2024年6月24日月曜日

北条国時、北条時春の勅撰集和歌

伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))
伝・北条国時自刻木像(常楽寺)(塩田町『信州の鎌倉 塩田』(1967))


北条国時、北条時春の勅撰集和歌
北条国時、北条時春の勅撰集和歌


平安時代末の塩田庄にはたぶん手塚光盛と塩田高光がいて木曽義仲に従い滅亡、鎌倉時代には惟宗忠久(島津氏初代)、比企能員の変(1203)の後に北条氏(北条義時、泰時、重時、義政、国時 等)、南北朝時代から村上氏(代官 福沢氏?)、その後、武田、真田、仙石、松平。

北条義政(1243?-1282 重時の5男)の子が国時、時治(時春)、胤時で、胤時はほとんど記録がなく、国時と時治も情報は少なく、生年も不明です… 義政の生年没年から考えると、1260年頃から1282年の間。北条義政の没年の1282年には満年齢で0~約22歳。国時の没年とされる1333年には51~約73歳。

時春は新後撰和歌集(1303)に1首、玉葉和歌集(1312)に2首、国時は玉葉和歌集(1312)に3首入集しています。
新後撰和歌集(1303) 21~約43歳、玉葉和歌集(1312) 30~約52歳。

玉葉和歌集(1312)には、宗尊親王(1242-1274 6代将軍1252-66)の歌と時春の歌が並んでいる箇所と、北条義政と国時が並んでいる箇所がありました。
宗尊親王は北条義政とほぼ同年齢で、将軍在位中は時春は年少かまだ生まれていないので、直接の交渉はなかった可能性が高いのではないかと思います。北条義政と国時も、親子ですが、歌のやり取りがあったかは不明です。
玉葉和歌集が成立した1312年は、宗尊親王の没後38年、北条義政の没後30年、国時と時春は30~約52歳。
勅撰集入集はそれだけで十分に名誉なことだと思いますが、この歌の配列は特に厚遇だった可能性はないでしょうか。国時は本当に嬉しかったと思いますし、名誉ある家系として広く知らしめることにもなったのかも。

臆測でしかありませんが、北条義政の死後、子供達は年少か成人したばかりで、家を継いだというより、親類の庇護下にいた可能性も。負け組として軽んじる人もいれば、リスペクトして支援する人もいたのではないでしょうか。
(もし、もっと冷遇されていたら… 名前は残さなかったかもしれませんが、他の諸流と距離を置いて、信州で南北朝時代まで続いた可能性もあったのでしょうか…)

国時の「式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を」(玉葉和歌集 巻第九 恋歌一)の「式部卿親王家」は、久明親王(1276-1328 8代将軍 1289-1308 式部卿 1297-)でしょうか。式部卿任官(1297)から将軍辞任(1308)の間の可能性がありますが、それ以外もなくはないかも…
久明親王の生年(1276)は国時・時春の生年の範囲(1260年頃から1282年)の後半になります。これも臆測ですが、恋歌であることや「おなじ心を」という言葉から、国時は久明親王と同年代のような雰囲気も感じます。北条義政が10代の頃に同年代の宗尊親王(11歳で6代将軍)の近くで諸芸を学んだ(推測)ように、国時・時春の兄弟も同年代の久明親王(14歳で8代将軍)の側で和歌等を学んだという可能性も考えられないでしょうか…(やはり違う可能性は残り続けますが…)

歌の中では、時春の「風にゆく峯の浮雲跡はれて夕日にのこる秋の村雨」「西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山」は塩田の風景が連想されました。時春も国時も若い頃はほとんど鎌倉か京都にいたのかもしれませんが。

ところで…
北条国時と同じ読みで、北条邦時(1325-1333)(高時の長男)がいますが、1331年、元服時に9代将軍 守邦親王(1301-1333)から邦の字を受けたそうなので、もしかしたら、それ以降は国時の名前は使わなかったのかも。

塩田と狩野と言えば、太平記の塩田民部大輔俊時と狩野五郎重光。この2人がモデルなのでしょうか… ちなみに塩田の今の読みは地元では「しおだ」です。昔がどうだったかはわかりません…

太平記の「塩田父子自害ノ事」の国時は、俊時に先立たれた後、読経を続けて、狩野重光に嘘で催促されて自害、鎧を奪われて遺体は放置? という、あまり格好は良くない最期でしたが(もちろん本当のことはわかりません)、子供が目の前で死んでしまい、ただ茫然として、読経しながら呆けていたとすれば、お坊ちゃん気質の、やさしい人だったのかな、とか妄想してしまいます…


新後撰和歌集(1303)
 巻第十四 恋歌 四
  恋歌の中に 平時春
 あはぬ夜のつもるつらさは敷たへの 枕のちりそ先しらせける
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2579163/1/72

玉葉和歌集(1312)

 巻第五 秋歌 下
  秋雨を 中務卿宗尊親王
 雲かゝる高根のひはらをとたてゝ むらさめわたる秋の山本

  平時春
 風にゆく峯の浮雲跡はれて 夕日にのこる秋の村雨
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562646/1/15


 巻第九 恋歌 一
  式部卿親王家にて題をさくりて歌よみ侍けるに おなし心を 平国時
 逢とみるその面影の身にそはゝ 夢路をのみや猶頼むへき
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/12

 巻第十 恋歌 二
  題しらす 平国時
 恋しさのなくさむかたとなかむれは 心そやかて空になりゆく
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562647/1/29

 巻第十五 雑歌 二
  題しらす 平時春
 西になる月は梢の空にすみて松の色こき明かたの山
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/11

 巻第十八 雑歌 五
  平義政
 夢ならでまたはまこともなきものを たが名付けけるうつゝなるらん

  平国時
 身のうさを思ひねにみる夢なれは うつゝにかはるなくさめもなし
 https://dl.ndl.go.jp/pid/2562648/1/62



『太平記』(刊 慶長12 1607)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2543812/1/57

○鹽田父子自害(ノ)事
爰ニ不思議ナリシハ鹽田陸奥(ノ)入道(、)道祐カ子息民部
大輔俊時親ノ自害ヲ勸(メ)ント腹掻切テ目(ノ)前ニ卧タリケ
ルヲ見給テ幾程ナラヌ今生ノ別ニ目クレ心迷(イ)テ落ル泪
モ不留(ラ)先立ヌル子息ノ菩提ヲモ祈(ノ)リ我逆(ク)修ニモ備ヘン
トヤ被思ケン子息ノ尸骸ニ向テ年來(ロ)誦《ヨミ》給ケル持《゛》經ノ
紐《ヒホ》ヲ解要(ウ)文𠁅(ロ)々打上(ケ)心閑ニ讀誦シ給ケリ被打漏タ
ル郎等共主ト共ニ自害セントテ二百餘人並居タリケル
ヲ三方ヘ差遣シ此(ノ)御經誦(ミ)終《ハツ》ル程防矢射ヨト下知セラ
レケリ其(ノ)中ニ狩野五郎重光計ハ年來ノ者ナル上近ク
召仕レケレハ吾(レ)腹切テ後(チ)屋形ニ火懸テ敵ニ頸(ヒ)トラスナ
ト云含(ク)メ一人被留置ケルカ法華經巳ニ五ノ巻ノ提
婆品ハテントシケル時狩野五郎門前ニ走出テ四方ヲ
見ル眞似ヲシテ防矢仕ツル者共早皆討レテ敵攻(メ)近付

候早々御自害候ヘト勸(メ)ケレハ入道サラハトテ經ヲハ左
ノ手ニ握(キ)リ右ノ手ニ刀ヲ抜テ腹十文字ニ掻切テ父子
同枕ニソ卧給ケル重光ハ年來ト云重《゛》恩ト云當時遺《ユイ》言(ン)
旁(タ/\)難遁(レ)ケレハ軈テ腹ヲモ切ランスラト思タレハサハ無テ主
二人ノ鎧(ヒ)太刀刀剥(キ)家中ノ財寶中間下部ニ取持セテ
圓覺寺ノ藏《゛》主寮《レウ》ニソ隱居タリケル此(ノ)重寶共ニテハ一
期不足非シト覺シニ天罰ニヤ懸リケン舟(ナ)田入道是ヲ
聞付テ推寄セ是非ナク召捕テ遂(イ)ニ頸(ヒ)ヲ刎テ由井(ノ)濱ニ
ソ掛ラレケル尤(モ)角コソ有タケレトテ惡(マ)ヌ者モ無リケリ

2024年6月7日金曜日

一なかるべからず、二あるべからず

信濃毎日新聞 明治36年1月29日 保科百助「通俗滑稽 信州地質学の話」
信濃毎日新聞 明治36年1月29日 保科百助「通俗滑稽 信州地質学の話」

6月7日は保科百助(1868-1911)の命日、8日は誕生日(旧暦?)です。今も、少しずつですが、知らなかった資料を見ています。

渡辺敏(わたなべ びん 1847-1930)が保科百助について言ったという「一なかるべからず、二あるべからず」という言葉について、バリエーションがあるので集めてみました。
『信濃教育 昭和4年1月』(保科五無斎号)の北村春畦の記事から、明治33年3月頃の出来事として知られていますが、そのときだけではないのかもしれません。(北村春畦の記事は約30年前の回想であり、記憶違いもあるので(明治33年11月の蓼科学校赴任がない 等)、このエピソードもすべてが事実かどうかはわかりません。)
「不可無一、不可有二」は江戸時代から明治時代の辞書類に載っていて使用例も多くあり、特定の出典は意識されていなかったかもしれません。ただ、保科百助は「以」を入れているので(「不可以無一、不可以有二」?)他にも何か参照していた可能性はあるかも。

明治36年1月29日『信濃毎日新聞』 保科百助 「長野高等女學校長渡邊若翁嘗て予を評して曰く、五無齋は奇人なり 縣下以て一なかるべからず、以て二あるべからざる的の人物なりと」
明治42年3月10日『信濃公論』 保科百助 「日本一の小學校長渡邊敏翁嘗つて五無齋を評して縣下以つて一無かる可らず。以つて二ある可らず的の人物となす。」
大正4年11月10日『信濃教育 大正4年11月』 八木貞助 「保科百助君と信州地學」『渡邊敏先生甞て曰く「五無齋の如きもの信州に一無かるべからず。以て二ある可からず。蓋彼は其天禀に得たるものにして、後人の模倣を許さゞるものあればなり。」と以て至言と稱すべし。然して今や此名物男無し矣。』
昭和4年1月1日 『信濃教育 昭和4年1月』 北村春畦 「五無齋研究」「渡邊敏先生は彼が敎育界に於て以て一なかるべからず以て二あるべからずであると答辨せられた。」
昭和5年6月 『信濃教育 昭和5年6月』 八木貞助 「渡邊先生の人格と其反映」「彼の窮措大五無齋保科百助氏の如きも、先生と肝膽相照すものがあつた。先生は五無齋の如きは信州に一あるべく、二あるべからざる人物であると推奨された。他の多くの人々は彼を敬遠したにも關らす、先生はよくこれを容れ、其長處を暢達せしめ、彼の採集した幾千塊の岩石鑛物標本を入るゝ爲に當時多額の資を投じて容噐を提供し、これに校舍の一部を與へて保管し、且これを整理せしめ長野縣地學標本六百組を造つて廣くこれを頒布し、以て天下に信州地學の一般と其材料の豊富なることを周知せしめたる如きも亦特筆すべき事柄ではあるまいか。」


信濃毎日新聞 明治36年1月29日朝刊1面
通俗滑稽 信州地質學の話 五無齋保科百助述
(二)結晶學及び數學との關係
(中略)有体に白状すれば予は普通の礦物學の始めにある結晶學位は兎も角も故理學士菊池安先生の礦物學敎科書中の結晶の部を了解するの能力なし終りに臨み予は世の數學嫌ひの博物學者に一言を呈せん、曰く動物植物の學は兎も角も礦物地質の學は忽ち失敗に終らん、五無齋の研究を斷念して大採集家となりしは全く是れが爲めなり、採集家は五無齋一人にて足れり、長野高等女學校長渡邊若翁嘗て予を評して曰く、五無齋は奇人なり(予は不服なり人間以上のものなれば何ぞ怪物と言はざる)縣下以て一なかるべからず、以て二あるべからざる的の人物なりと、渡邊若翁は稍予を知るものと謂ふ可し、呵々、


信濃教育 昭和4年1月
五無齋研究 北村春畦
(中略)
  狸と狢(ムジナ)
 これも明治三十三年頃かと思ふ、松本中學長野支校が獨立して、飯田と上田へ新たに中學校の置かれた時である。長野支校の主任島地五六氏は飯田中學校長に、縣視學宮本祐治(※右次)氏は上田中學校長に任命せられた。そこで兩氏の爲め城山館に壯行宴會が開かれたが、盃彈頻りに飛んで宴酣なりし頃、五無齋は談論の行き掛り上、戶野視學官と衝突し風雲將に急ならんとする折しも小林健吉氏は五無齋を拉し去つた。偶々渡邊敏先生が來られて五無齋に代つて其の座へ坐られた、戶野視學官と並んで居た佐柳參事官は憤然として、保科の如き人間が長野縣の敎員間に列して居るのは遺憾である。と云はれたので、渡邊敏先生は彼が敎育界に於て以て一なかるべからず以て二あるべからずであると答辨せられた。所が佐柳參事官は飲みほしたる盃を渡邊敏先生へさしつゝ渡邊君も仲々狸であるわいと戯謔的に云はれた。渡邊敏先生は直に其の盃を飲みほして笑ひながら佐柳さんは流石狢《ムジナ》だけに此の渡邊の狸が見えたわいと、之れ亦戯謔的に云つて返盃された。其の瞬間其の塲に居合せたる春畦は、成程渡邊先生は吾敎育界のオーソリテーであるわい、自分が狸にされながらも遂に談笑の間に對手を狢にしてしまつた、こゝが渡邊先生の老練なる手腕であるとつく/゛\感じた。此の話は聊かレール外ではあるが五無齋の側面觀とするに足る。


渡辺敏と保科百助
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36004932
五無斎保科百助君碑
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36168641


今年の ほしな歌…
歌一つ届かぬ人に思うかな 共に無言歌歌ってほしなと


2024年5月25日土曜日

もの恋し火ともしころを散る桜

もの恋し火ともし比をちる桜
「ひと恋し火とほしころをさくらちる」(左から2行4字目)、
「もの恋し火ともし比をちる桜  志ら尾」(右2行目)
(上田市立博物館『上田藩の人物と文化』(1986) 41頁 44頁)

「ひと恋し火とぼしころを桜ちる」は、加舎白雄(かや しらお 1738-1791)の代表作と言われていますが、十年以上推敲したのと、没後の変化もあったため、微妙に異なる句があるそうです。

「もの恋し火ともし比をちる桜」は初期の案。『安永五年きぬさらぎ七日 草稿』という、手塚での句会の記録(自筆)にあります。
これはこれで良い句に思えます。(というか、どれも一長一短のような… 「人恋し~」は花の句にしてはイ音が少し煩い感じ…)
「もの恋し~」の句碑を、手塚の桜の名所か、とっこ館とかに建ててみるのはどうでしょうか。

「火とほし」は「火とおし」と読んでいた可能性はないのか?と思って探してみましたが、例は見つかりませんでした。
(方言かもしれませんが、火が消えることを「火がとぼる」と言います。「火とぼし頃」に「消す」のニュアンスを感じてしまい、少し混乱するようです…)

(画像の字句)
杜宇啼や撞楼に人のかけ 楚丘
もの恋し火ともし比をちる桜 志ら尾
纜や心もとなき五月雨 楚丘
疑宝珠に緑青うきぬ五月雨 双魚
白梅にうたひの響く障子かな 楚丘
寺町や竹の子賣に雨そほつ ヽ

遅日ゆふつきて燈籠の辻福田
なにかしかもとにやとる
花となかめ桜と詠め日は
くれぬ ひと恋し火とほし
ころをさくらちる

参照:
上田市立博物館『上田藩の人物と文化』(1986)
矢羽勝幸『俳人加舎白雄伝』(2001)
加舎白雄
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/008.html


(今年の花見)
暁に鳥に食われし花もあり
風止みて虫を目で追う花見かな
悠々と君の眠りし花車

2024年4月27日土曜日

大正13年大干ばつ100年 ~もらい水、千駄焚き

富士山村の歴史、ふるさと塩田 村々の歴史 第2集
『富士山村の歴史』『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』

旧富士山村(ふじやまむら)の雨乞いについて、『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988)と『富士山村の歴史』(1998)を読んでみました。

『ふるさと塩田』には、「千駄焚き」は最後の手段で、それより前に「もらい水」の行事をすることが書かれていますが、『富士山村の歴史』によると、大正13年には8月10日に郡下一斉に千駄焚、8月15日から長村吾妻山と平井寺殿上山の御水をもらって雨乞いをした、とのこと。

どちらも60年以上後の記述で、どの部分がどの程度確実なのか、わかりません。一次資料を参照したのか、人から聞いた不確かな推測なのか、例えば「大姥様」も、知られているものとは別の大姥像とか、地蔵や薬師仏とか、実は別の地区の話が紛れ込んだとか、いくらでも疑うことができます……
確かさを確認しながら資料を集める必要がありますが、実際には、例えば、「池に放り込んだことがあるそうです。」という伝聞の内容が「池に放り込んだ。」と断定に変わったり、伝言ゲームのように「池」が「川」に変わったりということが、当たり前のように発生します……
(先行の話が誤りで、変化後が偶々正しいという可能性もあり、つまり、わかりません……
基礎的な調査の不備が、無関心や混乱に繋がる?)


『ふるさと塩田 村々の歴史 第2集』(1988) 28頁
奈良尾(富士山)
(三)雨乞い
(中略)
ところで、最後の手段としての「千駄焚き」を行う前に「もらい水」の行事を行ったりしました。これは雨乞いに効果があると信じられている神社から水種をもらい、それを村人が運び帰って、それを撒く方法です。富士山地区では、戸隠神社や立科神社(「お水」と呼ばれていた)などから、水を運びました。
 また、お地蔵様などを泥の中に漬けたり池の中に放り込み、これを怒らせて雨を降らせる方法なども行われたようです。奈良尾では大姥様を山から下ろし、池に放り込んだことがあるそうです。
 さて、この「千駄焚き」も最近は行われなくなりました。富士嶽の山頂で行われたのは、大正一三年頃の大旱魃の時が最後です。この時は「千駄焚き」の火が周りに移り、山火事になりました。村の男衆は毎日水を背負って、山に登っていったそうです。しかし、暑い時期だったので喉が渇きます。ほんの少しだけと、背負ってきた水を飲んでしまい、火のある所に着いた時には、一滴も残っていなかった等という話もあります。この山火事はおよそ一ヶ月も燃え続けていたそうです。このことがあってから「千駄焚き」は、砂原池や水沢池の土手で行われるようになりました。


『富士山村の歴史』(1998) 380頁
第三節 干害
 降水量が少く水源も近い富士山では、昔から干害を被ることはまぬがれない運命であり、稲作は勿論畑作についても大きな被害を受けた年が多かった。年表に表れているような大被害のあった年も三〇年に一回位はあり、大正、昭和の五〇年位の間にも雨乞いをした年が一〇回以上あった。依田川より用水導入の工事が完成してからは稲作については、ようやく安心できるようになったが、現在進行中の県営の塩田かんぱい事業が完成の暁には畑作についても干害をのがれる事ができるであろう。
 被害の大きかった大正一三年をみると、この年は一月以降雪も雨も少く、五月より八月まで雨らしい雨もなく、畑の被害は勿論作付不能な水田が続出し、ようやく作付したものの枯死または出穂不能な稲が多く、過半は三分作以下で免税となる始末であった。
 八月一〇日には郡下一斉に千駄焚が行われた。富士山では富士嶽山頂へ登って草木を切り倒し積み上げ大変大きな千駄焚が行われた。見事な火景は富士山は勿論遠方からも望まれたと言う。しかし、水の無い山頂のことで、消火が不十分であったため、次の日になっても燃え残りがくすぶり煙を出す始末で、その消火に何日も苦労することとなった。水を入れた樽をかついで登るわけであるが、途中で飲み水に変わったりして頂上に着くころには大分減っていたと言うようなわけで消火もはかどらなかった。八月一五日には雨乞いを決議して、長村吾妻山山家神社及平井寺殿上山の二か所より、御神水を受け一週間にわたり昼夜行う。夜間も数時間に渡り婦人会の応援を受けて祈願したが仲々降雨がなかった。 大正一四年も前年と同じく六月から一〇月まで降水量が少なく、日照時間多く気温も高く、干魃による植付不能、枯死した水田が生じた。昭和一四年には五月から九月にかけて降雨が少なく、水田、畑作物に干害が大きかった。この頃、蓼科の御泉水から神水を受けた。御水を受けたら止ってはいけない(止るとそこに雨が降ってしまう)といわれており、村の若者がリレーで運んだ。昭和一五年は六月から七月にかけて降雨が少なく、山極の水田に植付不能のものが出た。昭和二三年には冬期間に降雨量が少く溜池の貯水量が確保できず、植付不能または植付遅延を来たした。昭和二四年の七月上旬から八月一九日まで四五日間旱天のため担当面積に被害が出た。昭和四一年頃からは富士山地域の八〇パーセントの水田は圃場整備が完了して配水路が完備されたことと、依田川からの揚水路が整備されたことにより水田での干害が極めて少なくなった。しかし畑作物についてはその後も四~五年に一度は干害の被害があり、平成六年には七月上旬から九月下旬までは降雨がなく畑作に大きな被害が出た。

2024年3月26日火曜日

大正13年大干ばつ100年 ~お地蔵様と生きるまち?

絵堂の地蔵尊
絵堂の地蔵(「大正13年の大旱魃に8月8日より15日間〝雨降らせたんまいな南無地蔵大ぼさつ〟昼夜兼行1分の休みもなく村人の叫びが続いた」『五加の歴史』(1982)138頁)

2024年は大正13年(1924)の大旱ばつから100年。
干害はこの年だけではありませんが、言及されることが多く、知名度の高い災害の一つです。
「時報」が多くの村で発行され始めた時期で、当時の人のいろいろな思いを知ることができます。
西塩田時報(大正12 1923~)、中塩田時報(大正13 1924~ ただし、大正13年の現存は4号(題字は第三号? 6月)、9号(11月))

雨乞いの記録を集めて行くと、多くの村で地蔵菩薩に雨を祈っていたことがわかります。
上田市日本遺産のタイトルの元になったという龍の吹き流し幟?も、大正13年の絵堂地蔵の雨乞い祭りのもの?(龍は地蔵菩薩の眷属・配下の扱い? "お地蔵様カンパニー"の雨担当?)
「お地蔵様と生きるまち」だった?

御嶽堂(富士山村の隣り)では、蓼科山の御水を貰い、雨乞い地蔵に雨を祈ったそうです。このお地蔵様は塩田平へも貸し出されたそうで、降雨の実績があれば、引く手あまた になったのかも。

小県郡丸子町御嶽堂区『ふるさと御嶽堂ムラのむかしといま』(平成17 2005) 102頁

(35)雨乞い地蔵
 この地蔵様は、南原公民館の裏山に、ちょっとした小屋掛の中に祭られています。大正十三年(一九二四)は大旱魃に見舞われ、南原でも他部落と同様に「雨乞い」を次のような形で実施したということです。
 旱魃の続く七月、ムラの青年の幾人かが、朝暗いうちに蓼科山へ出向き、水(一説には残雪)を竹筒に詰め、津金寺・箱畳とリレーで運び、お薬師様に供えて雨乞いを祈りました。またムラの若い女性たちは、薬師堂の裏に祭られている雨乞い地蔵を、山寺跡近くの古井戸に運び、畚(モッコ)に乗せて井戸の中へドブンドブンと何回となく投げ込み、雨乞いをしました。その名残りとして地蔵様の顔が欠けています。(中略)
 なお雨乞いは、薬師堂の庭にこのお地蔵様を安置し、鉦《かね》を叩きながら「雨地蔵大菩薩雨降らせてたんまいな」と唱えながら、疲れきるまで回ったといいます。(以下略)

※同書67-68頁にも蓼科山の御水貰いの記録があります。

塩田平ガイドマップ(12) 絵堂の地蔵尊
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34620178