絵堂の地蔵(「大正13年の大旱魃に8月8日より15日間〝雨降らせたんまいな南無地蔵大ぼさつ〟昼夜兼行1分の休みもなく村人の叫びが続いた」『五加の歴史』(1982)138頁) |
2024年は大正13年(1924)の大旱ばつから100年。
干害はこの年だけではありませんが、言及されることが多く、知名度の高い災害の一つです。
「時報」が多くの村で発行され始めた時期で、当時の人のいろいろな思いを知ることができます。
西塩田時報(大正12 1923~)、中塩田時報(大正13 1924~ ただし、大正13年の現存は4号(題字は第三号? 6月)、9号(11月))
雨乞いの記録を集めて行くと、多くの村で地蔵菩薩に雨を祈っていたことがわかります。
上田市日本遺産のタイトルの元になったという龍の吹き流し幟?も、大正13年の絵堂地蔵の雨乞い祭りのもの?(龍は地蔵菩薩の眷属・配下の扱い? "お地蔵様カンパニー"の雨担当?)
「お地蔵様と生きるまち」だった?
御嶽堂(富士山村の隣り)では、蓼科山の御水を貰い、雨乞い地蔵に雨を祈ったそうです。このお地蔵様は塩田平へも貸し出されたそうで、降雨の実績があれば、引く手あまた になったのかも。
小県郡丸子町御嶽堂区『ふるさと御嶽堂ムラのむかしといま』(平成17 2005) 102頁
(35)雨乞い地蔵
この地蔵様は、南原公民館の裏山に、ちょっとした小屋掛の中に祭られています。大正十三年(一九二四)は大旱魃に見舞われ、南原でも他部落と同様に「雨乞い」を次のような形で実施したということです。
旱魃の続く七月、ムラの青年の幾人かが、朝暗いうちに蓼科山へ出向き、水(一説には残雪)を竹筒に詰め、津金寺・箱畳とリレーで運び、お薬師様に供えて雨乞いを祈りました。またムラの若い女性たちは、薬師堂の裏に祭られている雨乞い地蔵を、山寺跡近くの古井戸に運び、畚(モッコ)に乗せて井戸の中へドブンドブンと何回となく投げ込み、雨乞いをしました。その名残りとして地蔵様の顔が欠けています。(中略)
なお雨乞いは、薬師堂の庭にこのお地蔵様を安置し、鉦《かね》を叩きながら「雨地蔵大菩薩雨降らせてたんまいな」と唱えながら、疲れきるまで回ったといいます。(以下略)
※同書67-68頁にも蓼科山の御水貰いの記録があります。
塩田平ガイドマップ(12) 絵堂の地蔵尊
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