2024年10月26日土曜日

幻のクジラ化石名?

クジラ化石
(左)上田市行政チャンネル「浦野川から発見されたクジラ化石に関する記者発表会」(2020.3)より、(右)上田市自然科学講演会「クジラ化石の謎を解く」(2024.3)

2020年3月23日に「浦野川から発見されたクジラ化石に関する記者発表会」があって、その中で、「今後、世界的に使われる名前であろう」という「和名」の発表がありました。それが「ウエダアカボウクジラ」…

ところが、2024年3月23日の自然科学講演会「クジラ化石の謎を解く」では、ハクジラ類のアカボウクジラではなく、ヒゲクジラ亜目の可能性が高いとの説明があったそうです。まだ、わかりませんが、「ウエダアカボウクジラ」の名前は破棄されることになる?
(講演会の案内には「アカボウクジラ科」の記述があったので、判明したのは案内を作成した後だったのか、あるいは、連絡がうまく行かず修正されなかったのか…)

和名に明確な規定はないにしても、学名に基づいた日本語名にするのが普通だと思うので、本格的なクリーニングも始まっていない初期の段階での命名は勇み足でしょうか…

地域振興の意図を持って、化石等の名前に地名を入れるのも、良い事なのかどうか迷います… 広い範囲で同じ種が見つかる場合、先に発見した地域では自慢に思いながら化石の名前を呼び、その他の地域では残念に思いながら化石の名前を呼ぶのでしょうか… もしも、そんな一喜一憂をするなら、地名を入れない方が良いのでは…

研究が進んで分類が変わり、化石の学名が変わることもあります。そのときに余計なことを気にかけるのも嫌なものではないでしょうか…

クリーニング作業は、2020年3月の記者発表会では、約1年位と見込んでいるとのことでした。それから4年半なので、全体の化石の展示も近いのでしょうか…

クジラの化石
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下小島の雨降り地蔵
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金井の雨乞い地蔵尊
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大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
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大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
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もう一人の林東馬の謎
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北条国時、北条時春の勅撰集和歌
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もの恋し火ともしころを散る桜
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2024年9月28日土曜日

下小島の雨降り地蔵

雨降り地蔵の由来(下小島)(中塩田村時報 昭和27年11月)
雨降り地蔵の由来(下小島)(中塩田村時報 昭和27年11月)

昭和27年11月の中塩田時報(中塩田村時報)に下小島の雨降り地蔵の話がありました。
祈りの言葉は「南無地蔵大菩薩 雨降らせ給へな」
上小島と下小島は元は小島村で、一緒に池生神社(諏訪大明神)・小島大池で雨乞いをすることもありましたが、その他に地蔵尊にも祈ったということでしょうか。どんな慣習があったのかは未確認です。

塩田は諏訪社が多いですが、湯川沿いは、八木沢 兜神社、舞田 塩野入神社、保野 塩野神社、中野 諏訪神社、上小島・下小島 池生神社、どれも諏訪社です。(保野塩野神社は「諏訪大明神宮」(宝永指出帳)で、祭神は「塩垂津命、健御名方命、素盞男命」(明治の町村誌))
祈りの言葉は「雨降らせたんまいな、ナーム、諏訪の大明神」(『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』中野)等でしょうか……


『中塩田村時報』昭和27年11月27日
分舘めぐり =下小島の巻=
雨降り地藏の由來
部落の西側を、人家に沿つて、流れる水路は、大池の水が流れる主要水路である。水路と並んで、一間幅の道路があり、所謂、下の角がある。下の角も別所街道寄りの所に、立派な格子作りの家に、地蔵尊が鎮座する。
其の昔、上小島から遁がれて、下小島の地に、新開地を求めた、当時の開拓者達が、土地の守本尊として、祀つたものである。
元禄五年九月二十四日建立されたが、降つて、文久三年、今も尚、地蔵尊の前に建つている石燈籠が建てられた。
以来毎年九月二十四日には、子供達によつて、地蔵尊のお祭りが行はれる。
又、日照りの続いた時には、人々が集つて、雨乞いすると、一天俄かにかき曇り、慈雨をもたらしたといふ事である。
地蔵尊がある所から、別所街道迄の曲りくねつた坂道を、人呼んで地蔵峠と云ふ。
地蔵尊を抱う様にして、生い茂つていた、ひもろの大木は、数百年の風雨に耐えて来たが、今春 三月果樹の赤星病撲滅の為に伐られたが、公民舘の欄間に用いられて区民の話題になつている。


『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』(昭和63年 1988) 95頁
大正十三年の大旱魃には昼夜交替で鐘をたたき調子を合せて「南無地蔵大菩薩雨降らせ給へな」と祈願し、近郷からも大勢の参拝者が訪れて一週間後には恵みの雨がふりました。


金井の雨乞い地蔵尊
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2024年8月25日日曜日

金井の雨乞い地蔵尊

金井の雨乞い地蔵尊(神科村誌)
金井の雨乞い地蔵尊(神科村誌 439頁)

『神科村誌』(昭和43 1968)に、戦争中の雨乞いの記事がありました。(昭和17年8月)
文章と写真撮影は、編集顧問 清水利雄氏。(「神科村誌あんない / 六 執筆礼言 / ○清水編集顧問には、身を以って、第一章と「部落めぐり」を書いていただき、始めと終りをひき締めた。」)

雨乞いにいろいろなルール設定(難易度設計?)があって、興味深いです。(「出座したが最後雨が降るまで必ず引きこめない。もしこのことに反すれば、より以上の災害が来る」「この地蔵尊の乾かざるよう休みなく水をぶっかける。もし乾く事があればご利益解消という」)
寺社はあまり関係しないのか、僧侶や神職についての記述はありません。
真剣だったとは思いますが、お酒も入って、楽しみの面もあったのかも。

雨乞いの加虐性については曖昧な印象。(本質的にスペクトラム?)
地蔵(石の坐像)を運ぶとき、はしごを輿にして上に載せて「結わいつける」のは、落とさないように固定する目的だと思いますが、見た目には、縄で縛って引き回すようにも見えるかも。
水中に入れるのは、水をかけ続けることの延長であり、同時に、面倒だから沈めてしまえ、という気持ちにもなったかも…

『神科村誌』(昭和43 1968) 437頁
(十二 部落めぐり 山口 金井 蛇沢)
 地区の雨乞い
 上田盆地は全国的に有名な雨量の少ない所である。このため用水池や用水堰の発達もまた有名である。しかし絶対雨量の少ないこの地方では、万駄《*だん》たきなどの雨乞いも各地区毎に数多く行われている。神科地区でも特に水に恵まれない上田地区の雨乞いが有名で、山口の千駄たきと特に金井の雨乞い地蔵の行事はものすごかった。

●山口の千駄たき
 消防団が主体になって各家からも出た。役員は朝から出て早くから用意した。まず大きな四本の木を柱にくみ、まん中にしんを立てた。柱と柱の間には横木を何本となく渡してその間には燃え易いそだ木を一ぱいさしこむ。あっちからもこっちからも持ちはこばれた枝で山のよう。
 やがてころを見はからって火がつけられる、と、めりめりと焼けた空にほのほが立ちあがる。太郎山の中腹に天をこがす一大火柱の出現――村じゅうあげての願いをこめて。焼け残った柱は、希望者に分けるのが例であった。

●金井の雨乞い
 雨乞い地蔵尊は鎮守草創《**くさわけ》神社前の古い道ばたの吹きさらしの小堂の中に安置されている。『元文四年 六十六部供養』と銘が刻まれている。最近では大正十三、十四年と昭和十七年との二回が記録されている。特に昭和十七年の八月に直接この行事を写真にしようと出向してその真剣さには背をうたれた。
 まず区集会を開いて雨乞いまで 持ちこむかと熟議をこらす。出座したが最後雨が降るまで必ず引きこめない。もしこのことに反すれば、より以上の災害が来る。そこで万一の場合には女子も出動する相談づくで決定となる。何しろ弥吾平の桑の葉が日に日にしおれて来る。村の唯一の丘堰にも水一滴も来ない。こうした天空を見上げながら、区集会全員一致で決定となると、
 第一に矢出沢川金井橋より百メートル下位の淵のところをせきとめて水をたたえる。その中央に土俵を積み重ねて地蔵尊の座をつくる。準備完了と共に雨乞い地蔵尊をはしごに結わいつける。鏤《しよう》に太鼓にあわせて『雨降らせ給え』とさけびながら行列をくんで先の台座の上に安置する。そしてこの地蔵尊の乾かざるよう休みなく水をぶっかける。もし乾く事があればご利益《りやく》解消という。村じゅう一戸一名ずつ出動した男子が、酒をのみのみ、かわるがわる夜、昼なく、鏤と太鼓と「雨降らせ給え」の祈りに合せて、水を手でぶっかける。「いまだかつて三日にして降らざる事なし」という信念のもとに――。
 実に真剣そのものである。昭和十七年太平洋戦争熾烈《**しれつ》にして物資いよいよ窮迫というこの時、集まった酒五斗五升という。もっとも、この行事の最中には、遠く近くあちこちから、酒一升をつるしての陣中見舞と応援の人達が多かった。この昭和十七年のときも三日日に確かに夕立が来た。区民全員欣喜雀躍、地蔵尊をかつぎ帰る行列は実にこうごうしいかぎりであった。

(※「鏤」は鉦?)

大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
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もう一人の林東馬の謎
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2024年7月28日日曜日

もう一人の林東馬の謎

林東馬
林東馬(『レコード音楽技芸家銘鑑』昭和15年 126頁)

林東馬と言えば幕末・明治初期の東馬焼ですが、以前、ネットを検索していて、同名の有名人?がいることを知りました。昭和前期の歌手の林東馬です。東塩田の出身、昭和12年(1937)にビクターの歌手としてデビュー、レコードは昭和15年までに10枚余り(活動期間は約1年半? 主に所謂 戦時歌謡)、戦後は昭和25年から29年に10枚余り(コロムビア、林康夫名義)。
その後、作曲家に転向、1967年頃まで歌謡曲(演歌)のレコードに10曲余りを提供(林恭生 等の名義)。
1968年以降の活動はわかりませんでした。

情報は少なく、誤情報もあるかも…
林東馬・林康夫以外のレコードについては、写真や音声からは別人のように思えました。
本名は記事によって林康夫または林東馬…
生年月日は大正7年2月3日と大正8年11月3日の記事がありました。(二と11の取り違えとか?)

林東馬が芸名だとしたら、幕末の林東馬を何か意識したのか、それとも偶々でしょうか?

地元の関係した話も聞いたことはありません。活動期間が短く、戦争と重なったために、あまり話題にならなかったのでしょうか…

できれば正確な記録・資料を残して頂きたいのですが…


レコード世界社『レコード音楽技芸家銘鑑』(昭和15.10 1940) 126頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056525/1/74

林 東馬《ハヤシ トウマ》(應召中)
 大正七年(※8年?)二月(※11月?)三日長野縣小縣郡東鹽田村に生れ、十四歲上京、東京市芝區巴町長谷川花店に入り、性來の歌好きから業務の餘暇を見ては歌の獨習に專念す。其の後同店が日本ビクターの御用を受けて花の取引をするやうになつてからは、一層歌手への熱望を燃やし、一意勉勵するうち昭和十三年一月遂に佐々木俊一氏に天分を認められ、ビクター歌手として異數の推擧を受くるに至る。當時新聞紙上に「花屋の店員から流行歌手に轉向」と報道され、世の視聽を集めたものである。當時より奧田良三氏に聲樂を師事。デヴユーは愛國流行歌「戰友想へば」。その稀に聽くバスと熱心な勉强ぶりとは、將來の大成を期待されてゐる。昭和十四年九月應召。


(※以下の雑誌記事もありましたが、真偽は未確認。
「以前ビクターレコードに居て少しは名前の知れた林東馬、(中略)最近は淺草の金龍館に時々現はれる位」(『音楽の友』1942.12 ※昭和17年には東京で音楽活動をしていた?)
「戦時中は病気静養の為活躍せず」(『平凡』1952.12)
「戰後ずつと藝能界から遠ざかり歌謠學院で後進の指導に當つていたが」(『近代映画』1952.5))


塩田平ガイドマップ(15) 林東馬の碑
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34720794

北条国時、北条時春の勅撰集和歌
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2024年6月24日月曜日

北条国時、北条時春の勅撰集和歌

伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))
伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))


北条国時、北条時春の勅撰集和歌
北条国時、北条時春の勅撰集和歌


平安時代末の塩田庄にはたぶん手塚光盛と塩田高光がいて木曽義仲に従い滅亡、鎌倉時代には惟宗忠久(島津氏初代)、比企能員の変(1203)の後に北条氏(北条義時、泰時、重時、義政、国時 等)、南北朝時代から村上氏(代官 福沢氏?)、その後、武田、真田、仙石、松平。

北条義政(1243?-1282 重時の5男)の子が国時、時治(時春)、胤時で、胤時はほとんど記録がなく、国時と時治も情報は少なく、生年も不明です… 義政の生年没年から考えると、1260年頃から1282年の間。北条義政の没年の1282年には満年齢で0~約22歳。国時の没年とされる1333年には51~約73歳。

時春は新後撰和歌集(1303)に1首、玉葉和歌集(1312)に2首、国時は玉葉和歌集(1312)に3首入集しています。
新後撰和歌集(1303) 21~約43歳、玉葉和歌集(1312) 30~約52歳。

玉葉和歌集(1312)には、宗尊親王(1242-1274 6代将軍1252-66)の歌と時春の歌が並んでいる箇所と、北条義政と国時が並んでいる箇所がありました。
宗尊親王は北条義政とほぼ同年齢で、将軍在位中は時春は年少かまだ生まれていないので、直接の交渉はなかった可能性が高いのではないかと思います。北条義政と国時も、親子ですが、歌のやり取りがあったかは不明です。
玉葉和歌集が成立した1312年は、宗尊親王の没後38年、北条義政の没後30年、国時と時春は30~約52歳。
勅撰集入集はそれだけで十分に名誉なことだと思いますが、この歌の配列は特に厚遇だった可能性はないでしょうか。国時は本当に嬉しかったと思いますし、名誉ある家系として広く知らしめることにもなったのかも。

臆測でしかありませんが、北条義政の死後、子供達は年少か成人したばかりで、家を継いだというより、親類の庇護下にいた可能性も。負け組として軽んじる人もいれば、リスペクトして支援する人もいたのではないでしょうか。
(もし、もっと冷遇されていたら… 名前は残さなかったかもしれませんが、他の諸流と距離を置いて、信州で南北朝時代まで続いた可能性もあったのでしょうか… もし、塩田北条氏に(真逆の)反得宗の気運があったら、信濃は流動化して、中先代の乱もなく、早々に割拠状態になった?)

国時の「式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を」(玉葉和歌集 巻第九 恋歌一)の「式部卿親王家」は、久明親王(1276-1328 8代将軍 1289-1308 式部卿 1297-)でしょうか。式部卿任官(1297)から将軍辞任(1308)の間の可能性がありますが、それ以外もなくはないかも…
久明親王の生年(1276)は国時・時春の生年の範囲(1260年頃から1282年)の後半になります。これも臆測ですが、恋歌であることや「おなじ心を」という言葉から、国時は久明親王と同年代のような雰囲気も感じます。北条義政が10代の頃に同年代の宗尊親王(11歳で6代将軍)の近くで諸芸を学んだ(推測)ように、国時・時春の兄弟も同年代の久明親王(14歳で8代将軍)の側で和歌等を学んだという可能性も考えられないでしょうか。その中で生まれた歌、評価、人脈が勅撰集入集に繋がった、という流れは一応は自然に思えます…(やはり違う可能性は残り続けますが…)

歌の中では、時春の「風にゆく峯の浮雲跡はれて夕日にのこる秋の村雨」「西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山」は塩田の風景が連想されました。時春も国時も若い頃はほとんど鎌倉か京都にいたのかもしれませんが。

ところで…
北条国時と同じ読みで、北条邦時(1325-1333)(高時の長男)がいますが、1331年、元服時に9代将軍 守邦親王(1301-1333)から邦の字を受けたそうなので、もしかしたら、それ以降は国時の名前は使わなかったのかも。

塩田と狩野と言えば、太平記の塩田民部大輔俊時と狩野五郎重光。この2人がモデルなのでしょうか… ちなみに塩田の今の読みは地元では「しおだ」です。昔がどうだったかはわかりません…

太平記の「塩田父子自害ノ事」の国時は、俊時に先立たれた後、読経を続けて、狩野重光に嘘で催促されて自害、鎧を奪われて遺体は放置? という、あまり格好は良くない最期でしたが(もちろん本当のことはわかりません)、子供が目の前で死んでしまい、ただ茫然として、読経しながら呆けていたとすれば、お坊ちゃん気質の、やさしい人だったのかな、とか妄想してしまいます…


新後撰和歌集(1303)
 巻第十四 恋歌 四
  恋歌の中に 平時春
 あはぬ夜のつもるつらさは敷たへの 枕のちりそ先しらせける
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2579163/1/72

玉葉和歌集(1312)

 巻第五 秋歌 下
  秋雨を 中務卿宗尊親王
 雲かゝる高根のひはらをとたてゝ むらさめわたる秋の山本

  平時春
 風にゆく峯の浮雲跡はれて 夕日にのこる秋の村雨
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562646/1/15


 巻第九 恋歌 一
  式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を 平国時
 逢とみるその面影の身にそはゝ 夢路をのみや猶頼むへき
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/12

 巻第十 恋歌 二
  題しらす 平国時
 恋しさのなくさむかたとなかむれは 心そやかて空になりゆく
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/29

 巻第十五 雑歌 二
  題しらす 平時春
 西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/11

 巻第十八 雑歌 五
  平義政
 夢ならでまたはまこともなきものを たが名付けけるうつゝなるらん

  平国時
 身のうさを思ひねにみる夢なれは うつゝにかはるなくさめもなし
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/62



『太平記』(刊 慶長12 1607)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2543812/1/57

○鹽田父子自害(ノ)事
爰ニ不思議ナリシハ鹽田陸奥(ノ)入道(、)道祐カ子息民部
大輔俊時親ノ自害ヲ勸(メ)ント腹掻切テ目(ノ)前ニ卧タリケ
ルヲ見給テ幾程ナラヌ今生ノ別ニ目クレ心迷(イ)テ落ル泪
モ不留(ラ)先立ヌル子息ノ菩提ヲモ祈(ノ)リ我逆(ク)修ニモ備ヘン
トヤ被思ケン子息ノ尸骸ニ向テ年來(ロ)誦《ヨミ》給ケル持《゛》經ノ
紐《ヒホ》ヲ解要(ウ)文𠁅(ロ)々打上(ケ)心閑ニ讀誦シ給ケリ被打漏タ
ル郎等共主ト共ニ自害セントテ二百餘人並居タリケル
ヲ三方ヘ差遣シ此(ノ)御經誦(ミ)終《ハツ》ル程防矢射ヨト下知セラ
レケリ其(ノ)中ニ狩野五郎重光計ハ年來ノ者ナル上近ク
召仕レケレハ吾(レ)腹切テ後(チ)屋形ニ火懸テ敵ニ頸(ヒ)トラスナ
ト云含(ク)メ一人被留置ケルカ法華經巳ニ五ノ巻ノ提
婆品ハテントシケル時狩野五郎門前ニ走出テ四方ヲ
見ル眞似ヲシテ防矢仕ツル者共早皆討レテ敵攻(メ)近付

候早々御自害候ヘト勸(メ)ケレハ入道サラハトテ經ヲハ左
ノ手ニ握(キ)リ右ノ手ニ刀ヲ抜テ腹十文字ニ掻切テ父子
同枕ニソ卧給ケル重光ハ年來ト云重《゛》恩ト云當時遺《ユイ》言(ン)
旁(タ/\)難遁(レ)ケレハ軈テ腹ヲモ切ランスラト思タレハサハ無テ主
二人ノ鎧(ヒ)太刀刀剥(キ)家中ノ財寶中間下部ニ取持セテ
圓覺寺ノ藏《゛》主寮《レウ》ニソ隱居タリケル此(ノ)重寶共ニテハ一
期不足非シト覺シニ天罰ニヤ懸リケン舟(ナ)田入道是ヲ
聞付テ推寄セ是非ナク召捕テ遂(イ)ニ頸(ヒ)ヲ刎テ由井(ノ)濱ニ
ソ掛ラレケル尤(モ)角コソ有タケレトテ惡(マ)ヌ者モ無リケリ


北条国時の木像と聖徳太子像を、天文21年(1552) 美濃国塩田の鹿野重勝が前山の龍光院に託したという話がありました。この木像が現在常楽寺にあるものでしょうか?(昭和前期頃に移された?) それとも別々で、国時像はもう一つある?

渡辺市太郎編『信濃宝鑑』(1901)

長野縣信濃國小縣郡西塩田村大字前山
曹洞宗 寶珠山龍光院之景
本尊 釋迦牟尼佛
本寺創立ハ弘安五年 今ヲ去ル六百二十年 ニシテ、開基ハ塩田陸奥守國時。
開山ハ月溪大皎大和尚ナリ。開基國時ハ北條時政ノ孫時氏ノ三男、武藏守義政ノ子、時國ノ男ニシテ、祖父義政鎌倉執権加判タリシカ、建治三年五月其職ヲ辞シ、当郡塩田庄前山ニ閑居シ、氏ヲ塩田ト改ム
國時ハ正慶中北條高時ニ屬シ、鎌倉ニ在リシカ 新田義貞ノ攻ムル所ト爲リ、其男俊時ト共ニ白刃セリ 即チ本寺ノ東方、凡三丁許ヲ距ル、字、上町ニ墓碑アリ。碑面龍光院殿前朝散大夫教覺道祐大禪定門ト記シ、右方ニ正慶二癸酉年五月廿二日、左方ニ塩田陸奥守入道道祐平朝臣國時トアリ。
初メ塩田氏此地ニ住スルヤ、城ヲ字上町ニ築キ、代々当地ヲ領シ、当郡別所村溫泉地ニ閑院ヲ設ケリト云フ 今尚ホ院内ト称スル地アリ
而シテ仝氏ノ末裔、鹿某ト云フ者アリ 美濃國塩田ノ地ニ住シ、祖先傳來ノ聖德太子ノ銅像、並ニ開祖國時ノ木像ヲ有シ最明寺内ニ安置セシガ、仝寺零落ノ爲メ、天文廿一年五月鹿野重勝ナル者ヨリ、其像ヲ當地ニ致ス。依テ太子ノ像ヲ本寺ニ安置セリ。
又本寺南方ニ寺有ノ山林アリ。林中秋葉ノ祠アリ 應仁元年十二月塩田庄ノ代官、福澤左馬助信胤ノ勧請ナリ。福澤氏ハ塩田氏ノ裔ナリト云フ
而シテ本寺ハ塩田氏開基ノ故ヲ以テ、往昔ハ寺領五拾五貫文ヲ有シ、境内亦頗ル廣ク東西五丁南北拾丁餘ニ渉レル、大寺ナリシガ幾多星霜ヲ經ルニ随ヒ、漸々衰頽ニ屬セシヲ以テ 慶長六年 今ヲ去ル三百一年 當國埴科郡東舟山村 今ノ埴生村 曹洞宗滿照寺ノ末派ニ加ハリ、仝寺七代瑞應ヲ以テ中興開山トス
降テ享保十七年五月 今ヲ去ル百六十九年 堂宇悉ク焼失ス。依テ仝年九月庫裏ヲ 仝廿一年三月本堂ヲ 天明五年三月衆寮ヲ 天保十四年八月鐘楼ヲ再建ス。但土蔵黒門等ハ古來ノ建設ナルモ其年代ハ詳ナラス

寶物
一 龍骨  個
寺傳ニ曰ク、當山開基ノ時、深村中大蛇アリ。之レヲ捕殺シ境内ノ南方ニ埋ム 爾後災異数々至ル 依テ之レヲ発堀シ 其頭骨ヲ納メテ佛前ニ供シ埋所ニ石ヲ建テ祀ル 今其地ヲ立石、又龍ヶ沢ト云フ
一 木像
塩田入道 道祐ノ像 一躰