2020年3月24日火曜日

クジラの化石

鯨類化石の露出(青木村)
鯨類化石の露出(青木村)

2013年の上田創造館の企画展にあった鯨類化石の露出の写真です。(現在は同館の鉱物・岩石・化石展示室に展示。化石は採取前に川の増水で流失…)

あごから尾まで約8mのクジラ化石が上田市で発掘されたとのこと。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20200324/1010012876.html

昨年5月の発見。その後の大雨で流されなくて良かったです。川の改修も度々行われていて、工事中に破損する可能性もありますし、さらに化石の専門家に発見されたというのは、奇跡に近い幸運かも。
現生でも謎の多いアカボウクジラ科の特徴が見られるそうで、どんなことがわかってくるか楽しみです。

一つ気になったのは、この辺の化石には黄鉄鉱化していて分解してしまうものがあることです。すぐに分解するものもありますし、数年後に気付いたらボロボロになっているものもあり、保存・記録には注意が必要かと。

ニュース記事の「1290万~1250万年前」はどこからの数字でしょう?(化石と同じくらい、この数字が気になりました…)

植物化石、小型の動物化石、微化石も面白い場所なので、発掘で出た他の石も有効に使って頂ければありがたいです。
いろいろな化石の発見があるのにこれほど扱いに差をつける人達は何の疑問も感じないのでしょうか…

8mの化石標本の保存場所はどこになるでしょうね。
(一時話題にはなるかもしれませんが、たぶん継続性の徹底だけが重要で、他のことは気にしない方が良いのかも…)

(増水で化石発見が期待される、とか気軽に口にする人もいますが、すごく気にして絶対に言わない、話題を遠ざける人もいます。)

信州新町化石博物館でもクジラ化石を企画室で展示中です。戸隠地質化石博物館の企画展はゾウ化石。
化石の魅力に触れて 信州新町と戸隠で企画展(2020.3.21)
https://www8.shinmai.co.jp/odekake/article.php?id=ODEK20200321013116

関連の以前の記事です。
鯨類化石
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/33051756
イルカの化石
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/35046947
明治30年 海獣の頭骨化石
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/29565216
化石の日、県の石
https://kengaku2.blogspot.com/2019/10/blog-post_19.html

2020年3月12日木曜日

独鈷山、鉄城山、殿城山

独鈷山、独鈷、雲根志 石戈(越後産玄能石)
独鈷山、独鈷、雲根志 石戈(越後産玄能石)

『長野県小県郡地図』信濃教育会小県郡会
『長野県小県郡地図』信濃教育会小県郡会(大正11)

写真は独鈷山(とっこざん・とっこさん)、密教法具の独鈷(とっこ・どっこ)、雲根志の石戈(せきか・せっか)(越後産 玄能石)です。山脈の形は独鈷にも少し似て見えますが、これも後付けの、名前からの連想なのでしょう。

過去の資料を読むと、この山の名前は、独鈷山、殿城山、出城山、鉄城山、天デッキ などいろいろです。
まとめると、3つの時期に分けられるようでした。
江戸時代末から明治前期: 殿城山(西内、平井寺)、独鈷山(前山)
明治後期から昭和20年頃: 鉄城山(『小県郡史』等)、独鈷山(『小県郡地図』)
昭和30年頃以降: 独鈷山にほぼ一本化


独鈷山は前山寺(ぜんさんじ)の山号であり、今の弘法山も独鈷山と呼ばれてきました。(現在も弘法山の山頂の字名は独鈷山)

明治初めの町村誌によると、当時、山の北側が前山村、南東が平井寺組(古安曽村)、南西が西内村に属し、北西部の沢山(さやま)地域は前山村と手塚村が「地籍争論中」でした。
前山に属する北側は独鈷山と呼ばれ、平井寺と西内に属する南側は殿城山と呼ばれていました。(殿城山の読み方はわかりません。『小県郡史 余篇』(大正12)では「デンシヨウ」(デンジョウ?)となっていました。)

その後、明治後半から昭和20年頃までは、主に鉄城山(てつじょうざん)と呼んでいたようです。

「鉄城山」は『小県郡史 余篇』(大正12)等にある名前で、現在の独鈷山の旧名であることは確実ですが、明治前期までの資料では見つかりませんでした。おそらく明確な出所があると思うのですが、わかりません。独鈷山は前山村の山林を意味していたので他の地区が嫌ったとか、同じ小県郡に殿城村が既にあったので殿城山に音が似た新たな名前にしたとか、でしょうか?(西塩田村発足の頃?)

ところが、その一方で、大正時代の小県郡地図(信濃教育会)には「獨鈷山」と表記され、その後の地図でも同じでした。
昭和30年頃以降は、観光事業や小中学校の校歌等で独鈷山とされ、独鈷山への一本化が進んだようです。

明治時代に鉄城山と呼び始めた経緯、小県郡地図で独鈷山と表記した経緯、戦後、独鈷山に一本化した経緯については、まだよくわかりません。

※地名等で定まった名前がないとき、独自の名前を作ってみるのも良いとは思いますが、既存の名前を勝手に別の意味合いで使うことは、避けるべきだと思います。


関連の資料です。

郡村誌 小県郡(前山村、手塚村、古安曽村 他)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35220

前山村誌(明治14 1881) 228コマ
獨股山《トクコザン》 官有ニ属ス(中略)本村ノ南ニ崛起スル高岳ノ総称ナリ 南ハ古安曽村平井寺組西内村ニ分属ス北ハ本村ニ属ス(以下略)

手塚村誌(明治15 1882) 270コマ
沢山(中略)嶺上ニテ界シ南ハ西内村ニ屬シ北ハ本村東ハ前山村ト目今地籍争論中ナリ(以下略)

十人村誌(明治14 1881) 180コマ
澤山 前山村ニテハ獨股山ノ内ト云フ 北面ヲ澤山ト云フ 南面ヲ殿城山ト云フ(中略)嶺上ニテ界シ南ハ西内村ニ屬シ北ハ前山村手塚村ニテ地籍争論中ナリ(中略)
獨股山(中略)南ハ古安曽村平井寺組西内村ニ分屬ス 北ハ前山村地籍ニ屬シ(以下略)

本郷誌 148コマ
獨股山(中略)嶺上ヨリ界シ東南ハ古安曽村平井寺組西内村ニ分屬ス 北ハ前山村地籍ニ屬シ(中略)
沢山 該山北面ヲ沢山ト云フ 南面ヲ殿城山ト云フ 前山村ニテ獨股山ノ内ト云フ(中略)嶺上ニテ界シ南ハ西内村ニ屬シ北ハ前山村手塚村地籍争論中也未定(以下略)

五加村誌(明治14 1881) 123,124コマ
獨股山(中略)嶺上ヨリ界シ東南ハ古安曽村平井寺組西内村ニ分属ス 北ハ前山村地籍ニ属ス(中略)
澤山 該山北面ヲ沢山ト云フ 前山村ニテハ獨股山ノ内ト云フ 南面ヲ出城山(中略)嶺ノ上ニテ界シ南ハ西内村ニ属シ北ハ前山村手塚村地籍争論中ナリ(以下略)

古安曽村誌(明治14 1881) 93,94コマ
殿城山(中略)嶺上ヨリ三分シ西ハ西内村ニ屬シ南東ハ本村平井寺組ニ屬ス 北ハ前山村ニ屬ス 山脈北ハ獨股山ト称シ東北ハ安曽岡山ニ接ス(中略)
獨股山(中略)嶺上ヨリ界シ南ハ本村平井寺組西内村ニ分屬シ北ハ前山村地籍ニ屬シ官有地ナリ(以下略)
(※古安曽村は明治8年にできた村で、旧平井寺村の殿城山と、旧柳沢村が入会権を有していた前山村の独鈷山が村誌に記載されています。ちなみに「古安曽」は平井寺の古川神社と鈴子・石神・柳沢(江戸時代前期の西松本村)の安曽神社から付けた名前であり、古名というわけでは無いそうです。)

郡村誌 小県郡(西内村 他)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35190

東内村誌(明治12 1879) 198-200コマ
虚空蔵堂(中略)古跡ハ戌ノ方三十丁殿城山ノ巓ニアリテ虚空蔵屋敷ト称シ遺跡猶存ス 其敷石方七八尺 故ト石経ヲ敷キシナレハ偶文字ノ存スルアリ 今俗殿城ヲデツ゜チヤウト称スルハ訛リナリ 詣スル人常ニアリ

西内村誌(明治11 1878) 238コマ
殿城山 官有地ニ属ス(中略)嶺上ヨリ二分シ北ハ前山村ニ属シ南ハ本村ニ属ス 山脈西冨士山ニ連続ス(以下略)

『小県郡史 余篇』(大正12 1923) 鉄城山
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965787/25

『長野県小県郡地図』信濃教育会小県郡会蔵版 (大正11 1922)
「獨鈷山」「弘法山」(※原典はカラー)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948699

『信濃中部地図』信濃教育会小県・上田部会 (昭和4 1929)
「獨鈷山 Dokkosan」「弘法山」

『しおだ町報 昭和32年4月25日』紙上講座
黒坂周平「塩田町の歴史と文化財(12) 中禪寺の藥師堂及び藥師佛」
西前山区の宮原(又は中原)を南に上りつめると、いやでも我々は鉄城山(一名とつこ山)の岩壁につきあたらないわけにはいかない。その岩壁につき当たる一寸手前―即ち鉄城山が、この地表から聳え立つ根もとのところに、峨々たる山容を押しかぶるような位置に仰いで、真言宗中禅寺がある。(以下略)

『しおだ町報 昭和33年8月5日』
独鈷山に案内標 塩田連青団員の手で
 塩田町観光開発事業の計画案として独鈷山(一名信州妙義)の開発宣伝を以前より懸案されていたが観光協会総会に於てこれの具体化が強く要望され、広く独鈷山を紹介するべく六月中旬観光委員のみなさんが実地調査を実施し、観光価値を再認識しました。
 観光客が非常にみりょくを感じ 日帰り登山に最適で健康的な山として観光協会では安心して登山できるよう、別所よりのコース及び西塩田よりのコースへ親切な案内標を立てることに決定、塩田町連合青年団へ協力依頼した。(以下略)

『しおだ町報 昭和34年6月5日』
独鈷山へ二〇二名登山 国民体育デー 体育部で主催
明るく健康な生活を築くために、ひとりひとりがそれぞれにふさわしいスポーツ、レクリエーションに親しむ国民体育デーが毎年五月の第三日曜に催されます。(中略)
公民館体育部では健全なレクリエーションとして独鈷山の登山を昨年から考え、みなさんに塩田平を眼下に収め遠く浅間山、たてしな 佐久平、美ヶ原、アルプスを望む標高一、二六六メートルの頂上の景勝を味わっていただく計画をしてきました。(以下略)

西塩田小学校校歌(昭和34年?): 独鈷《とっこ》のみね
中塩田小学校校歌(昭和38年): 独鈷山《とっこざん》
塩田中学校校歌(昭和39年): 独鈷山《とっこざん》

※昭和30年代には、まだ普通に鉄城山と呼ぶ人がいる一方で、塩田町(昭和31-45)の観光事業や小中学校の校歌で独鈷山と呼ぶようになり、一本化されて行ったと考えられます。