2024年5月25日土曜日

もの恋し火ともしころを散る桜

もの恋し火ともし比をちる桜
「ひと恋し火とほしころをさくらちる」(左から2行4字目)、
「もの恋し火ともし比をちる桜  志ら尾」(右2行目)
(上田市立博物館『上田藩の人物と文化』(1986) 41頁 44頁)

「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」は、加舎白雄(かや しらお 1738-1791)の代表作と言われていますが、十年以上推敲したのと、没後の変化もあったため、微妙に異なる句があるそうです。

「もの恋し火ともし比をちる桜」は初期の案。『安永五年きぬさらぎ七日 草稿』という、手塚での句会の記録(自筆)にあります。
これはこれで良い句に思えます。(というか、どれも一長一短のような… 「人恋し~」は花の句にしてはイ音が少し煩い感じ…)
「もの恋し~」の句碑を、手塚の桜の名所か、とっこ館とかに建ててみるのはどうでしょうか。

「火とほし」は「火とおし」と読んでいた可能性はないのか?と思って探してみましたが、例は見つかりませんでした。
(方言かもしれませんが、火が消えることを「火がとぼる」と言います。「火とぼし頃」に「消す」のニュアンスを感じてしまい、少し混乱するようです…)

(画像の字句)
杜宇啼や撞楼に人のかけ 楚丘
もの恋し火ともし比をちる桜 志ら尾
纜や心もとなき五月雨 楚丘
疑宝珠に緑青うきぬ五月雨 双魚
白梅にうたひの響く障子かな 楚丘
寺町や竹の子賣に雨そほつ ヽ

遅日ゆふつきて燈籠の辻福田
なにかしかもとにやとる
花となかめ桜と詠め日は
くれぬ ひと恋し火とほし
ころをさくらちる

参照:
上田市立博物館『上田藩の人物と文化』(1986)
矢羽勝幸『俳人加舎白雄伝』(2001)
加舎白雄
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/008.html


(今年の花見)
暁に鳥に食われし花もあり
風止みて虫を目で追う花見かな
悠々と君の眠りし花車

2024年4月27日土曜日

大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き

富士山村の歴史、ふるさと塩田 村々の歴史 第2集
『富士山村の歴史』『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』

旧富士山村(ふじやまむら)の雨乞いについて、『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988)と『富士山村の歴史』(1998)を読んでみました。

『ふるさと塩田』には、「千駄焚き」は最後の手段で、それより前に「もらい水」の行事をすることが書かれていますが、『富士山村の歴史』によると、大正13年には8月10日に郡下一斉に千駄焚、8月15日から長村吾妻山と平井寺殿上山の御水をもらって雨乞いをした、とのこと。

どちらも60年以上後の記述で、どの部分がどの程度確実なのか、わかりません。一次資料を参照したのか、人から聞いた不確かな推測なのか、例えば「大姥様」も、知られているものとは別の大姥像とか、地蔵や薬師仏とか、実は別の地区の話が紛れ込んだとか、いくらでも疑うことができます……
確かさを確認しながら資料を集める必要がありますが、実際には、例えば、「池に放り込んだことがあるそうです。」という伝聞の内容が「池に放り込んだ。」と断定に変わったり、伝言ゲームのように「池」が「川」に変わったりということが、当たり前のように発生します……
(先行の話が誤りで、変化後が偶々正しいという可能性もあり、つまり、わかりません……
基礎的な調査の不備が、無関心や混乱に繋がる?)


『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988) 28頁
奈良尾(富士山)
(三)雨乞い
(中略)
ところで、最後の手段としての「千駄焚き」を行う前に「もらい水」の行事を行ったりしました。これは雨乞いに効果があると信じられている神社から水種をもらい、それを村人が運び帰って、それを撒く方法です。富士山地区では、戸隠神社や立科神社(「お水」と呼ばれていた)などから、水を運びました。
 また、お地蔵様などを泥の中に漬けたり池の中に放り込み、これを怒らせて雨を降らせる方法なども行われたようです。奈良尾では大姥様を山から下ろし、池に放り込んだことがあるそうです。
 さて、この「千駄焚き」も最近は行われなくなりました。富士嶽の山頂で行われたのは、大正一三年頃の大旱魃の時が最後です。この時は「千駄焚き」の火が周りに移り、山火事になりました。村の男衆は毎日水を背負って、山に登っていったそうです。しかし、暑い時期だったので喉が渇きます。ほんの少しだけと、背負ってきた水を飲んでしまい、火のある所に着いた時には、一滴も残っていなかった等という話もあります。この山火事はおよそ一ヶ月も燃え続けていたそうです。このことがあってから「千駄焚き」は、砂原池や水沢池の土手で行われるようになりました。


『富士山村の歴史』(1998) 380頁
第三節 干害
 降水量が少く水源も近い富士山では、昔から干害を被ることはまぬがれない運命であり、稲作は勿論畑作についても大きな被害を受けた年が多かった。年表に表れているような大被害のあった年も三〇年に一回位はあり、大正、昭和の五〇年位の間にも雨乞いをした年が一〇回以上あった。依田川より用水導入の工事が完成してからは稲作については、ようやく安心できるようになったが、現在進行中の県営の塩田かんぱい事業が完成の暁には畑作についても干害をのがれる事ができるであろう。
 被害の大きかった大正一三年をみると、この年は一月以降雪も雨も少く、五月より八月まで雨らしい雨もなく、畑の被害は勿論作付不能な水田が続出し、ようやく作付したものの枯死または出穂不能な稲が多く、過半は三分作以下で免税となる始末であった。
 八月一〇日には郡下一斉に千駄焚が行われた。富士山では富士嶽山頂へ登って草木を切り倒し積み上げ大変大きな千駄焚が行われた。見事な火景は富士山は勿論遠方からも望まれたと言う。しかし、水の無い山頂のことで、消火が不十分であったため、次の日になっても燃え残りがくすぶり煙を出す始末で、その消火に何日も苦労することとなった。水を入れた樽をかついで登るわけであるが、途中で飲み水に変わったりして頂上に着くころには大分減っていたと言うようなわけで消火もはかどらなかった。八月一五日には雨乞いを決議して、長村吾妻山山家神社及平井寺殿上山の二か所より、御神水を受け一週間にわたり昼夜行う。夜間も数時間に渡り婦人会の応援を受けて祈願したが仲々降雨がなかった。 大正一四年も前年と同じく六月から一〇月まで降水量が少なく、日照時間多く気温も高く、干魃による植付不能、枯死した水田が生じた。昭和一四年には五月から九月にかけて降雨が少なく、水田、畑作物に干害が大きかった。この頃、蓼科の御泉水から神水を受けた。御水を受けたら止ってはいけない(止るとそこに雨が降ってしまう)といわれており、村の若者がリレーで運んだ。昭和一五年は六月から七月にかけて降雨が少なく、山極の水田に植付不能のものが出た。昭和二三年には冬期間に降雨量が少く溜池の貯水量が確保できず、植付不能または植付遅延を来たした。昭和二四年の七月上旬から八月一九日まで四五日間旱天のため担当面積に被害が出た。昭和四一年頃からは富士山地域の八〇パーセントの水田は圃場整備が完了して配水路が完備されたことと、依田川からの揚水路が整備されたことにより水田での干害が極めて少なくなった。しかし畑作物についてはその後も四~五年に一度は干害の被害があり、平成六年には七月上旬から九月下旬までは降雨がなく畑作に大きな被害が出た。

2024年3月26日火曜日

大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?

絵堂の地蔵尊
絵堂の地蔵(「大正13年の大旱魃に8月8日より15日間〝雨降らせたんまいな南無地蔵大ぼさつ〟昼夜兼行1分の休みもなく村人の叫びが続いた」『五加の歴史』(1982)138頁)

2024年は大正13年(1924)の大旱ばつから100年。
干害はこの年だけではありませんが、言及されることが多く、知名度の高い災害の一つです。
「時報」が多くの村で発行され始めた時期で、当時の人のいろいろな思いを知ることができます。
西塩田時報(大正12 1923~)、中塩田時報(大正13 1924~ ただし、大正13年の現存は4号(題字は第三号? 6月)、9号(11月))

雨乞いの記録を集めて行くと、多くの村で地蔵菩薩に雨を祈っていたことがわかります。
上田市日本遺産のタイトルの元になったという龍の吹き流し幟?も、大正13年の絵堂地蔵の雨乞い祭りのもの?(龍は地蔵菩薩の眷属・配下の扱い? "お地蔵様カンパニー"の雨担当?)
「お地蔵様と生きるまち」だった?

御嶽堂(富士山村の隣り)では、蓼科山の御水を貰い、雨乞い地蔵に雨を祈ったそうです。このお地蔵様は塩田平へも貸し出されたそうで、降雨の実績があれば、引く手あまた になったのかも。

小県郡丸子町御嶽堂区『ふるさと御嶽堂ムラのむかしといま』(平成17 2005) 102頁

(35)雨乞い地蔵
 この地蔵様は、南原公民館の裏山に、ちょっとした小屋掛の中に祭られています。大正十三年(一九二四)は大旱魃に見舞われ、南原でも他部落と同様に「雨乞い」を次のような形で実施したということです。
 旱魃の続く七月、ムラの青年の幾人かが、朝暗いうちに蓼科山へ出向き、水(一説には残雪)を竹筒に詰め、津金寺・箱畳とリレーで運び、お薬師様に供えて雨乞いを祈りました。またムラの若い女性たちは、薬師堂の裏に祭られている雨乞い地蔵を、山寺跡近くの古井戸に運び、畚(モッコ)に乗せて井戸の中へドブンドブンと何回となく投げ込み、雨乞いをしました。その名残りとして地蔵様の顔が欠けています。(中略)
 なお雨乞いは、薬師堂の庭にこのお地蔵様を安置し、鉦《かね》を叩きながら「雨地蔵大菩薩雨降らせてたんまいな」と唱えながら、疲れきるまで回ったといいます。(以下略)

※同書67-68頁にも蓼科山の御水貰いの記録があります。

塩田平ガイドマップ(12) 絵堂の地蔵尊
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34620178

2024年2月27日火曜日

竹内武信の紙芝居、北向観音堂の算額

北向観音堂にあった算額の問題(算法瑚璉)
北向観音堂にあった算額の問題(算法瑚璉)

昨年9月に佐久市で竹内武信の紙芝居の話題がありましたが、地元の上田市ではほとんど無反応だったかも…
赤松小三郎の紙芝居を作った顕彰会や上田市マルチメディア情報センターの方々は関心があるのではないでしょうか…

赤松小三郎は、竹内武信の高弟の植村重遠の門弟。
竹内善吾武信(1782?-1853)
植村半兵衛重遠(1795-1870)
赤松小三郎(1831-1867)

赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者
https://museum.umic.jp/akamatsu/


中村信弥『増補長野県の算額』によると、北向観音堂の算額は、古書等で8枚の記録があり、現存は1枚だけ(齋藤善兵衛藤原邦矩)とのこと… 焼失したような話も聞かないので、明治期にどこかに移して忘れられている可能性もある?

WASAN
http://www.wasan.jp/

小林忠良『算法瑚璉』(天保7 1836)
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100244885/16
「所掲于信州上田北向堂者一事 ~ 天保三年歳次壬辰春正月」


竹内武信『規矩術伝来之巻付録』の巻末の記事
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100256198/7
一 竹內武信、尚綗斎、城山ト号ス、当国上田之城主、松平伊賀守家士也、文政年中、依 君命封内之図ヲ製セシム、又所著之書、渾発正義、一冊 本伝発揮、二冊 靖民伝、一冊 雑編、一冊 量地奥義、一冊 都合六冊也、外伝トシテ、先師伝フル所ノ書ニ加フ、地理算学ニ達スルヲ以テ、給人ニ任セラル、
(※尚綗斎 しょうけいさい? 由来は「衣錦尚絅」(中庸)? 城山は郷里の山とすれば天狗山(女神岳)?)


上野尚志(1811-1884)『藤の下露』の竹内武信の記事
ただし、誤りや脚色があるかもしれません。生年は天明2年(1782)と天明4年(1784)の資料があるようです。(嘉永6年(1853)は72歳か70歳)
https://doi.org/10.20730/100166271
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100166271/66

○竹內善吾 名武信 城山と号 封内山田村の人也 人となり深沈朴実にして真率なり 幼より嬉戯の遊ひを好ます 常に算数を以て玩とす 六七歳にして能八算を知り 稍長するに及て村社に至り 算を以て天下第一たらん事を祈る 上田城下原町なる山屋某《?》に従学し其奥を極め又小諸城下荒町なる関某に学ふ 此時家計窮り本藩太田氏の僕たり 故を以て昼は主用を弁し薄暮小諸へ行き未明に帰る かくする事大凡毎夜なり 往来十里 終に東都に遊ひ関流算法清水流規矩術及天文暦数を学ひ幾もなくして皆其薀奥を得たり 後又発明する所ありて其妙所に至る 文化年間本藩に出身し従学するもの数百千人 文政年中武石村を検地して功有 天保年間東武の人某 当時我邦算学有名の人々を挙 東西に分ち優劣を角觝する時 善吾を以て東方の第一大関とす 其素志を達するに似たり 曽て曰 吾邦の算 其初学ふ所有用の有用にして 其中や無用中に有用を存す 択はすんは有へからす 其終や厘毛をさくと雖も実は無用と云へしと 鳴呼此人にして此言あり尊信すへし

(※頭注)尚綗斎ト号ス 文化年間本藩ニ召出サレテ会計局ノ吏トナリ算術測量ノ師範ヲ兼ヌ 幼名熊吉
(※行間注)内田大進といふ人(旧幕臣)
(※頭注)内田大進は江戸麻布市兵衛町根来組屋敷に住す根来同心といふもの也
(※頭注)竹内善吾の男(幼名宝蔵)内田に学ひ藩の算術師範となり(其妻は増田秀実の長女也)明治 年歿す

    示門生詩
  生来好数豈為利、旦夕事算只窮理、勿謂小吏賈人業、是亦聖人六芸裏、

分陰を惜み無用と認むる時はいかなる席にても去りける 又和歌を好み平生道路を歩行するも急足にして和歌を微吟し瞬時も徒費する事なし

    武石村を丈量する時
  風越の嶺をも越ん山人は 武石の里を麓とや見む

    公家の財政窮迫せるを歎きて
  いかにせん せんすへのなき世なりけり 心ならすは思ひなからも

    月前露
  袖ふれは ちるらん萩の露にさへ 心もおかす宿る月かけ

其母も亦奇人たり 毎夜木綿糸をくる事大凡十匁 是を以て通常の稼とし 外又其一半を期して善吾修行の費用に充しとそ 善吾遊学中江戸に至ること二回 母を伴ふて義士の墓に詣てしのみ 母も亦都会の名区繁昌をは更に問はすして只其子修行の形状を見しのみと云 篁軒先生其行実を称して云 真率不徼当世之誉而従学者日多 盖其術之精 人自信之也と 門人植村重遠 小林忠良 栗山悳一 各世に名あり 其著す所算書若干巻 嘉永六年歿す年七十


※詩歌の意訳

門生に示す詩
数を学ぶのは利のためだろうか?
ひたすら計算をするのは、ただ、理を極めるためだ
役人や商人の業務と言うべきではない
これも聖人の芸術の内の一つ

武石村を測量する時
あの高い山々を越える人が、この武石の里を眺めれば、はるか下界のように見えるだろう
(本歌は「かざこしの峰の上にて見るときは雲は麓のものにぞありける」?)

公の財政逼迫を嘆いて
どうすればいいのか、なすすべのない世の中だ。こんなことは思いたくはないけれど

月前の露
袖を振れば散ってしまうような、はかない萩の露にさえ、分け隔てなく月の光が宿っている

※算を以て天下第一たらん事を祈った「村社」は熊野神社? 明治初期の町村誌によると、大湯への峠道の入口で、上田城下まで見渡せる場所。その後、神社は移設?

※先人に ちなんで、算額・絵馬を模した紙などに学芸の成果物・書画・詩歌・願い事等を書いて掲示するようなイベントもどうでしょうか… (本気の難問があってもいいかもしれませんが一般には手に負えなさそう…)

2024年1月12日金曜日

龍っぽいもの、龍つながり

アケボノゾウ臼歯化石(レプリカ 東御市産出 戸隠地質化石博物館所蔵)
アケボノゾウ臼歯化石(レプリカ 東御市産出 戸隠地質化石博物館所蔵)

辰は想像上の生き物なので、干支にちなむ話題では、何かしら関連のあるものを取り上げたりするようで、恐竜をテーマにしている所では、今年は恐竜の年、ということになるのかも… 年末にも恐竜関係のテレビ番組をいくつか見ました。
昔の「龍骨」「龍歯」には大型哺乳類の化石もあったので、例えば、ゾウ化石をテーマにしている所は、今年はゾウ化石の年ということしてもいい?

生薬学雑誌11(2) 1957-12-25
https://dl.ndl.go.jp/pid/10395724
益富寿之助「正倉院薬物を中心とする古代石薬の研究」
https://dl.ndl.go.jp/pid/10755921
(2頁より引用)
4. 竜骨(北第64号) 竜骨,白竜骨,竜角,五色竜歯は新修本草に記載される.これらは何れも哺乳動物の化石骨である.化石種の決定は哺乳類専攻の横浜国立大の鹿間時夫教授に委嘱した.
 竜骨は甲乙2種あるがともに鹿角 Cervis(Axis) punjabiensis BROWN の断片が主である.
5. 白竜骨(北第67号) 山西,河南西省に分布する三趾馬赤土層出土の化石鹿 Cervoceras Novorossiae KHOMENKO の歯及び角,四肢骨等の断片を主とし,これに食肉類 Ictitherium sinense ZDANSKY の歯断片その他から成る.
6. 竜角(北第69号) 印度産の化石鹿 Carvis(Axis) punjabiensis BROWN の角の断片と思われる.
7. 五色竜歯(北第70号) 大小2塊あり大塊は旧象 Palaeoloxodon namadicus (FALC & CAULT) であり,小塊は Archidoskodon planiflons (FALC & CAULT) であるらしい.ともに印度産でなければ日本産かと思われるものである.
 竜骨に就いて化学分析の結果,主成分は燐酸カルシウムであるが一部に二次成の CaCO3 calcite によつて交代されている.燐酸カルシウムは光学的に燐灰石 apatite の繊維状集合体を形成する.最近アメリカの古生化学者 Philip Abelson 氏の研究によると数十万年を経た化石骨中にもアラニン,グリシン,ロイシン,ヴァリン,グルタミン酸等のアミノ酸を検出するとのことである.竜骨が強壮薬となるのは或いはこのような有機成分が与かるものかも知れない.
8. 似竜骨石(北第134号礦石数種中) 一種の化石木で樹幹の繊維か SiO2 で交代された珪化木 siliceous wood である.その破片の状況が竜骨に似るのでこの名がが出たのであろう.江戸時代に中国から渡米した竜骨にはこの珪化木が多かつたらしい.


ナルバダゾウ 学名(Palaeoloxodon namadicus)
https://paleontology.sakura.ne.jp/narubatazou.html

アケボノゾウ切歯・臼歯
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/32353816



めでたさも16時間の年始かな
リモコンで年賀と惨状切り替わり

2回目が激震だったので、次に揺れたときはそのつもりで避難行動をすると思いますが、それで何もないことが続けば、またその経験から、追加的な警戒をしなくなるのかも…

NHK「光る君へ」は、正月7日に凶事の予言で始まり、驚きました。今年はもう正月気分ではなかったですが…
星図の元ネタはあるのでしょうか。口星? 国星? と思って検索してみたのですが見つからず…
PCのフォントを使った印刷物という話もあって、もしかして文字化けや誤写の可能性も?
冒頭の「貞元二年(977)年」は見ない表記方法で、~(977年)で良いのでは…