2024年12月28日土曜日

縄目地蔵の謎、定着しなかった誤伝?

縛られ地蔵(左:南蔵院 右:品川願行寺)
縛られ地蔵(左:南蔵院 右:品川願行寺)(本山桂川『日本民俗図誌 第二冊』昭和17 79頁)

『上田小県誌』の「表35 文献にあらわれた上小地方の伝説」に「縄目地蔵(塩田町とあるのみ)」というのがあるのですが、実際には、該当するような地蔵像や伝承・風習は見当たりません。塩田地域だけでなく、小県郡全体でも見つからない……(『上田小県誌 第5巻 補遺 資料篇1』昭和48 1973 615頁)
出典を辿ると、『土の鈴』という大正時代に長崎で発行されていた雑誌(会誌)が初出のようでした。実物は未確認で、確認してから記事を書こうと思ったのですが、それから何年も経ち、もう今年も終わるので、一度、書いておきます……
この雑誌を参照したのが以下の本です。

『日本伝説名彙』柳田国男監修 日本放送協会編(昭和25 1950) 415頁
繩目地藏  長野縣小縣郡鹽田村
 石地藏に旱天に降雨を祈る。荒繩で縛り、降雨があると、これを解くといふ。(土ノ鈴 一六)

※改版(昭和46 1971)では村名に「(現塩田町)」を追加。
※『土の鈴 第16輯』大正11年12月 土の鈴会 主宰:本山桂川

そもそも「小県郡塩田村」が実在しません。東塩田、西塩田、中塩田のどれかだろうと推測されたのかもしれませんが、間違いや別の塩田村と取り違えられた可能性も考えられます……
(ちなみに、小泉 山口の塩田神社の一帯も「塩田村」と呼ばれていたという話があります。もし、そうなら、上田原合戦の戦場でもあるので、武田の古文書の「塩田の城」は、ここの村上の城のことを言っていた可能性もある?)

本山桂川(1888-1974)『信仰民俗誌』(昭和9 1934) に「神仏脅迫祈願」「縛られ地蔵の類形」の記事がありましたが、この小県郡の話はありませんでした。
ちなみに、同書には「倒(さかさま)にして水中に浸す」等の話も。

本山桂川『信仰民俗誌』(昭和9 1934) 239頁
阿波名東郡佐那河内村にも「雨乞地藏」といふがある。旱魃の時には、雨乞の祈禱をして附近の池へ此地藏像を擔ぎ行き、倒にして水中に浸すと雨が降ると云はれてゐる。(後藤捷一氏)。


地域の「代表的な伝説」の中には、いつ頃どこで語られていたのか不明で、近世以降の書籍等が起源である可能性がある、むしろ都市伝説に近いような話もあります。(伝承と都市伝説の区別は実質的に不可能で、民俗学でもほとんど放棄されている? そのため、実態から離れた考察がされたり、民俗学の論説が伝承を上書きしたりもする?)
しかし、本に書かれた話が受容されないこともあるようで、縄目地蔵は、外部から地域の伝説集に伝播したものの、定着しないまま、放置されてきた、という事例なのかもしれません。
(ただし、今後、受容される可能性がないわけでもなく…… 例えば、塩野神社や生島足島神社は、平安中期の『延喜式』の僅かな記述が、約800年後の近世になって再利用されたものです……)

伝説の伝播の事例と言えるかどうかわかりませんが、小学校の生徒が先生から縛られ地蔵の話を聞いて、地元の石地蔵を縛られ地蔵と解釈する話がありました。それまでは縛られているとは認識していなかったようなので、もしかしたら、例えば、古い前掛の紐だけが残っているのを見て、縛られていると思ったとか……
(豊島区の「目白通り二又子育地蔵尊」のことだとしたら、現在は縛られてはいないようです。)

桂田金造『尋常一年の綴り方』(大正6 1917) 180頁
 然らば、經驗はかくまで深く滲みこんだものばかりかといへば、左樣でもない、私は以前次の如き例にあつた事がある。私は「縛られ地藏」といふつまらない自作の話を兒童に試みた際。兒童は相當の興味を以て聞いたらしい。そしてその日の午後、一年の兒童は長崎村のあたりを散歩した。しかるに、そこに一つの石地藏がある、偶然にもその地藏が紐で縛られてあつた。所がこれは前からこんなにして立つてあつた石地藏であつたにもかゝはらず。その日に限つて兒童の注意を引いて、「あゝ縛られ地藏」「縛られ地藏」とよつてたかつて、嬉しがつて無邪氣な兒童は、後から前からこれを眺めて、まだ足りなかつたかそこらの繩
のはしを拾つて來て、又もや石地藏を縛つたり、はやし立てゝ歸つたものらしい。そして早速私を取りまいて、
「先生縛られ地藏がありました。」
「あの長崎村の十町川から少し行つた所に道が三つに分れてゐる所があるでせう、そこにあるのですよ。」
「お地蔵樣は立つて拜んでゐるのですよ。」
「ほら、屋根がしてあるお地藏樣があるでせう。」
「地藏さんは眼を閉ぢてゐましたよ。」
「涎掛がきたないのですよ。」
「何々」「何々」
 とそれは詳細をきはめて、私をして了解せしめやうとつとめた。これらは經驗と、新しい觀察とが比較的短い間にあらはれた一例である。


歳の瀬に…
返歌?
この世をばあの世とぞ思う望月の妬ましきこともなしと思えば

二年参りにて
神仏に金運開運あるならば賽銭箱も無用なるらん


上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?
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幻のクジラ化石名?
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金井の雨乞い地蔵尊
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大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
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2024年11月23日土曜日

上田市誌 刊行20周年、メンテナンス計画?

上田市誌
上田市誌(『広報うえだ 平成16年/2004 8.16』7頁)

20年前の2004年(平成16年)は、4月に上田情報ライブラリーが開館、11月に『上田市誌』の刊行が完結したという年。
情報ライブラリーは20周年の記念事業が行われましたが、上田市誌の方はどうだったのでしょう。(合併前の旧上田市の事業なので、力の入れ加減が微妙だったとか?)

「上田市誌編さんだより(105)最終回」は、監修の 佐藤 信 東京大学教授(当時)の文で、今後の史料類の保存・活用について触れられていました。
活用については、市誌全体のデジタル化、データベース化の話になると思いますが、検討や計画は、刊行後20年の間にあったのでしょうか?


広報うえだ 平成16年11月1日号 5頁
上田市誌編さんだより(105)最終回
『上田市誌』と日本史
上田市誌監修者 東京大学教授 佐藤 信
(中略)
なお、編さんの過程で寄贈や収集によって集められた大量の貴重な古文書や写真・地図などの史料類が市誌編さん室にはあふれています。私の最後の心配は、上田の歴史の「あかし」であるこうした史料類が活用されずに「お蔵入り」になってしまわないかということです。史料類を保存し、『上田市誌』の成果を市民や全国に発信し続けていく役割を果たし、上田の歴史・文化を学ぶ人々に情報サービスができるような体制ができるとありがたい、と思っています。


上田情報ライブラリーは開館20周年を迎えます
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/96023.html
上田情報ライブラリー開館20周年事業
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/96583.html


なお、2004年は上田市誌編さん委員長、顧問をされた黒坂周平氏が亡くなられた年でもあり、今年は没後20年。(広報うえだ 平成16年4月1日 15頁等)
(Wikipedia で逝去の日付が2003年2月7日になっていました… 参考文献の『古代交通研究 第13号』の表紙を見たら「2003年度」とあって、もしかして、この数字を使ったとか?(発行は「2004年5月20日」) それと、参考文献の記事タイトルに誤字…)


幻のクジラ化石名?
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2024年10月26日土曜日

幻のクジラ化石名?

クジラ化石
(左)上田市行政チャンネル「浦野川から発見されたクジラ化石に関する記者発表会」(2020.3)より、(右)上田市自然科学講演会「クジラ化石の謎を解く」(2024.3)

2020年3月23日に「浦野川から発見されたクジラ化石に関する記者発表会」があって、その中で、「今後、世界的に使われる名前であろう」という「和名」の発表がありました。それが「ウエダアカボウクジラ」…

ところが、2024年3月23日の自然科学講演会「クジラ化石の謎を解く」では、ハクジラ類のアカボウクジラではなく、ヒゲクジラ亜目の可能性が高いとの説明があったそうです。まだ、わかりませんが、「ウエダアカボウクジラ」の名前は破棄されることになる?
(講演会の案内には「アカボウクジラ科」の記述があったので、判明したのは案内を作成した後だったのか、あるいは、連絡がうまく行かず修正されなかったのか…)

和名に明確な規定はないにしても、学名に基づいた日本語名にするのが普通だと思うので、本格的なクリーニングも始まっていない初期の段階での命名は勇み足でしょうか…

地域振興の意図を持って、化石等の名前に地名を入れるのも、良い事なのかどうか迷います… 広い範囲で同じ種が見つかる場合、先に発見した地域では自慢に思いながら化石の名前を呼び、その他の地域では残念に思いながら化石の名前を呼ぶのでしょうか… もしも、そんな一喜一憂をするなら、地名を入れない方が良いのでは…

研究が進んで分類が変わり、化石の学名が変わることもあります。そのときに余計なことを気にかけるのも嫌なものではないでしょうか…

クリーニング作業は、2020年3月の記者発表会では、約1年位と見込んでいるとのことでした。それから4年半なので、全体の化石の展示も近いのでしょうか…

クジラの化石
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2024年9月28日土曜日

下小島の雨降り地蔵

雨降り地蔵の由来(下小島)(中塩田村時報 昭和27年11月)
雨降り地蔵の由来(下小島)(中塩田村時報 昭和27年11月)

昭和27年11月の中塩田時報(中塩田村時報)に下小島の雨降り地蔵の話がありました。
祈りの言葉は「南無地蔵大菩薩 雨降らせ給へな」
上小島と下小島は元は小島村で、一緒に池生神社(諏訪大明神)・小島大池で雨乞いをすることもありましたが、その他に地蔵尊にも祈ったということでしょうか。どんな慣習があったのかは未確認です。

塩田は諏訪社が多いですが、湯川沿いは、八木沢 兜神社、舞田 塩野入神社、保野 塩野神社、中野 諏訪神社、上小島・下小島 池生神社、どれも諏訪社です。(保野塩野神社は「諏訪大明神宮」(宝永指出帳)で、祭神は「塩垂津命、健御名方命、素盞男命」(明治の町村誌))
祈りの言葉は「雨降らせたんまいな、ナーム、諏訪の大明神」(『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』中野)等でしょうか……


『中塩田村時報』昭和27年11月27日
分舘めぐり =下小島の巻=
雨降り地藏の由來
部落の西側を、人家に沿つて、流れる水路は、大池の水が流れる主要水路である。水路と並んで、一間幅の道路があり、所謂、下の角がある。下の角も別所街道寄りの所に、立派な格子作りの家に、地蔵尊が鎮座する。
其の昔、上小島から遁がれて、下小島の地に、新開地を求めた、当時の開拓者達が、土地の守本尊として、祀つたものである。
元禄五年九月二十四日建立されたが、降つて、文久三年、今も尚、地蔵尊の前に建つている石燈籠が建てられた。
以来毎年九月二十四日には、子供達によつて、地蔵尊のお祭りが行はれる。
又、日照りの続いた時には、人々が集つて、雨乞いすると、一天俄かにかき曇り、慈雨をもたらしたといふ事である。
地蔵尊がある所から、別所街道迄の曲りくねつた坂道を、人呼んで地蔵峠と云ふ。
地蔵尊を抱う様にして、生い茂つていた、ひもろの大木は、数百年の風雨に耐えて来たが、今春 三月果樹の赤星病撲滅の為に伐られたが、公民舘の欄間に用いられて区民の話題になつている。


『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』(昭和63年 1988) 95頁
大正十三年の大旱魃には昼夜交替で鐘をたたき調子を合せて「南無地蔵大菩薩雨降らせ給へな」と祈願し、近郷からも大勢の参拝者が訪れて一週間後には恵みの雨がふりました。


金井の雨乞い地蔵尊
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2024年8月25日日曜日

金井の雨乞い地蔵尊

金井の雨乞い地蔵尊(神科村誌)
金井の雨乞い地蔵尊(神科村誌 439頁)

『神科村誌』(昭和43 1968)に、戦争中の雨乞いの記事がありました。(昭和17年8月)
文章と写真撮影は、編集顧問 清水利雄氏。(「神科村誌あんない / 六 執筆礼言 / ○清水編集顧問には、身を以って、第一章と「部落めぐり」を書いていただき、始めと終りをひき締めた。」)

雨乞いにいろいろなルール設定(難易度設計?)があって、興味深いです。(「出座したが最後雨が降るまで必ず引きこめない。もしこのことに反すれば、より以上の災害が来る」「この地蔵尊の乾かざるよう休みなく水をぶっかける。もし乾く事があればご利益解消という」)
寺社はあまり関係しないのか、僧侶や神職についての記述はありません。
真剣だったとは思いますが、お酒も入って、楽しみの面もあったのかも。

雨乞いの加虐性については曖昧な印象。(本質的にスペクトラム?)
地蔵(石の坐像)を運ぶとき、はしごを輿にして上に載せて「結わいつける」のは、落とさないように固定する目的だと思いますが、見た目には、縄で縛って引き回すようにも見えるかも。
水中に入れるのは、水をかけ続けることの延長であり、同時に、面倒だから沈めてしまえ、という気持ちにもなったかも…

『神科村誌』(昭和43 1968) 437頁
(十二 部落めぐり 山口 金井 蛇沢)
 地区の雨乞い
 上田盆地は全国的に有名な雨量の少ない所である。このため用水池や用水堰の発達もまた有名である。しかし絶対雨量の少ないこの地方では、万駄《*だん》たきなどの雨乞いも各地区毎に数多く行われている。神科地区でも特に水に恵まれない上田地区の雨乞いが有名で、山口の千駄たきと特に金井の雨乞い地蔵の行事はものすごかった。

●山口の千駄たき
 消防団が主体になって各家からも出た。役員は朝から出て早くから用意した。まず大きな四本の木を柱にくみ、まん中にしんを立てた。柱と柱の間には横木を何本となく渡してその間には燃え易いそだ木を一ぱいさしこむ。あっちからもこっちからも持ちはこばれた枝で山のよう。
 やがてころを見はからって火がつけられる、と、めりめりと焼けた空にほのほが立ちあがる。太郎山の中腹に天をこがす一大火柱の出現――村じゅうあげての願いをこめて。焼け残った柱は、希望者に分けるのが例であった。

●金井の雨乞い
 雨乞い地蔵尊は鎮守草創《**くさわけ》神社前の古い道ばたの吹きさらしの小堂の中に安置されている。『元文四年 六十六部供養』と銘が刻まれている。最近では大正十三、十四年と昭和十七年との二回が記録されている。特に昭和十七年の八月に直接この行事を写真にしようと出向してその真剣さには背をうたれた。
 まず区集会を開いて雨乞いまで 持ちこむかと熟議をこらす。出座したが最後雨が降るまで必ず引きこめない。もしこのことに反すれば、より以上の災害が来る。そこで万一の場合には女子も出動する相談づくで決定となる。何しろ弥吾平の桑の葉が日に日にしおれて来る。村の唯一の丘堰にも水一滴も来ない。こうした天空を見上げながら、区集会全員一致で決定となると、
 第一に矢出沢川金井橋より百メートル下位の淵のところをせきとめて水をたたえる。その中央に土俵を積み重ねて地蔵尊の座をつくる。準備完了と共に雨乞い地蔵尊をはしごに結わいつける。鏤《しよう》に太鼓にあわせて『雨降らせ給え』とさけびながら行列をくんで先の台座の上に安置する。そしてこの地蔵尊の乾かざるよう休みなく水をぶっかける。もし乾く事があればご利益《りやく》解消という。村じゅう一戸一名ずつ出動した男子が、酒をのみのみ、かわるがわる夜、昼なく、鏤と太鼓と「雨降らせ給え」の祈りに合せて、水を手でぶっかける。「いまだかつて三日にして降らざる事なし」という信念のもとに――。
 実に真剣そのものである。昭和十七年太平洋戦争熾烈《**しれつ》にして物資いよいよ窮迫というこの時、集まった酒五斗五升という。もっとも、この行事の最中には、遠く近くあちこちから、酒一升をつるしての陣中見舞と応援の人達が多かった。この昭和十七年のときも三日日に確かに夕立が来た。区民全員欣喜雀躍、地蔵尊をかつぎ帰る行列は実にこうごうしいかぎりであった。

(※「鏤」は鉦?)

大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き
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大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?
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もう一人の林東馬の謎
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北条国時、北条時春の勅撰集和歌
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もの恋し火ともしころを散る桜
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