2025年3月30日日曜日

仏像は動く、菩薩立像の謎

長福寺銅造菩薩立像の説明

1月に、仏像がテーマのテレビ番組で、長福寺銅造菩薩立像の発見を「大正時代」としていました。疑問に思って、関連の話を探してみたのですが、よくわからず……
『信濃 昭和10年8月』の記事では「二三百年前」でした。(不確かな伝承があるだけで、別の由来の可能性もあるということ?)
国の重要文化財の来歴の話なので、それなりに重要と思うのですが……

NBS「みほとけ信州美仏めぐりin上田」 2025年1月31日(金)放送
https://www.nbs-tv.co.jp/program/focus8/single.php?id=95


「昭和19(1944)年に信州夢殿と共に長福寺へ寄進」は正確ではなく、仏像の所有者変更は昭和16年12月5日(官報)、八角堂は戦争中の昭和17年起工、19年竣工のようです。(戦後まで続いたという話も。) 資料によって、昭和17年、18年、19年等の表現がありました。

※生島足島神社社殿も信州夢殿も、戦勝祈願と死者への鎮魂の思いを込めて建てられたはずで、文化財として解説するときに、それを省略したり僅かな言葉で済ませるべきではないのでは……

※『上田市誌 文化財編』の「昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。」(81頁)は誤りかも。昭和13年は小布施の吉沢家から大塚稔が仏像を入手した頃でしょうか。

『上田市誌 文化財編』(1999) 81頁
この夢殿観音と呼ばれる菩薩像は、もとは上高井郡小布施町(旧都住村)の旧家に伝わるものでしたが、昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。そして菩薩を祀る信州夢殿が昭和十七年(一九四二)に建てられました。


「今まで3回盗まれて戻ってきた」は、公式サイトにもある話ですが、探してみると、昭和23年と平成7年の2回は見つかりましたが、残りの1回は見つからず……

『信州上田 塩田平ガイドブック』(平成28 2016)では「二度の盗難」。(10頁「菩薩立像は二度の盗難に遭い、長い間行方不明になっていたが、二度とも無事戻ってきた。」)

「分かっているだけで3回」という言葉はいくつも見ましたが、その情報源は示されていません。
例えば、小布施で盗難があったことが、本当に「わかっている」のでしょうか?

(もしも、伝言ゲームの勘違いの可能性もあるとしたら、例えば、平成18年に返還されたときに、「(今回を含めて)2回盗まれた」→「(今回を含めず)2回盗まれた」→「今回で3回」→「長福寺で2回だから小布施で1回あったのかも」→「小布施で1回、長福寺で2回盗まれた」と変化したとか?)

昭和23年の盗難についても不明確な部分があります。
・発見は盗難の「次の日」という話と「1か月後」という話がある。
・盗んで川に捨てるのは不自然。
・浸水した仏像(旧国宝)の清掃や修理の記録が見当たらない。
(もしかして、子供のいたずらで持ち出されて、川原に放置されていたとか?)

清水利雄編『小県上田歴史年表 続』(昭和35 1960)
(昭和23年)四、一二 東塩田村長福寺の国宝救世観音盗まる。幸い次の日産川の川の中より子供達どじようと共に救い出す

UCVレポート(平成18年10月22日仏像一般公開のレポート)
この菩薩立像は以前にも盗まれたことがあり、そのときには1か月後に近くの用水路で発見されています。


『信濃 昭和10年8月』
吉澤氏の古佛像に就て
 ▽玻璃版は正面と背及側面
   栗原生
 去る五月二十六日小布施、都住に開催の信濃史談會に際して發見されたものが二三あつた。其の中の一つは都住中子塚區吉澤龜之助氏方に前代から奉安された觀音の古佛像である。
 同家の傳へに依れば二三百年前同區字下谷地と稱する人家を離れた畠の地下二三尺の所より發掘されたとの事である。
 寫眞版でも窺ひ得る通り、光背も臺座も共に失はれ、剩へ左手もなく誠に痛々しい姿に成つては居るが、相好と云ひ、時代と云ひ平安前期のもので、北信に三體(上水若槻の山千寺、下水太田の新當寺と併せ)と云ふ古佛像であると、當日栗岩氏は説明された。
 由來都住村では藥師堂の特建物、準國寶の藥師如來、藤原期と稱せらるる聖觀音(淨光寺)等、世間周知の事なるにも拘らず、この古佛像のこれまで餘り知られなかつたのは抑も何故か。
 吉澤家では昔から鄭重に奉安して置かれ乍ら一般に參拜を許さなかつた爲めか、其安置の爲め別に結むだ草庵は今尚ほ一切其儘ではあるも、これも時勢の變、最近養蠶のために尊像は居宅の座敷へ移し御堂は雜庫に利用されて居る。
 處で此の古佛像を今囘の史談會一行に見て頂きたい、見せてはといふ人が吉澤氏の友人にあつて、私達は夫等の人々の心配で會前の十四日に初めて拜觀した。
 私の今日迄に親しく取り上げて拜觀した金銅佛ではこれが第二囘目で、(其の一は南安曇郡栗尾山滿願寺の彌勒菩薩で白鳳の稱あるもの)實に襟を正して拜した次第である。
 身丈九寸、文字は何處にも見えぬが茲に殘された問題は此の佛像が最初何人に據つて如何なる所に安置されたかにある。今日迄の所では高井郡殊に延德沖の南部には此の時代に此の佛を奉安された樣に思へる寺院は文獻にも口碑にも存してゐない。
 然し乍ら湖南の高井郡は千曲川河東の文化の吹き溜りとも云ひ度い場所柄であるが故に、何時如何なる大氏人があつてこれを奉戴したのか知れない。況んや南北朝時代の如きは中央史的大氏人がこの地方に出入頻繁であつたり、殊に千曲川を隔てて西には古代文化の中核地のあるありと云ふに於てをやである。是等の點もやがては詳しく研究されて發表される時が來るであらう。


鎌倉街道歴史遊歩道
https://kengaku2.blogspot.com/2025/02/blog-post.html
龍骨、立石(龍ヶ沢)
https://kengaku2.blogspot.com/2025/01/blog-post.html
縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/11/20.html
幻のクジラ化石名?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/10/blog-post.html
下小島の雨降り地蔵
https://kengaku2.blogspot.com/2024/09/blog-post.html
金井の雨乞い地蔵尊
https://kengaku2.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
https://kengaku2.blogspot.com/2024/04/13100.html
大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/03/13100.html
もう一人の林東馬の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2024/07/blog-post.html
北条国時、北条時春の勅撰集和歌
https://kengaku2.blogspot.com/2024/06/blog-post_24.html
もの恋し火ともしころを散る桜
https://kengaku2.blogspot.com/2024/05/blog-post.html

2025年2月28日金曜日

鎌倉街道歴史遊歩道

鎌倉街道
鎌倉街道(広報うえだ 昭和54年8月16日 前山寺の西)

昭和の『広報うえだ』で「鎌倉街道歴史遊歩道」というのを見かけたのですが、思い当たる節はあるものの(たぶん、今のあじさい小径と重なる)、具体的なコースや作られた経緯は知らなかったので、少し調べてみました。

1975(昭和50) 「三·五キロにわたって「鎌倉街道歴史遊歩道」ができ道案内板もある」(前山寺から中禅寺が約1.4kmなので、残りは、前山寺-手洗池-安曽神社(約2.3km)のコースか?)
1981(昭和56) 11月1日 塩田三代北条まつり(別所温泉と前山で時代行列、ふるまい等。翌年、翌々年も開催)
1983(昭和58) 上田市予算 商工費 塩田史跡めぐり道路改修工事費 1100万円
1984(昭和59) 上田市予算 商工費 鎌倉街道歴史遊歩道整備事業 452万円
1984(昭和59) 4月14・15日 前山塩野神社 甲子祭(60年に一度)
1985(昭和60) 4月3日 NHK「真田太平記」放送。(翌年3月19日まで 全45話)

現在は、パンフレット等では見ませんが、現地には「鎌倉道遊歩道」の案内表示があるようです。手洗池の西方、安曽神社、砂原池、上窪池など。
ただし、上窪池では、安曽神社北側の小道の写真に「鎌倉道遊歩道 650m」と書いてあるだけで、どこのことを言っているのか不明です……(上窪池から安曽神社までは直線距離で約1.5km)
また、柳沢から安曽神社までのコースもはっきりしません……
(「鎌倉道」自体も、そう呼ぶ理由が特にあるのか、ぼんやりした印象。隣接する集落間の道で、もっと古くからあったと思われますし、その他の道もあって日常的に使われていたでしょうし……)


龍骨、立石(龍ヶ沢)
https://kengaku2.blogspot.com/2025/01/blog-post.html
縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/11/20.html
幻のクジラ化石名?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/10/blog-post.html
下小島の雨降り地蔵
https://kengaku2.blogspot.com/2024/09/blog-post.html
金井の雨乞い地蔵尊
https://kengaku2.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
https://kengaku2.blogspot.com/2024/04/13100.html
大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/03/13100.html
もう一人の林東馬の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2024/07/blog-post.html
北条国時、北条時春の勅撰集和歌
https://kengaku2.blogspot.com/2024/06/blog-post_24.html
もの恋し火ともしころを散る桜
https://kengaku2.blogspot.com/2024/05/blog-post.html

2025年1月31日金曜日

龍骨、立石(龍ヶ沢)

寶珠山龍光院之景(『信濃宝鑑』1901)
寶珠山龍光院之景(『信濃宝鑑』1901)

1月なので干支の話題を…
昨年、北条国時・北条時春の記事の中で一度書きましたが、明治時代の『信濃宝鑑』によると、前山の龍光院の寺宝に「龍骨」があるそうで、昔、大蛇を退治して埋めたら祟りがあったので、掘り返して仏前で供養した、とのこと。
由来は後付けかもしれませんが、一応、何かの用途はあったのかも。今はどうなのか、わかりませんが… (地元ではあまり関心はない?)

渡辺市太郎編『信濃宝鑑』(1901)
長野縣信濃國小縣郡西塩田村大字前山
曹洞宗 寶珠山龍光院之景
(中略)
寶物
一 龍骨  個
寺傳ニ曰ク、當山開基ノ時、深村中大蛇アリ。之レヲ捕殺シ境内ノ南方ニ埋ム 爾後災異数々至ル 依テ之レヲ発堀シ 其頭骨ヲ納メテ佛前ニ供シ埋所ニ石ヲ建テ祀ル 今其地ヲ立石、又龍ヶ沢ト云フ
一 木像
塩田入道 道祐ノ像 一躰


縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/11/20.html
幻のクジラ化石名?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/10/blog-post.html
下小島の雨降り地蔵
https://kengaku2.blogspot.com/2024/09/blog-post.html
金井の雨乞い地蔵尊
https://kengaku2.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
https://kengaku2.blogspot.com/2024/04/13100.html
大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/03/13100.html
もう一人の林東馬の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2024/07/blog-post.html
北条国時、北条時春の勅撰集和歌
https://kengaku2.blogspot.com/2024/06/blog-post_24.html
もの恋し火ともしころを散る桜
https://kengaku2.blogspot.com/2024/05/blog-post.html

2024年12月28日土曜日

縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?

縛られ地蔵(左:南蔵院 右:品川願行寺)
縛られ地蔵(左:南蔵院 右:品川願行寺)(本山桂川『日本民俗図誌 第二冊』昭和17 79頁)

『上田小県誌』の「表35 文献にあらわれた上小地方の伝説」に「縄目地蔵(塩田町とあるのみ)」というのがあるのですが、実際には、該当するような地蔵像や伝承・風習は見当たりません。塩田地域だけでなく、小県郡全体でも見つからない……(『上田小県誌 第5巻 補遺 資料篇1』昭和48 1973 615頁)
出典を辿ると、『土の鈴』という大正時代に長崎で発行されていた雑誌(会誌)が初出のようでした。実物は未確認で、確認してから記事を書こうと思ったのですが、それから何年も経ち、もう今年も終わるので、一度、書いておきます……
この雑誌を参照したのが以下の本です。

『日本伝説名彙』柳田国男監修 日本放送協会編(昭和25 1950) 415頁
繩目地藏  長野縣小縣郡鹽田村
 石地藏に旱天に降雨を祈る。荒繩で縛り、降雨があると、これを解くといふ。(土ノ鈴 一六)

※改版(昭和46 1971)では村名に「(現塩田町)」を追加。
※『土の鈴 第16輯』大正11年12月 土の鈴会 主宰:本山桂川

そもそも「小県郡塩田村」が実在しません。東塩田、西塩田、中塩田のどれかだろうと推測されたのかもしれませんが、間違いや別の塩田村と取り違えられた可能性も考えられます……
(ちなみに、小泉 山口の塩田神社の一帯も「塩田村」と呼ばれていたという話があります。もし、そうなら、上田原合戦の戦場でもあるので、武田の古文書の「塩田の城」は、ここの村上の城のことを言っていた可能性もある?)

本山桂川(1888-1974)『信仰民俗誌』(昭和9 1934) に「神仏脅迫祈願」「縛られ地蔵の類形」の記事がありましたが、この小県郡の話はありませんでした。
ちなみに、同書には「倒(さかさま)にして水中に浸す」等の話も。

本山桂川『信仰民俗誌』(昭和9 1934) 239頁
阿波名東郡佐那河内村にも「雨乞地藏」といふがある。旱魃の時には、雨乞の祈禱をして附近の池へ此地藏像を擔ぎ行き、倒にして水中に浸すと雨が降ると云はれてゐる。(後藤捷一氏)。


地域の「代表的な伝説」の中には、いつ頃どこで語られていたのか不明で、近世以降の書籍等が起源である可能性がある、むしろ都市伝説に近いような話もあります。(伝承と都市伝説の区別は実質的に不可能で、民俗学でもほとんど放棄されている? そのため、実態から離れた考察がされたり、民俗学の論説が伝承を上書きしたりもする?)
しかし、本に書かれた話が受容されないこともあるようで、縄目地蔵は、外部から地域の伝説集に伝播したものの、定着しないまま、放置されてきた、という事例なのかもしれません。
(ただし、今後、受容される可能性がないわけでもなく…… 例えば、塩野神社や生島足島神社は、平安中期の『延喜式』の僅かな記述が、約800年後の近世になって再利用されたものです……)

伝説の伝播の事例と言えるかどうかわかりませんが、小学校の生徒が先生から縛られ地蔵の話を聞いて、地元の石地蔵を縛られ地蔵と解釈する話がありました。それまでは縛られているとは認識していなかったようなので、もしかしたら、例えば、古い前掛の紐だけが残っているのを見て、縛られていると思ったとか……
(豊島区の「目白通り二又子育地蔵尊」のことだとしたら、現在は縛られてはいないようです。)

桂田金造『尋常一年の綴り方』(大正6 1917) 180頁
 然らば、經驗はかくまで深く滲みこんだものばかりかといへば、左樣でもない、私は以前次の如き例にあつた事がある。私は「縛られ地藏」といふつまらない自作の話を兒童に試みた際。兒童は相當の興味を以て聞いたらしい。そしてその日の午後、一年の兒童は長崎村のあたりを散歩した。しかるに、そこに一つの石地藏がある、偶然にもその地藏が紐で縛られてあつた。所がこれは前からこんなにして立つてあつた石地藏であつたにもかゝはらず。その日に限つて兒童の注意を引いて、「あゝ縛られ地藏」「縛られ地藏」とよつてたかつて、嬉しがつて無邪氣な兒童は、後から前からこれを眺めて、まだ足りなかつたかそこらの繩
のはしを拾つて來て、又もや石地藏を縛つたり、はやし立てゝ歸つたものらしい。そして早速私を取りまいて、
「先生縛られ地藏がありました。」
「あの長崎村の十町川から少し行つた所に道が三つに分れてゐる所があるでせう、そこにあるのですよ。」
「お地蔵樣は立つて拜んでゐるのですよ。」
「ほら、屋根がしてあるお地藏樣があるでせう。」
「地藏さんは眼を閉ぢてゐましたよ。」
「涎掛がきたないのですよ。」
「何々」「何々」
 とそれは詳細をきはめて、私をして了解せしめやうとつとめた。これらは經驗と、新しい觀察とが比較的短い間にあらはれた一例である。



歳の瀬に…
返歌?
この世をばあの世とぞ思う望月の妬ましきこともなしと思えば

二年参りにて
神仏に金運開運あるならば賽銭箱も無用なるらん


上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/11/20.html
幻のクジラ化石名?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/10/blog-post.html
下小島の雨降り地蔵
https://kengaku2.blogspot.com/2024/09/blog-post.html
金井の雨乞い地蔵尊
https://kengaku2.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
https://kengaku2.blogspot.com/2024/04/13100.html
大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/03/13100.html
もう一人の林東馬の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2024/07/blog-post.html
北条国時、北条時春の勅撰集和歌
https://kengaku2.blogspot.com/2024/06/blog-post_24.html
もの恋し火ともしころを散る桜
https://kengaku2.blogspot.com/2024/05/blog-post.html

2024年11月23日土曜日

上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?

上田市誌
上田市誌(『広報うえだ 平成16年/2004 8.16』7頁)

20年前の2004年(平成16年)は、4月に上田情報ライブラリーが開館、11月に『上田市誌』の刊行が完結したという年。
情報ライブラリーは20周年の記念事業が行われましたが、上田市誌の方はどうだったのでしょう。(合併前の旧上田市の事業なので、力の入れ加減が微妙だったとか?)

「上田市誌編さんだより(105)最終回」は、監修の 佐藤 信 東京大学教授(当時)の文で、今後の史料類の保存・活用について触れられていました。
活用については、市誌全体のデジタル化、データベース化の話になると思いますが、検討や計画は、刊行後20年の間にあったのでしょうか?


広報うえだ 平成16年11月1日号 5頁
上田市誌編さんだより(105)最終回
『上田市誌』と日本史
上田市誌監修者 東京大学教授 佐藤 信
(中略)
なお、編さんの過程で寄贈や収集によって集められた大量の貴重な古文書や写真・地図などの史料類が市誌編さん室にはあふれています。私の最後の心配は、上田の歴史の「あかし」であるこうした史料類が活用されずに「お蔵入り」になってしまわないかということです。史料類を保存し、『上田市誌』の成果を市民や全国に発信し続けていく役割を果たし、上田の歴史・文化を学ぶ人々に情報サービスができるような体制ができるとありがたい、と思っています。


上田情報ライブラリーは開館20周年を迎えます
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/96023.html
上田情報ライブラリー開館20周年事業
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/96583.html


なお、2004年は上田市誌編さん委員長、顧問をされた黒坂周平氏が亡くなられた年でもあり、今年は没後20年。(広報うえだ 平成16年4月1日 15頁等)
(Wikipedia で逝去の日付が2003年2月7日になっていました… 参考文献の『古代交通研究 第13号』の表紙を見たら「2003年度」とあって、もしかして、この数字を使ったとか?(発行は「2004年5月20日」) それと、参考文献の記事タイトルに誤字…)


幻のクジラ化石名?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/10/blog-post.html
下小島の雨降り地蔵
https://kengaku2.blogspot.com/2024/09/blog-post.html
金井の雨乞い地蔵尊
https://kengaku2.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
https://kengaku2.blogspot.com/2024/04/13100.html
大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
https://kengaku2.blogspot.com/2024/03/13100.html
もう一人の林東馬の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2024/07/blog-post.html
北条国時、北条時春の勅撰集和歌
https://kengaku2.blogspot.com/2024/06/blog-post_24.html
もの恋し火ともしころを散る桜
https://kengaku2.blogspot.com/2024/05/blog-post.html