『富士山村の歴史』『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』 |
旧富士山村(ふじやまむら)の雨乞いについて、『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988)と『富士山村の歴史』(1998)を読んでみました。
『ふるさと塩田』には、「千駄焚き」は最後の手段で、それより前に「もらい水」の行事をすることが書かれていますが、『富士山村の歴史』によると、大正13年には8月10日に郡下一斉に千駄焚、8月15日から長村吾妻山と平井寺殿上山の御水をもらって雨乞いをした、とのこと。
どちらも60年以上後の記述で、どの部分がどの程度確実なのか、わかりません。一次資料を参照したのか、人から聞いた不確かな推測なのか、例えば「大姥様」も、知られているものとは別の大姥像とか、地蔵や薬師仏とか、実は別の地区の話が紛れ込んだとか、いくらでも疑うことができます……
確かさを確認しながら資料を集める必要がありますが、実際には、例えば、「池に放り込んだことがあるそうです。」という伝聞の内容が「池に放り込んだ。」と断定に変わったり、伝言ゲームのように「池」が「川」に変わったりということが、当たり前のように発生します……
(先行の話が誤りで、変化後が偶々正しいという可能性もあり、つまり、わかりません……
基礎的な調査の不備が、無関心や混乱に繋がる?)
『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988) 28頁
奈良尾(富士山)
(三)雨乞い
(中略)
ところで、最後の手段としての「千駄焚き」を行う前に「もらい水」の行事を行ったりしました。これは雨乞いに効果があると信じられている神社から水種をもらい、それを村人が運び帰って、それを撒く方法です。富士山地区では、戸隠神社や立科神社(「お水」と呼ばれていた)などから、水を運びました。
また、お地蔵様などを泥の中に漬けたり池の中に放り込み、これを怒らせて雨を降らせる方法なども行われたようです。奈良尾では大姥様を山から下ろし、池に放り込んだことがあるそうです。
さて、この「千駄焚き」も最近は行われなくなりました。富士嶽の山頂で行われたのは、大正一三年頃の大旱魃の時が最後です。この時は「千駄焚き」の火が周りに移り、山火事になりました。村の男衆は毎日水を背負って、山に登っていったそうです。しかし、暑い時期だったので喉が渇きます。ほんの少しだけと、背負ってきた水を飲んでしまい、火のある所に着いた時には、一滴も残っていなかった等という話もあります。この山火事はおよそ一ヶ月も燃え続けていたそうです。このことがあってから「千駄焚き」は、砂原池や水沢池の土手で行われるようになりました。
『富士山村の歴史』(1998) 380頁
第三節 干害
降水量が少く水源も近い富士山では、昔から干害を被ることはまぬがれない運命であり、稲作は勿論畑作についても大きな被害を受けた年が多かった。年表に表れているような大被害のあった年も三〇年に一回位はあり、大正、昭和の五〇年位の間にも雨乞いをした年が一〇回以上あった。依田川より用水導入の工事が完成してからは稲作については、ようやく安心できるようになったが、現在進行中の県営の塩田かんぱい事業が完成の暁には畑作についても干害をのがれる事ができるであろう。
被害の大きかった大正一三年をみると、この年は一月以降雪も雨も少く、五月より八月まで雨らしい雨もなく、畑の被害は勿論作付不能な水田が続出し、ようやく作付したものの枯死または出穂不能な稲が多く、過半は三分作以下で免税となる始末であった。
八月一〇日には郡下一斉に千駄焚が行われた。富士山では富士嶽山頂へ登って草木を切り倒し積み上げ大変大きな千駄焚が行われた。見事な火景は富士山は勿論遠方からも望まれたと言う。しかし、水の無い山頂のことで、消火が不十分であったため、次の日になっても燃え残りがくすぶり煙を出す始末で、その消火に何日も苦労することとなった。水を入れた樽をかついで登るわけであるが、途中で飲み水に変わったりして頂上に着くころには大分減っていたと言うようなわけで消火もはかどらなかった。八月一五日には雨乞いを決議して、長村吾妻山山家神社及平井寺殿上山の二か所より、御神水を受け一週間にわたり昼夜行う。夜間も数時間に渡り婦人会の応援を受けて祈願したが仲々降雨がなかった。 大正一四年も前年と同じく六月から一〇月まで降水量が少なく、日照時間多く気温も高く、干魃による植付不能、枯死した水田が生じた。昭和一四年には五月から九月にかけて降雨が少なく、水田、畑作物に干害が大きかった。この頃、蓼科の御泉水から神水を受けた。御水を受けたら止ってはいけない(止るとそこに雨が降ってしまう)といわれており、村の若者がリレーで運んだ。昭和一五年は六月から七月にかけて降雨が少なく、山極の水田に植付不能のものが出た。昭和二三年には冬期間に降雨量が少く溜池の貯水量が確保できず、植付不能または植付遅延を来たした。昭和二四年の七月上旬から八月一九日まで四五日間旱天のため担当面積に被害が出た。昭和四一年頃からは富士山地域の八〇パーセントの水田は圃場整備が完了して配水路が完備されたことと、依田川からの揚水路が整備されたことにより水田での干害が極めて少なくなった。しかし畑作物についてはその後も四~五年に一度は干害の被害があり、平成六年には七月上旬から九月下旬までは降雨がなく畑作に大きな被害が出た。