尊地藏菩薩を當所へ持來土中に埋む 當郷澁之入と云地に廟所今にあり 是以地藏を本尊として一宇を建て金王寺と云 後久しく無住にて永祿年中本尊假移小堂領主室賀入道由緖同姓甚七奉行として永祿七年再興し今の寺山號に改め秋譽を中興とす
天正十一未年十一月二十五日寂