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ホルンフェルス 青木産(左) 松代産(右) |
青木村(左側)と松代(右側)の点紋ホルンフェルス(spotted hornfels)です。呼称は他にも点紋スレートとかいろいろ。ホルンフェルスという岩石名は言いにくく憶えにくいですが、ブラタモリのおかげか、多少は受け入れられやすくなったのかも。
松代のモノトーンのドット柄の石は村雨石(むらさめいし)と呼ばれて有名です。黒色泥岩・黒色頁岩が接触変質したもの。この他にもいろいろなタイプのホルンフェルスがたぶんあると思いますが、詳しくは知りません。
青木村や上田市のホルンフェルスにもいろいろなタイプがありますが(松代の村雨石によく似たものとかも)、これは川原の石ころ観察でよく見かけるもので、松代の村雨石と比べると、基質は青灰色や緑色、やや粗粒で、元の石はシルト岩かもしれません。
上田市誌等で、このタイプのホルンフェルスも村雨石と呼んでいるのですが(『上田市誌 自然編1 上田の地質と土壌』116頁)、見た目が同じとは言い難いのと、(松代も含めて)各地でいつ頃からあった名前なのか、資料が不明で、真偽是非の判断の仕様がないという感じ…
ウェブで村雨石について検索すると、真田幸貫(ゆきつら 之貫? 1791-1852)と佐久間象山(1811-1864)の話が見つかりました。
真田宝物館に、関連する「茶碗 外 書翰2点」がありました。書翰の具体的な内容はウェブでは見つからず。
http://jmapps.ne.jp/sndhmt/det.html?data_id=2654
資料解説 松代豊栄の赤柴産の村雨石を8代藩主・真田幸貫が徳川斉昭におくり、関白鷹司正通を経て孝明天皇に献上された。その返礼として斉昭を通じて幸貫に下賜された茶碗。
佐久間象山が幼少期に硯石を拾ったという話は『象山全集』(大正2 1913, 増訂 昭和9-10 1934-1935)の年譜(文政2年)にある「天石硯銘幷序」が出典と思われますが、それには村雨石の名前は無く、斑紋の描写もありません。むしろ村雨石ではなかった可能性の方が高いように思いました。(では、村雨石の話はどこから?)
『象山全集上巻』(1913 大正2)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949396
佐久間象山年譜
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949396/54
天石硯銘幷序
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949396/384
『増訂 象山全集 巻1』(昭和9-10 1934-1935)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1038089/
象山先生年譜
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1038089/27
文政二己卯年(二四七九)
〇八九歳の時戸外に遊び天然石の硯を拾得す父一學以て他年大名を成すの祥となす(天石硯銘幷序)
天石硯銘幷序
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1038089/264
天石硯銘幷序
余年八九歳時。與鄰童嬉戲。拾得片石。色黑質潤。面有一池。側圓不假斧鑿。左
淺右深。深者可以貯水。淺者可以磨墨。先君觀之曰。昔東坡幼時與羣兒鑿地
爲戲。得異石。有貯水處。善發墨。老泉曰。是天硯也。有硯之德而不足于形耳。可
謂文字之祥矣。因手刻其匣以授東坡。後果爲大儒。今兒所得頗似之。毋乃亦
文字之祥乎。乃手製其槽以賜。余寶而藏之。余之才質固無以望於東坡。然年
長學進。稍稍以文字見稱於人。至于所作賦。有辱瀆天覽者。天下聞之莫不爲
榮。則先君之言亦驗矣。今爲之銘。以付兒恪。恪也其祗保之。銘曰。
樸而剛。重而靜。澤而光。以此進道。所以考其祥。
東坡元豐二年得罪下獄。家屬流離。書籍散亂。明年至廣州。求硯不復得。以
爲失之。後四年。舟行至當塗。發書笥忽復見之。喜付迢邁二子。余以嘉永七
年四月。坐事下江都獄。九月。送鄕里禁錮。書帙器用多所散失。此硯不復見。
後數年。偶得之於雜具匣中。以付恪兒。其顯晦之蹟。亦有甚似東坡之硯。可
謂奇矣。因附記之。
※書き下し文。不勉強のため、誤りがあると思います。
余、年八、九歳の時、隣童と嬉戯し、片石(へげいし)を拾い得たり。色黒く、質(きめ)潤あり。面(おもて)に一池あり。側圓(※楕円)斧鑿(ふさく)を仮りず。左浅く右深し。深きは以て水を貯むべく、浅きは以て墨を磨るべし。先君之を観て曰く、昔、東坡、幼時に群児と与(とも)に地を鑿(うが)ち戯れを為し、異石を得たり。水を貯むる処有り。善く墨を発す。老泉曰く、是(これ)天硯(てんけん)なり。硯の徳有りて、形足らざるのみ。文字の祥と謂うべし。因て其の匣(はこ)を手刻し以て東坡に授く。後、果たして大儒と為す。今、児の得る所、頗(すこぶ)る之に似たり。乃(すなわ)ち亦(また)文字の祥 毋(なか)らんや。乃ち其の槽を手製し以て賜う。余、宝にして之を蔵(おさ)む。余の才質、固(もと)より以て東坡を望むこと無し。然(しか)るに年長し学進みて稍稍(やややや)文字を以て人に称(たた)えらる。賦を作す所に至り、天覧を瀆(けが)し辱(はずか)しむる者有り。天下之を聞き、栄と為さざるなし。則(すなわ)ち先君の言(げん)亦 験(しるし)なり。今この銘を為し以て兒恪と付す。恪や其の祗(つつし)み之を保つ。銘に曰く、樸(ぼく)にして剛、重にして静、澤にして光る。此(これ)を以て道を進む。以て其の祥を考ずる所なり。
東坡、元豊二年、罪を得て獄に下る。家属流離して書籍散乱す。明年、広州に至り、硯を求むるに復び得ず。以て之を失えりと為す。後四年、舟行して当塗に至り、書笥(しょし)を発(ひら)き忽(たちま)ち復び之を見る。喜び迢(※迨?)邁二子に付す。余、嘉永七年四月を以て、事に坐して江都の獄に下る。九月、郷里へ送り禁錮す。書帙(しょちつ)器用散失する所多し。此(この)硯復た見ず。後数年、偶(たまたま)之を雑具匣中に得る。以て恪兒と付す。其の顕晦(けんかい)の蹟、亦 甚(はなは)だ東坡の硯に似る有り。奇と謂うべし。因て之を附記す。
(意地悪く大げさに言えば、出所を示さず、確認を助けないのは、子供達に思考停止を強いることでもあると思います。メディアや学校等、多くの場面でそうなっている理由はあるはずですが、それに慣れてしまっていないか、繰り返し気にかけても良いのではないかと。優秀・適格としても、思考停止の毒を甘く見てはいけないはず…)