2019年5月7日火曜日

吉沢民部について

信濃国小県郡年表より 吉沢民部
『信濃国小県郡年表』(明治17)原稿より

鳥居岩・鶏岩の話に出てくる吉沢氏の名前の変化を本等で調べてみました。
(吉沢、吉澤、芳沢、芳澤は吉澤にまとめ、民部之介、民部介は民部之介にまとめました。)

吉澤民部(古安曽村誌(明治14)、小県郡史(大正11)326,356)
吉澤民部之介光義(小県郡史余編(大正12)485)
同 光綱(村々の歴史 一(昭和62)98、安曽神社現地案内板)
同 第綱(昭和五年 史蹟名勝天然紀念物調査報告 第拾壹輯 小縣郡東鹽田村通稱「地頭木」に就て)
同 義綱(上田小県誌自然編(昭和38)660、村々の歴史 一(昭和62)99、大六のけやき現地案内板)

(子)
義広(上田小県誌自然編(昭和38)660、村々の歴史 一(昭和62)99)
第廣(昭和五年 史蹟名勝天然紀念物調査報告 第拾壹輯 小縣郡東鹽田村通稱「地頭木」に就て)


光義、光綱、第綱、義綱、義広、第廣の各出所は不明です。
光、義、第の略字・崩し字は似ることがあるので誤写がある可能性も。

『小県郡史』(356頁)には、吉澤城について「里傳に弘長年間吉澤民部之に居ると 村誌 又北條陸奥守の子鹽田民部大夫俊時據るとも傳ふ 鹽田古老談」とありました。吉沢民部は元は北条俊時(太平記巻第十「民部大輔俊時」)のことだった可能性も。例えば、館が吉沢にあって「吉沢民部」と呼ばれた時期があったとか。

『信濃国小県郡年表』にも「吉沢民部」がありましたが、永禄11年(10年?)で、吉沢城との関係は不明。出典も未確認です。
上の写真(活字本では53頁)
永禄十一年 海野ヘ出張軍議防戦スヘキ達書ニ渡辺隼人正吉沢民部小山玄蕃佐藤兵庫助宮坂和泉守井出対馬守アリ

同書144頁より
田中 小田中佐太夫(慶長  元和三左平次判物を領)仝左太夫(延宝)
 其家永禄十年八月小田中與七郎直久起請文写ありと云。同年十月小田中若狹守、小宮山丹後守より吉沢民部、渡部隼人、小山玄蕃、佐藤兵庫助、宮坂和泉守、井出対馬守への達書、工藤美作藏此小田中にや

『信濃国小県郡年表』(活字本32頁)には、塩田北条家が福沢、吉沢、工藤、宮沢、幸田の五氏となったという話もあります。関連資料等は不明。前山寺古記?

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