2019年4月25日木曜日

鶏岩の卵(鶏岩と鳥居岩)

鶏岩の卵 鶏石
鶏岩の卵(鶏石) (安曽神社)

安曽神社の幟旗
安曽神社の幟旗の写真

石器の砥石?と思われる石
石器の砥石?と思われる石

安曽神社の鶏石(鶏岩の卵)の案内板の写真です。
(「中」の石の高さ「7寸6分」は他の資料では「7寸5分」、また「鶏岩宇宙に輝く」は他の資料では「鶏岩」ではなく「鶏石」です。)

上田中学校『郷土の伝説』(昭和9 1934)では、岩の名前は「鳥居岩」「雄鶏岩」「雌鶏岩」となっていました。「鳥居岩」から「鶏岩」に変化したとも考えられます。「鳥居岩」の由来は、鳥居に見立てられる岩だったか、または、磐座(いわくら)として祀り、前に鳥居を建てていたのかもしれません。

鶏岩の話は『信州の鎌倉 塩田平の民話』(1993)にもありますが、「鳥居岩」を「鶏岩」に変更した以外は、ほぼ同じ内容・文章です。『小県郡史』(1922)、『小県郡民譚集』(1933)、『信州の鎌倉 塩田 その文化財と史跡』(1967)、『ふるさと塩田 村々の歴史』(1987,1988)にはありませんでした。(吉沢城、大六の欅の話はありました。)もしかしたら、非常に狭い範囲の伝承か、または昭和に入って成立した、比較的新しい話である可能性も。
(『小県郡民譚集』には小山真夫の母(柳沢村出身)が伝えた塩田平の話も掲載されていて、もしも地元でよく知られていた話なら、無いのはやや不自然。)

「鶏石」の名前は明治時代にはあったと思われますが、鶏岩と結び付いていたかは明確ではないです。石の箱には「神寶石」とあります。『郷土の伝説』の古文書からの引用と思われる文には「寶石參顆鷄卵形」とあります。

ちなみに、鶏石2個は(または3個共)元々は陽石だったのかも。境内に男石社があり、陽石が2個(1個は石棒?)祀られています。また、石垣の中に石器の研磨痕?と思われる溝が数本ある石(約50cm×50cm×40cm)があります。(『しおだ町報』紙上講座 昭和38年10月5日より)


上田中学校郷土研究部『郷土の伝説』(昭和9年3月) 54頁より

鳥居岩
 東鹽田村大字古安曾の安曾岡山に鳥居岩といふ岩がある。此の岩は雄鷄岩と雌鷄岩とより成り、その大さは小山程もある。岩上に老松が繁つて居る。
 一、説昔此の雌鷄岩が三つの卵を産んだ。此の卵は普通の鷄卵とは大いにその成分が違ふ。即ち固い石の卵であつた。そして此の三つの卵は現存石神區の鄕社安曾神社の寶石となつて居る。

    寶 石 參 顆 鷄 卵 形

    周    圍        長  サ
   大 二尺           八寸
   中 一尺八寸五分       七寸五分
   小 一尺八寸         六寸五分

 嘗て、神川王長同一といふ人が此の鷄石を讃美して曰く、「大いなる哉安曾の社、鷄石宇宙に輝く。」と。
 二、大永の昔、鳥居岩の西に聳ゆる山上に城があつて、芳澤民部之介光義が城主の頃であつた。
 天下の英雄武田信玄が信濃國に侵入して、この芳澤城を攻めた。蛇にねらはれた蛙同樣、芳澤城は武田の精鋭に壓せられて、今にも落城せんばかりになつた。其の時俄然例の雄鷄岩が雷でも落ちる樣な大きな聲で「コケコツコー」と鳴き叫んだ。これには流石の武田勢も驚き、芳澤城は如何なる恐ろしい城か測り知れぬと言つて、どん/\退却した。しかし芳澤は武田の敵ではなかつた。後武田は武力に訴へず。智將山本勘助に命じて、口術で芳澤民部之介光義を納得させて遂に味方に引入れたといふ事である。
 三、天保年間の事、我が石神の庄屋であつた人が、鳥居岩の周圍の岩が庭石に適するから運ばうとした。大きな岩であるから大勢の人を賴んだ。しかし運ぶには大層重さうであつた。故に谷へ落して綱で引張つて行きませうとて、岩を谷へ落した。一方庄屋の家では、庭石運びに御馳走しようとそばをうでてゐた。その中へ一人息子が轉び込んで死んでしまつた。その時刻は殆んど岩を谷へ落した時刻と同時刻だつたと。それで村民は鳥居岩を運ぶ時は必ず人が死ぬと言つて居る。


同書36頁より

地頭の木
 文治元年乙己の頃東塩田村石神地方に吉澤民部介第綱といふものあり城山の麓に城を築きて之れに居り地方を治む。第綱源賴朝の命をうけ今の鄕社安曾神社を修理し地を大六に相して此處に欅の木を植えたりと其子第廣父の遺業を繼承し大いに保護を加へたるものなり是に關する記録は菅原大左近秘藏せしが延寶中火災に罹りて燒失したりといふ樹下に大六天の神を祀る。

(※『昭和五年 長野県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第拾壹輯』 八木貞助「小縣郡東鹽田村通稱「地頭木」に就て」「七、傳説」とほぼ同文。『小県郡史 余編』では「菅原大左近」は「春日右近正信」)


同書98頁より

片葉葦
 今より凡そ三百年以前、小縣郡本鹽田村古安曾に在る城山の城主古澤民部之助が此の城の裾野の河原にありし葦が邪魔であると言つて刀劔で切つた。其の時以來此の裾野に在る部落古澤(石神區)だけの葦の葉が片方だけしか生じない。

(※本鹽田村は東鹽田村。古澤民部之助、部落古澤は吉澤か? 『小県郡史 余編』では片葉の由来話は無く「芳澤の名盖しこれ(※片葉葭)に因るか」と書いています。)

2019年4月19日金曜日

黄鉄鉱ノジュールの観察

団球黄鉄鉱, 黄鉄鉱ノジュール
団球黄鉄鉱(上田創造館)

団球黄鉄鉱, 黄鉄鉱ノジュール
団球黄鉄鉱(『上田市誌 上田の地質と土壌』46頁より)

団球黄鉄鉱, 黄鉄鉱ノジュール
黄鉄鉱ノジュールの断面

団球黄鉄鉱, 黄鉄鉱ノジュール
黄鉄鉱ノジュールの断面(希塩酸で発泡しない)

団球黄鉄鉱, 黄鉄鉱ノジュール
皮膜状の鉱物がある黄鉄鉱ノジュール(希塩酸で発泡する)
1枚目の写真は上田創造館にある団球黄鉄鉱の標本、2枚目の写真は『上田市誌 自然編 上田の地質と土壌』にある団球黄鉄鉱の写真です。同質のようですが、色や縁の形に少し違いがあるようにも見えます。このタイプにも種類があるのかもしれません。

この黄鉄鉱ノジュールは海成砂泥互層の細粒砂岩またはシルト岩(火山噴出物?)に含まれていて、見た目は石灰質の砂岩ノジュールにも似ていますが、黄鉄鉱が豊富で、希塩酸で発泡しないものが多いようです。
3枚目の写真、黒い角礫のように見えるのは黄鉄鉱。
4枚目の写真は希塩酸をかけた様子で、まったく発泡しませんでした。(白い部分は光の反射)
5枚目の写真は表面に白い皮膜状の鉱物(たぶん方解石)があるもので、これは希塩酸で発泡しました。

この黄鉄鉱ノジュールの表面(上下)や黄鉄鉱・白鉄鉱化した植物化石の表面(上下)に、例のイシクラゲに似た黄鉄鉱・白鉄鉱の塊(オンバガネ・オンバンガネ)が出来ていることがあります。(泥層で単独に出来ていることもあります。)
それで、まとめて団球黄鉄鉱とか黄鉄鉱ノジュールとか呼ばれているのかもしれませんが、いくつかに分類できそうな気もします。

2019年4月11日木曜日

穴あき石(石笛、天磐笛)

穴あき石、天磐笛(あまのいわぶえ)?
穴あき石、天磐笛(あまのいわぶえ)?
石ころ観察で見かけた穴あき石です。石笛、磐笛、天磐笛(あまのいわぶえ)。陰陽石とされることも。

明治11年、明治天皇北陸巡幸の記録に天磐笛の話がありました。供奉員(ぐぶいん)が吹いても音が出なかったそうで、記事に櫻井宮内省書記官(桜井純造)、森田斐雄(あやお)の名前もありますが、彼らも吹いてみたのでしょうか。
改元の記念にどなたか演奏してみては……

『御巡幸参拾年 記念号』(1867)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/2000515100/2000515100100020/mh021200
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht012100

上田行在行(所?)陳列品中二寸五分許にて中央に穴の通ぜる天然石有り、天磐笛と名け、戸隱山にて拾ひたる物なりと、供奉員等取りて吹きけるに、笛の音を發せず、其持主なる塩尻村原昌言なる者は、巧に之れを吹く由畏くも叡聞に達しければ、下戸倉の行在所に召させ給ふ、昌言光榮身に餘り、 玉座の御次にて吹奏し奉るに、河鹿の音に似たりと仰られければ之れより此笛を河鹿と改稱せり。
(中略)
(同駅行在所にて磐笛を天聴に供したるため小縣郡塩尻村原昌言へ御手当五円)


上野尚志(うえの たかもと 1811-1884)『信濃国小県郡年表』(明治17年)の諏訪部の鳴石の記事に「因記 上塩尻村原氏所藏石笛/南條村山崎氏明治年間千曲川にて拾ひ得たる石(黑色白点)」(活字本187頁)とあります。拾った場所が異なるので別の石でしょうか。(または石笛2個の記述?)

2019年4月6日土曜日

江戸時代の武石(ブセキ)

武石(たけいし)  『信濃国大絵図』(天保6 1835)より
武石(たけいし) ( 『信濃国大絵図』(天保6 1835)より)

武石(たけし)村の武石(ブセキ)は江戸時代から広く知られていました。
現在は上田市の天然記念物に指定されています。
(なので「緑簾石の焼餅石」(上田市天然記念物)と同じく、武石地域での採集は控えるようにしています。)

もしも当時、県の石を選んだら、鉱物はブセキだったのかも。(和田峠のざくろ石の江戸時代の記録はあまり残っていません。)
ブセキと呼び始めた時期についてはまだよくわかりません。

・木内石亭(1725-1808)『雲根志 三編』(享和1 1801)や木村蒹葭堂(1736-1802)の『貝石標本』では自然銅(じねんどう)と呼んでいます。(他には「箱石」など)
・1797年(推定)に越後高田藩 鈴木一保(甘井、穂積保)(1744-1812)が信州上田の成沢雲帯(1739-1824)に送った手紙に「武石」の名前がありました。読みは不明。(矢羽勝幸著『書簡による近世後期俳諧の研究』(1997))
鈴木甘井、成沢雲帯は木内石亭と交流があり、鈴木甘井は『神代石之図』の跋文を書いています。
・小野蘭山(1729-1810)口述『本草綱目啓蒙』(享和3 1803)の「自然銅」に「信州武石村ノ武石峠ニアリ方言ヲドメイシ又ブセキトモ云フ」とあります。
・市岡智寛筆『若様江呈上覚』(文化5 1808)に「一 同(※前行に「信州」)武石  武石 五」とあります。読みは不明。
・『信濃国大絵図』(天保6 1835)の「名産之部」に「武石(たけいし)」があります。石と思われるのはこれだけで、他は、蕎麦、上田縞、岩茸など。(上の画像)

『雲根志』等により「武石村の自然銅(じねんどう)」が知られるようになり、村名の「武石」が石の名前と誤解されて「ぶせき」「たけいし」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「武石」の読み方は固定的ではなく、時々で「たけいし」とも「ぶせき」とも言っていた可能性も。
地名と石名の漢字表記が同じで、読みが異なるという、ややこしい名付けを地元の人達が好んで行ったとは考えにくく、地名として意識する必要が無い他地域の弄石家が「武石」「ブセキ」と呼び始めたのではないでしょうか。

鉱物学が広まると、「十二面体が武石(ブセキ)で六面体が桝石(ますいし)」等の新たな定義を言い出す人もいて、それらを地方での呼び名と混同する人もいたようです。たぶん多くの理科の先生は民俗を重視しないので、この手の話は、きちんと根拠が示されているもの以外は真に受けない方が良いと思います…

2019年4月4日木曜日

川原で石ころ観察

川原の石ころ
川原の石ころ

石ころ観察のテーマは、いろいろありますが、例えば次の2つ。
・川原でよく見る石ころは、どんな石で、どこから来たのか?
・珍しい石ころ(鉱物、化石、色、模様、形)はどのようにできたのか?

簡単には答えが得られないことが多く、楽しむにはコツのようなものも必要かも。
目標を高く設定せず、答えがわからないことを気にしないこと。楽しむことを後回しにしないこと。気になる石を眺めるだけでも良いし、謎解きが面白いならそれをしても良い。活動を長く続けることを目標・基準にすることが大切ではないかと。

写真の上段3つの石は左から、凝灰岩かシルト岩のホルンフェルス?、緑色凝灰岩の一種?、流紋岩(石英粗面岩)。中段の3つの石は左から、黒色ガラス質のデイサイトか流紋岩、輝石ひん岩?、角閃石ひん岩(半過岩鼻のひん岩と同種?)。下段2つの石は、青っぽい輝石安山岩?、多孔質黒色の安山岩?
白く滑らかで僅かに青かったり赤かったりする石が好きみたいで、よく拾って眺めてしまいます。