2019年9月29日日曜日

舌喰池の伝説

舌喰池(手塚池と表記)
舌喰池(手塚池) 明治時代の絵地図より

舌喰池(舌食池 したくいいけ)の名前は、「手塚池」の縦書き・毛筆の字の読み替えから符丁ができ、次第に広まったものではないかと考えていますが、似ているという以外に特に裏付けはありません。(洒落から人柱伝説に成長して行く「舌喰池伝説」の物語も、いつかできたら、面白いかも。昔の人は言葉遊びが大好きで、それも心の豊かさの一つではないでしょうか…)

※追記:心霊スポットとして紹介されることが増えているようですが(人柱伝説を盛んに宣伝しているので当然ですが)、農業用水源なので生産物の風評被害に繋がる可能性もあることにご注意を……

今の舌喰池の人柱伝説は『信州の鎌倉 塩田平の民話』(平成5 1993)のものが主流のようです。
この伝説を収録した本は意外に少ない感じ。
(今わかっている最初の記録は大正時代で、犠牲者が「娘」になったのは昭和50年頃のこと。)

大正時代の手塚村誌(『大正拾壹念參月 村誌編纂資料 西塩田村大字手塚』)(大正11 1922)
 古来傳なる所に仍れば、始めて大池築堤の時、当時の迷信にて抽籤を以て人柱を埋むる事となり、其の選に当れる人は自ら舌を噛み切りて其の犠牲となると依って舌喰池と傳ふ。
(※記事末に同書について追記しました。)

小山真夫『小県郡民譚集』(昭和8 1933)
『しおだ町報 昭和32年6月』(1957)「土堤(どて)を守つた人柱 舌喰池物語 =かなし夫婦地蔵=」
浅川欽一『信州の伝説』(昭和45 1970)
『上田小県誌 第5巻 補遺 資料篇1』(昭和48 1973)
上田女子短期大学編『上田盆地の民話』(昭和50 1975)(改訂版 昭和52 1977)
上田市塩田地区学校職員会・上田市塩田文化財研究所編『信州の鎌倉 塩田平とその周辺』(昭和61 1986) 107頁
上田市塩田文化財研究所編『信州の鎌倉 塩田平の民話』(平成5 1993)

ため池の昔話 舌喰池の民話(『信州の鎌倉 塩田平の民話』(平成5 1993)の要約)
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php

比較の表を作ってみました。(浅川欽一『信州の伝説』と『上田小県誌』は『小県郡民譚集』とほぼ同じなので省略しました。)

書名小県郡民譚集しおだ町報上田盆地の民話塩田平とその周辺塩田平の民話
昭和8(1933)昭和32.6(1957)昭和50(1975)昭和61(1986)平成5(1993)
工事改修元和八年 大改修新築改修大改修
人柱の理由数(あまた)土堤が崩れて水をたたえることが出来なかった。土堤から水がもおり水が溜らないので改修することになったが、土堤の中心へ人柱を入れなけば水が溜らないとの話が城主様の役人の方から誰れいうともなくおこった。庄屋が、堤がくずれるのは、たたりのためで、人柱を立てないといくらきずいてもくずれると言った。(話の出所は不明)何度池を造ってもすぐに土手がくずれてしまって、水をためることができなかった。土手から水が漏れて十分に水をためることができず改修することになったが、土手に人柱を入れないと水がたまらないという話がどことなく伝わってきた。領主から命令があった。
選び方「籤をひいて当った者を人柱として埋めよう」ということになった。たて縞のじばん(仕事着)に横のつぎのしたじばんを着たものを選べと城主から命じられた。くじ引き(村人の中から?)くじ引き(娘の中から?)くじ引き
選ばれた人籤に当った人(村人か?)新婚の男(手塚村または野倉村か?)年とったお父さんとお母さんと暮らす、心のやさしい娘娘さん村はずれに一人で住んでいる美しい娘さん
人柱自ら舌を噛みきって其犠牲になって埋められた。妻の舌を喰い切り、自分も舌を喰い切って、どての中心にうめられた。くじに当った夜に舌をかみきって死んだ。堤の下にうめられ、その上にまた堤がきずかれた。自ら舌をかみきって埋められた。前の晩に身の不運を嘆いて舌を食い切り、池に身を投げた。
慰霊夫婦地蔵をたてた。(野倉の夫婦地蔵を参照)村人は手を合わせた。娘さんにお詫びをしながら水をつかわせて貰っている。

『小県郡民譚集』(昭和8 1933)では単に「人柱に当った人」で、男性が想定されていた可能性が高いと思いますが、『上田盆地の民話』(昭和50 1975)以降は「娘」になっています。
『信州の鎌倉 塩田平の民話』(平成5 1993)では、さらに「村はずれ」「一人で住んでいる」「美しい」という属性が追加され、死因にも「池に身をなげて」が追加されています。また、それまでの「自ら犠牲になる」から「不運を嘆いて」に自死のニュアンスが変化しています。(死因の追加の背景には、舌をかみ切っても直ちに死ぬわけではないという医学的な知識があったのかも。身をなげるのは、工事中は普通は水を抜くので(他の池に身をなげたとしても)不自然ですが、娘の死からの連想としては自然なのかもしれません。)

「お詫びをしながら」の話も平成以降で、実際に伝承や儀礼が存在したのか不明…

舌をかみ切るという死に方は、首つり死体が舌を出していることが多く、そのイメージが起源ではないかとも言われます。
保元物語に、藤原頼長が首に矢を受け、瀕死の逃亡中に、舌の先を噛み切って吐き出したという話がありました。怨み憎しみの表現でしょうか。

『保元物語 巻之二』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544521/22
左府御最後 并 大相國御歎事
俊成歸叅テ此由申ケレハ左府打ウナツカセ給ヒテ軈テ御氣色替ラセ給カ御舌ノサキヲ嚼切テ吐出サセ御座ケリ


『しおだ町報 昭和32年6月』(1957)の記事は、他と異なる部分が多いです。ただ、人柱の話が村の外から空気のように来る点は『信州の鎌倉 塩田平の民話』(平成5 1993)に引き継がれています。(『小県郡民譚集』『上田盆地の民話』では人柱の話は村の中から出ています。)

ちなみに、大正から昭和にかけて、男女で舌をかみ切って心中しようとした事件があり、新聞で報じられたそうです。どの程度知られていたか不明ですが。

「たて縞のじばん(仕事着)に横のつぎのしたじばん」という条件は、同様のものが古くからあるようです。浅葱の袴に白布のツギ当て(神道集 巻七 三十九 橋姫明神事)、継したる袴着(摂陽群談 巻第八 野ノ部 雉子畷)等。

岡田徯志『摂陽群談』(元禄14 1701)
大正5年(1916)の活字本
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952762/72

高木敏雄『日本伝説集』(大正2 1913)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945424/122

南方熊楠「人柱の話」(大正14 1925)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981768/133/55
https://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/43634_47041.html

記事の最後に「(野倉の夫婦地蔵を参照)」とあるのですが、夫婦地蔵についての記述・情報は見つけられませんでした。もしも野倉の夫婦道祖神のことだとしたら、池との関係は聞かないので、不快に感じる人もいたかも…


『上田盆地の民話』(昭和50 1975)で、堤の「下」に埋めたのは、池の堤(土手)には良質の粘土を使う必要があり、堤の中に異物を入れては強度が下がるという考えがあったのかもしれません。

解説文に、伝説が作られた理由と、名称の由来の別の説についての記述がありました。
『上田盆地の民話』改訂版(1977) 88頁より引用
池を築造するに当り、多くの人々が動員され、殉死する人も多かったので、この様な話がつくられたものと思われる。
また、塩田地方では、土手の崩れることを、「くいる」という。そこで、土手を築くたびに下が崩れてしまったところから、「したくいる」→「したくい」池と云われるようになったという説もある。


ただし、死傷者や土手の下が崩れた記録を探してみたのですが、見つからず、具体的な資料に基く話かどうか不明です。(殉死については、沢山池築造(昭和9年~11年)での事故・殉職碑の印象が混じっている可能性もあるかも。)

『上田市誌 民俗編 昔語りや伝説と方言』(平成15 2003) の方言に「クイタ 崩れた。「あそこの 土手 クイテナー」(手塚)」(163頁)という記述がありました。これを採取した方は舌喰池の名前の由来話を意識していた可能性もあり、他の方言集では見たことがないので、もしかしたら「名前の由来話が由来」の方言という可能性も。(由来が原因ではなく結果であることが普通にある分野なので。)

『手塚誌』(2013) 424頁に「昭和40年代に施工された圃場整備工事の際、舌喰池近接の水田から掘り出された墓石」の写真がありますが、元号が右から安永、万延、不明、文政で、幕末以降に放棄・埋没したと考えられ、人柱伝説との関係は疑問。
付近の圃場整備は昭和57~61年で、発見はその頃でしょうか?(『手塚誌』174頁)
「すべて女性」とありますが、左端は「~童子」なので男性では?
変わった文字や略字?があるものは、もしかしたら差別戒名でしょうか?(違うかもしれません)

明治の絵地図と以前の関連の記事です。
手塚村全図(明治14 1881)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080780
舌喰池の謎、消えた手塚池
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/30754957
塩田平ガイドマップ(18) 空池
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34872163

※地名辞典で「くい」を「はみ」と誤表記しているものがあるようです。膨大な数のチェックは困難なので、辞書類を鵜呑みにするのは危険。


『大正拾壹念參月 村誌編纂資料 西塩田村大字手塚』(大正11 1922) の舌喰池伝説について
内容は簡潔で『小県郡民譚集』に近い。
相違点
 工事:「始めて大池築堤の時」
 人柱の理由:(堤が崩れた話は無く)「当時の迷信にて」
※『小県郡民譚集』(昭和8 1933)との先後の関係は不明。村誌は小山真夫の記事や原稿を取り入れた可能性もあるので。

以下『手塚誌』(平成25 2013) 341頁より引用。(ただし、加筆編集されて原書通りでない部分があるかもしれません。)

沼池
大池(古名舌喰池)
 当部落戌の方にあり、東西百九拾間、南北百五拾四間参尺、周囲拾町参間、池敷九町七反八畝拾五歩、当部落を基とし、十人・舞田・本郷・中野・野倉(新町は当部落を(※と?)同一行政区内に付其の名を表はさず)、土樋五つを設けて、水を通じ灌漑に供す。新築年月不詳なるも、相当に旧き歴年を有するものと推考せらる。
 元和八年(一六二二)御免租に仍れば、廿三貫文と外に七百五十文との免租を得居れり。降って元禄五年(一六九二)及び正徳三年(一七一三)改修す。元禄改修のとき、官費人夫二万千人、釘二百七十本、…カスガイ百三十本、拝借金五十九両、組合村買上地貫高拾五貫九百八文、切起壱反一畝廿一歩、人夫八千百六人、大工百参拾七人、薪四拾八駄、金参拾壱両四百参拾七文、七ヶ村の費用なり。
 正徳改修のときは、官費人夫弐千五百十人、買上地貫高四貫二百拾参文、切起九畝廿四歩、七ヶ村費用参拾四両弐貫七百一文なり。
 古来傳なる所に仍れば、始めて大池築堤の時、当時の迷信にて抽籤を以て人柱を埋むる事となり、其の選に当れる人は自ら舌を噛み切りて其の犠牲となると依って舌喰池と傳ふ。
 水利関係村は最初前記七ヶ村なりしも年上(※上年?)本郷は其の権利を舞田に賣渡し、現在の水利関係は、十人・新町・舞田・手塚・中野の五ヶ村なり、野倉村分は、手塚地籍なるが故に村としての権利は自然消滅す。
 現今の水利権歩合は左の如し
  手塚五分  新町一分五厘
  十人弐分  中野  五厘
  舞田壱分
 一之土樋中桟以下は他部落へ分水せず、但し新町へは二昼夜だけ特に送水する慣行なり。

2019年9月22日日曜日

上小湖成層 研究史の不整合

上小湖成層の泥岩~細粒砂岩
上小湖成層の細粒砂岩~泥岩

上田市誌 新期上小湖成層の柱状図
『上田の地質と土壌』98頁「図34 新期上小湖成層の柱状図」 黄色が軽石層

写真は工事現場で見た湖成層のシルト~細粒砂岩で、青色と褐色の境界部分です。青い方が下側でしょうか。他に礫層や泥炭層等があります。

湖成層の資料をいくつか見たのですが、それぞれ違いがあり、資料間の繋がり等、わからない部分がありました。特に上田市誌は論文集ではないので教科書風に結論だけ書かれていることが多く、前提となる情報・資料が不足しているように思いました。(市誌の資料編も内容は限定的。そのためか、独自な話が多くあっても、その後の地学系の論文・地質図等への影響はほとんど見られず、宙に浮いた感じ…)

『上田小県誌 第4巻 自然篇』(1963)

飯島南海夫・山辺邦彦・甲田三男・石和一夫・小宮山孝一 「千曲川上流地方の第四紀地質(その3) ―とくに上小湖成層について―」『地球科学 23巻2号』(1969)
https://doi.org/10.15080/agcjchikyukagaku.23.2_63

5万分の1地質図幅 坂城 (1980)
https://www.gsj.jp/Map/JP/geology4-8.html

『上田市誌 自然編 上田の地質と土壌』(2002)

新版長野県地質図ver.1 (2010) 坂城 上田
https://www.pref.nagano.lg.jp/kanken/chosa/kenkyu/chishitsu/chishitsuzu.html

20万分1 日本シームレス地質図
https://gbank.gsj.jp/seamless/

渡邊和輝・大塚勉「長野県上田盆地における第四紀の構造運動」『信州大学環境科学論文集 第41号』(2019.3)
http://www.shinshu-u.ac.jp/group/env-sci/Vol41/V41_2019.htm


「千曲川上流地方の第四紀地質(その3)」(1969)では上小湖成層(古期・新期)を以下のように定義しています。

古期上小湖成層
中新統または鮮新統を不整合におおい,上限は新期上小湖成層に不整合におおわれる.主として礫岩層・泥岩層・砂岩層からなり,これに数層の泥炭層と1層の前山寺浮石層をはさむ地層である.
関東ロームの多摩期初期に対比。

新期上小湖成層
古期上小湖成層を不整合におおい,最上部は新期ローム層へ整合に移化する.東部では主として礫岩層,南部では泥岩層にとみ,これに砂岩層・泥炭層をさはむ.
上限付近の泥炭層中の木片の14C年数は 28,400±1,800y.B.P. 下末吉ローム期~武蔵野期初期に対比。(※年代測定については以下の資料がありました。)
『上田小県誌 第4巻 自然篇』(1963) 252頁
塩川グループ・飯島南海夫「塩田層の絶対年代 -日本の第四紀層の14C年代 XVI-」『地球科学 1964巻75号』(1964)
https://doi.org/10.15080/agcjchikyukagaku.1964.75_46

『上田市誌 自然編 上田の地質と土壌』(2002)では、古期上小湖成層、新期上小湖成層、上田原湖成層の3つがあり、「千曲川上流地方の第四紀地質(その3)」(1969)と同じ呼称も使っていますが、定義や分け方はかなり違っているようでした。要約してみました。

古期上小湖成層
第三紀層を不整合に覆い、盆地周辺に分布。白色の泥岩層(白色粘土層)をはさむ。礫はほとんど第三紀層(内村層、別所層、青木層、小川層等)に含まれるもの。

新期上小湖成層
古期上小湖成層より低い場所に分布。石英安山岩質の平井寺軽石層(鷲場火山由来)をはさむ。(この軽石層は古期上小湖成層と上田原湖成層には無い。)
炭化木の年代測定結果は、薬師橋「>39,900 B.P」、八木沢「51,840±2,050 B.P」、室賀「56,020±3,140 B.P」(『上田市誌 自然編 資料』(2002) 1頁)、室賀61,000年前(上田市誌 97頁)

上田原湖成層
火山性の堆積物を主とした湖成層で、輝石安山岩質の火山灰層・火山砂層・礫岩層・黄褐色の泥岩層などからできている。千曲川沿いに分布し、塩田平には広がらない。
炭化木の年代測定結果は、小牧橋下流千曲川左岸で「>50,000 B.P」(『上田市誌 自然編 資料』(2002) 1頁)、小牧橋地下で28,000年前。(※以下の報告による)
宮坂晃・小諸団体研究グループ「長野県上田市に見出された第四紀湖成層」(1984)
https://doi.org/10.14863/geosocabst.1984.0_81

上田市誌で新期上小湖成層の鍵層としている平井寺軽石層は、「千曲川上流地方の第四紀地質(その3)」(1969)で古期上小湖成層の鍵層としていた前山寺浮石層と重なるもののようです。つまり、元の古期上小湖成層(1969)の、少なくとも一部は新期上小湖成層に含める変更がされているようです。
(上田市誌には前山寺浮石層についての記述が無く、詳細はわかりません。
「千曲川上流地方の第四紀地質(その3)」(1969)には「平井寺では(中略)前山寺浮石層は余りで,南部地域では最も厚い」とあります。(※「第3図 上小湖成層の柱状図」から推測すると「余り」は「3m余り」の脱字か)
『上田市誌 自然編 上田の地質と土壌』(2002)には「平井寺トンネルに通じる道路の小屋久保橋付近の崖で(中略)下から3mの礫岩層,厚さ約5mの軽石層が観察できます。この軽石層が,平井寺軽石層と呼ばれているものです。新期上小湖成層の露頭の中で最も厚く軽石が堆積しているのが,この平井寺です。」(97頁)とあります。ただし「図34 新期上小湖成層の柱状図」(98頁)の平井寺の図には下から3mの礫岩層も約5mの軽石層もありません。この図の軽石層は約3mで、「千曲川上流地方の第四紀地質(その3)」(1969)の平井寺の柱状図に似ています。異なる露頭かまたは誤りか。
平井寺の露頭は盆地周辺にあり、標高は約550mで、手塚の古期上小湖成層(約540m)とほぼ同じ高さであり、その場所で、新期上小湖成層の鍵層だとしている軽石層が最も厚いというのも、不思議に感じられます。)


「長野県上田盆地における第四紀の構造運動」(2019)では、上小湖成層I(l1)と上小湖成層II(l2)に分けています。(「図2-地質図」のl1とl2の数字は年代区分ではなく単なる連番?)
「湖成層Iは上田盆地内に残存する段丘面に分布する.中~細礫サイズの亜円~円礫からなる礫層,中粒~細粒の灰色砂層および灰色泥層から構成される.礫種は周囲の地質に強く影響を受け,(中略)
湖成層IIは上田盆地内の低位地形面に分布する.中~細礫サイズの亜円~円礫からなる礫層,中粒~細粒の灰色砂層および灰色泥層から構成される.礫種は周囲の地質に強く影響を受け,(中略)
湖成層Iが分布する上田市薬師橋付近で産出した炭化木から39Ka,湖成層IIが分布する上田市小牧橋付近で産出した炭化木から28Kaの14C年代値が得られており(上田市誌編さん委員会, 2002),後期更新世であると推測される.」としています。
ただし、薬師橋(別所線寺下駅南西約200mの産川の橋)は「図2-地質図」では湖成層II(l2)の範囲であり、「図-5 模式露頭と地質構造のロカリティーマップ」でも実際とは異なる場所に表記があります。もしかして平井寺の小屋久保橋と取り違えている?(湖成層とは関係ないですが、断層5の大部分は(Loc.17 Loc.18も)古安曽地区ではなく富士山地区です。)

ちなみに、小牧山の地質については以下の資料もありました。
竹内秀行「上田市小牧山周辺地域の層位学的研究とその教材化」(2014)
http://www.nagano-kyoko.jp/r_grant_repo_2013p.htm
http://www.nagano-kyoko.jp/r_grant_repo/2014p_takeuchi.pdf

前提となる情報・資料を公開・共有・積み重ねて行くことが大切ですが、郷土研究では、概要ばかりで詳細資料が作成されなかったり、どこに何があるのかわからず、先人の成果が引き継がれなかったり、ということが多いのも実情でしょうか。概要だけでは後の人には何とも評価のしようがありません…

先日も、ある場所の化石について、もう少し詳しい資料がないでしょうかと言っていたら、説明会のレジュメとプレゼンテーションを印刷したものを頂くことができましたが、その基データを整理したものはまだ無いとのことでした。限られた時間の中では、概要だけ書いて、素材は箱に入れたまま、ということが多いのかもしれません。

引用文献、参考文献の中には、充分に検証されず放置されてきた内容も多くあるのが実情ではないでしょうか。それらを前提とした考察は、根拠のない思い込みを前提にした考察と同様に、不確実なものになるのではないかと…

2019年9月1日日曜日

自由研究の作品展示

セミの抜け殻を調べた作品から作ったグラフ
セミの抜け殻を調べた作品から作ったグラフ

今年も上小児童生徒科学作品展を見てきました。193点中、地質関係は、身近な岩石や土について調べた作品(3)、鉱物や化石を集めた作品(5)、火山について調べた作品(1)、結晶関係(4)。

身近な動物の研究(鳥、魚、昆虫、カタツムリ、田んぼの微生物等)、市販の鶉の卵の孵化、木炭作り、気温や水温の調査、水質調査、引き抜いた雑草の耐久力(枯れにくさ)を調べた作品等々。

上のグラフはセミの抜け殻の数と高さを樹種毎に調べた作品のデータを使ったもので、偶々かもしれませんが、個数と平均の高さが比例するように見えました。大きな木の下には多くの幼虫がいて高く上るものが多いということなのかもしれませんが。

パンダが可愛く見える理由について調べた作品も興味深かったです。
Q8:ジャイアントパンダはどうして可愛いらしく見えるの?
https://www.ueno-panda.jp/dictionary/answer08.html

ヨーグルトのふたの比較も面白かったです。
ヨーグルトが付着しにくいフタ
http://bifidus.jp/products/cover.html
ヨーグルトのふたのひみつ
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/gakkokyoiku/kyoikushido/25kagakuronbun.html
ヨーグルトのふた裏がヨーグルトをはじくことと、葉が水をはじくことの関係性について
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/gakkokyoiku/kyoikushido/26kagakuronbun.html

実物標本の展示があるのはやはり良いですね。地質関係では多い作品で約50種でしたが、できるだけ多くの種類を集めてみるのも面白いのではないかと。例えば小さな標本で100~200ほど(B5またはA4サイズの箱で、25個×4~8箱)とか。砂や土も、赤、黄、白、黒等、色々あります。

岩石の分類はなかなか大変で、色や組成が同じに見えても、同一の可能性があるとは言えますが、そうではない可能性もあり、簡単には断定はできないです。疑いを持って観察すると、微妙な違いがあるように見えてきたりもします。結論を意識した考察をしたり、急いで答えを出そうとせずに、肩の力を抜いて、わからないことを楽しむくらいでも良いかと。

別所層=頁岩、青木層=砂岩・礫岩、というわけではなくて、別所層にも砂岩層、砂泥互層、礫混じり泥層等があり、青木層にも黒色頁岩や砂泥互層等があります。

別所層・青木層のノジュールが露出後に同じ場所で大きく変形することはあまり無いと思うので(壊れることはありますが)、「流れ」とは川の流れのことではないのではないかと…

黄鉄鉱ノジュールには方解石を含むものもあるようです。黄鉄鉱を含む砂岩もあります。(茶色の砂岩は酸化鉄に変化している可能性も。)

黄鉄鉱ノジュールの観察
https://kengaku2.blogspot.com/2019/04/blog-post_19.html