青木村当郷塩之入(八木貞助「長野縣小縣郡浦里村産の化石哺乳類」(1942)より) |
「塩」が付く地名はいろいろありますが、由来も複数あるのではないかと思っています。
以下は、『小県郡史』にある、塩田の地名起源説話です。
前山に例が多くあるようにも読めますが、直接的な「塩」地名は一所だけ。「故に此地を「塩田」と云ふ」という理由付けは曖昧。「伝説構成の時代は極めて新しきを覚ゆ」とも。
『小県郡史 余篇』(大正12 1923) 74頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/965787/1/50
塩田の海。
昔々、神様の代に塩土翁《シホツチノオキナ》が奥州塩釜に往かれて、塩のこしらひ方をお授けになり、お帰りのみぎり塩田に立寄り、和世田神とお二方で又塩のこしらひ方をお授けになった。其頃は塩田平は一面の海で水はまん/\としてゐた。潮水を汲んだ所を「浜場」といって、塩を焼いた所を「釜屋敷」と云ふた。其後に地主の神が多くあらはれて来て、御手洗を「塩野井」と云ひ、其あたりを「塩野間」又は「塩沼」又は「塩野はさま」と云ふて、今に西塩田村の前山に残ってゐる。故に此地を「塩田」と云ふので、中塩田村の小島は其頃中島であって、岩鼻が切れて海の水がひけるに従ひ、だんだん乾いて陸地となった。其荒れ水が埴科郡の坂木の横まくりに打ちあたって其地を壊した。(里伝、塩野神社縁起)
此伝説は地名説名の習俗より出でたるものにして、伝説構成の時代は極めて新しきを覚ゆ。今尚塩に関する類似の地名を求むれば、富士山村字塩の入・中塩田村保野区字塩野・及び塩吹・別所村字塩水・泉田村小泉区字塩野・塩田川原・浦里村越戸区字塩の入・同村浦野区字塩の入等あり、此地方田圃に出づることを今に「沖へ行く」若くは「浦へ行く」といへり。
解説文では「塩の入」(3所)が目立ちます。他に「塩野入」が前山(同書486頁)と舞田にありました。前山以外は、隣接した「塩野」はないようです。
「塩の入」の「塩」は、単純に、山麓でしみ出す水のことを言っているような気もしますが、どうでしょうか… 実際に旱魃でも乾きにくい所かどうかは未確認ですが。
他の可能性としては、牧の関係で、馬が好む場所・水を「塩野」「塩野井」と呼んだという可能性はないでしょうか。
(前山は独鈷山と産川に囲まれているので、草地にして北東をふさげば牧場にできた?)
ちなみに、「天正六年二月 上諏訪造宮帳」(1578)に「三御柱 小縣郡 塩田拾二郷 ~ 魔(前)山郷」とあるのは、「厩山」の誤写の可能性もありそうな…
信濃史料 巻十四(3)
https://adeac.jp/npmh/catalog/mp000014
https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000014/1403/?pagecode=75
「塩田庄」の名前の由来はまた別で、外来の可能性もあるように思います。
平安時代に甲斐の三枝氏が別所の常楽寺の別当をしていたらしく(『上田市誌 総説 上田の歴史』(2004))、同じく甲斐の有力氏族に降矢氏がいて、その拠点が甲斐国一宮 浅間神社近くの「塩田」という所。降矢氏か三枝氏の関係者が塩田庄を開発し塩田氏を名乗ったのではないか、という仮説です。(富士山の北30kmの所で、平安時代に何度もあった噴火の影響で各地へ移住する人達もいた?) 産川水系を支配する手塚氏がいたとすれば、塩田庄は湯川水系または尾根川水系で始まったのかも。あるいは最初から諏訪経由で手塚氏とは一体化していた?
(ちなみに「手塚」の由来は大伴氏の拠点の帝塚山(てづかやま)の可能性がある?)
甲斐國志 卷之五 十八
神社部 第四 八代郡大石和筋
一 國立明神 塩田村 黒印神領二石八斗社地 東西十六間 南北三十間 證文ハ上萬力村神主藏ム 社記ニ云所祀國造鹽海ノ足尼ナリ 社中ニ神代杉ノ古株アリ 傍ニ建石或ハ矢石ト稱スルアリ 土人相傳テ曰古天ヨリ矢降リ化シテ石トナル故ニ此ノ邊降矢ヲ氏族トスル者多シト云リ 又一説ニ昔鹽田ノ長者降矢對馬ノ守二金亀ヲ藏ム 一ハ此ニ瘞メ石ヲ立テ金亀明神ト稱シ 一ハ金川ノ上流ニ沈ム 其處ヲ亀淵ト稱ス 藤木ノ域内ナリ 凡旱年ニハ近鄕五拾餘村盡ク蜂城山ニ雩ス然ルニ本村獨リ金川ニ遡リテ亀淵ニ雩スルハ盖此故ナリト云リ
https://www.digital.archives.go.jp/file/1257083.html
https://www.digital.archives.go.jp/img/4393671/17
八木貞助(1879-1951)「長野縣小縣郡浦里村産の化石哺乳類」
地学雑誌 1942 vol.54 (635) p.30-34
https://doi.org/10.5026/jgeography.54.30
(昭和初め、工事中に地下5mから発見されたナウマンゾウ化石等の報告)