
1月に、仏像がテーマのテレビ番組で、長福寺銅造菩薩立像の発見を「大正時代」としていました。疑問に思って、関連の話を探してみたのですが、よくわからず……
『信濃 昭和10年8月』の記事では「二三百年前」でした。(不確かな伝承があるだけで、別の由来の可能性もあるということ?)
国の重要文化財の来歴の話なので、それなりに重要と思うのですが……
NBS「みほとけ信州美仏めぐりin上田」 2025年1月31日(金)放送
https://www.nbs-tv.co.jp/program/focus8/single.php?id=95
「昭和19(1944)年に信州夢殿と共に長福寺へ寄進」は正確ではなく、仏像の所有者変更は昭和16年12月5日(官報)、八角堂は戦争中の昭和17年起工、19年竣工のようです。(戦後まで続いたという話も。) 資料によって、昭和17年、18年、19年等の表現がありました。
※生島足島神社社殿も信州夢殿も、戦勝祈願と死者への鎮魂の思いを込めて建てられたはずで、文化財として解説するときに、それを省略したり僅かな言葉で済ませるべきではないのでは……
※『上田市誌 文化財編』の「昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。」(81頁)は誤りかも。昭和13年は小布施の吉沢家から大塚稔が仏像を入手した頃でしょうか。
『上田市誌 文化財編』(1999) 81頁
この夢殿観音と呼ばれる菩薩像は、もとは上高井郡小布施町(旧都住村)の旧家に伝わるものでしたが、昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。そして菩薩を祀る信州夢殿が昭和十七年(一九四二)に建てられました。
「今まで3回盗まれて戻ってきた」は、公式サイトにもある話ですが、探してみると、昭和23年と平成7年の2回は見つかりましたが、残りの1回は見つからず……
『信州上田 塩田平ガイドブック』(平成28 2016)では「二度の盗難」。(10頁「菩薩立像は二度の盗難に遭い、長い間行方不明になっていたが、二度とも無事戻ってきた。」)
「分かっているだけで3回」という言葉はいくつも見ましたが、その情報源は示されていません。
例えば、小布施で盗難があったことが、本当に「わかっている」のでしょうか?
(もしも、伝言ゲームの勘違いの可能性もあるとしたら、例えば、平成18年に返還されたときに、「(今回を含めて)2回盗まれた」→「(今回を含めず)2回盗まれた」→「今回で3回」→「長福寺で2回だから小布施で1回あったのかも」→「小布施で1回、長福寺で2回盗まれた」と変化したとか?)
昭和23年の盗難についても不明確な部分があります。
・発見は盗難の「次の日」という話と「1か月後」という話がある。
・盗んで川に捨てるのは不自然。
・浸水した仏像(旧国宝)の清掃や修理の記録が見当たらない。
(もしかして、子供のいたずらで持ち出されて、川原に放置されていたとか?)
清水利雄編『小県上田歴史年表 続』(昭和35 1960)
(昭和23年)四、一二 東塩田村長福寺の国宝救世観音盗まる。幸い次の日産川の川の中より子供達どじようと共に救い出す
UCVレポート(平成18年10月22日仏像一般公開のレポート)
この菩薩立像は以前にも盗まれたことがあり、そのときには1か月後に近くの用水路で発見されています。
『信濃 昭和10年8月』
吉澤氏の古佛像に就て
▽玻璃版は正面と背及側面
栗原生
去る五月二十六日小布施、都住に開催の信濃史談會に際して發見されたものが二三あつた。其の中の一つは都住中子塚區吉澤龜之助氏方に前代から奉安された觀音の古佛像である。
同家の傳へに依れば二三百年前同區字下谷地と稱する人家を離れた畠の地下二三尺の所より發掘されたとの事である。
寫眞版でも窺ひ得る通り、光背も臺座も共に失はれ、剩へ左手もなく誠に痛々しい姿に成つては居るが、相好と云ひ、時代と云ひ平安前期のもので、北信に三體(上水若槻の山千寺、下水太田の新當寺と併せ)と云ふ古佛像であると、當日栗岩氏は説明された。
由來都住村では藥師堂の特建物、準國寶の藥師如來、藤原期と稱せらるる聖觀音(淨光寺)等、世間周知の事なるにも拘らず、この古佛像のこれまで餘り知られなかつたのは抑も何故か。
吉澤家では昔から鄭重に奉安して置かれ乍ら一般に參拜を許さなかつた爲めか、其安置の爲め別に結むだ草庵は今尚ほ一切其儘ではあるも、これも時勢の變、最近養蠶のために尊像は居宅の座敷へ移し御堂は雜庫に利用されて居る。
處で此の古佛像を今囘の史談會一行に見て頂きたい、見せてはといふ人が吉澤氏の友人にあつて、私達は夫等の人々の心配で會前の十四日に初めて拜觀した。
私の今日迄に親しく取り上げて拜觀した金銅佛ではこれが第二囘目で、(其の一は南安曇郡栗尾山滿願寺の彌勒菩薩で白鳳の稱あるもの)實に襟を正して拜した次第である。
身丈九寸、文字は何處にも見えぬが茲に殘された問題は此の佛像が最初何人に據つて如何なる所に安置されたかにある。今日迄の所では高井郡殊に延德沖の南部には此の時代に此の佛を奉安された樣に思へる寺院は文獻にも口碑にも存してゐない。
然し乍ら湖南の高井郡は千曲川河東の文化の吹き溜りとも云ひ度い場所柄であるが故に、何時如何なる大氏人があつてこれを奉戴したのか知れない。況んや南北朝時代の如きは中央史的大氏人がこの地方に出入頻繁であつたり、殊に千曲川を隔てて西には古代文化の中核地のあるありと云ふに於てをやである。是等の點もやがては詳しく研究されて發表される時が來るであらう。
鎌倉街道歴史遊歩道
https://kengaku2.blogspot.com/2025/02/blog-post.html
龍骨、立石(龍ヶ沢)
https://kengaku2.blogspot.com/2025/01/blog-post.html
縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/11/20.html
幻のクジラ化石名?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/10/blog-post.html
下小島の雨降り地蔵
https://kengaku2.blogspot.com/2024/09/blog-post.html
金井の雨乞い地蔵尊
https://kengaku2.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
https://kengaku2.blogspot.com/2024/04/13100.html
大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/03/13100.html
もう一人の林東馬の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2024/07/blog-post.html
北条国時、北条時春の勅撰集和歌
https://kengaku2.blogspot.com/2024/06/blog-post_24.html
もの恋し火ともしころを散る桜
https://kengaku2.blogspot.com/2024/05/blog-post.html