2019年4月6日土曜日

江戸時代の武石(ブセキ)

武石(たけいし)  『信濃国大絵図』(天保6 1835)より
武石(たけいし) ( 『信濃国大絵図』(天保6 1835)より)

武石(たけし)村の武石(ブセキ)は江戸時代から広く知られていました。
現在は上田市の天然記念物に指定されています。
(なので「緑簾石の焼餅石」(上田市天然記念物)と同じく、武石地域での採集は控えるようにしています。)

もしも当時、県の石を選んだら、鉱物はブセキだったのかも。(和田峠のざくろ石の江戸時代の記録はあまり残っていません。)
ブセキと呼び始めた時期についてはまだよくわかりません。

・木内石亭(1725-1808)『雲根志 三編』(享和1 1801)や木村蒹葭堂(1736-1802)の『貝石標本』では自然銅(じねんどう)と呼んでいます。(他には「箱石」など)
・1797年(推定)に越後高田藩 鈴木一保(甘井、穂積保)(1744-1812)が信州上田の成沢雲帯(1739-1824)に送った手紙に「武石」の名前がありました。読みは不明。(矢羽勝幸著『書簡による近世後期俳諧の研究』(1997))
鈴木甘井、成沢雲帯は木内石亭と交流があり、鈴木甘井は『神代石之図』の跋文を書いています。
・小野蘭山(1729-1810)口述『本草綱目啓蒙』(享和3 1803)の「自然銅」に「信州武石村ノ武石峠ニアリ方言ヲドメイシ又ブセキトモ云フ」とあります。
・市岡智寛筆『若様江呈上覚』(文化5 1808)に「一 同(※前行に「信州」)武石  武石 五」とあります。読みは不明。
・『信濃国大絵図』(天保6 1835)の「名産之部」に「武石(たけいし)」があります。石と思われるのはこれだけで、他は、蕎麦、上田縞、岩茸など。(上の画像)

『雲根志』等により「武石村の自然銅(じねんどう)」が知られるようになり、村名の「武石」が石の名前と誤解されて「ぶせき」「たけいし」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「武石」の読み方は固定的ではなく、時々で「たけいし」とも「ぶせき」とも言っていた可能性も。
地名と石名の漢字表記が同じで、読みが異なるという、ややこしい名付けを地元の人達が好んで行ったとは考えにくく、地名として意識する必要が無い他地域の弄石家が「武石」「ブセキ」と呼び始めたのではないでしょうか。

鉱物学が広まると、「十二面体が武石(ブセキ)で六面体が桝石(ますいし)」等の新たな定義を言い出す人もいて、それらを地方での呼び名と混同する人もいたようです。たぶん多くの理科の先生は民俗を重視しないので、この手の話は、きちんと根拠が示されているもの以外は真に受けない方が良いと思います…

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