薬師仏・大姥仏の記事(富士山村誌 明治14 1881) |
奈良尾石造大姥坐像の銘文について、明治時代の富士山村誌(写し)に読めない文字があったので、実物の写真を探して見たら、普通に読めました…
以前は実物を確認していなかったのでしょうか?
もしかして、石の表面を研磨して刻字し直したという可能性もある?
富士山村誌(明治14 1881)
藥師佛 大姥佛 塔 藥師佛ハ南ノ方富士嶽ノ内字黒谷ノ嶺ニアリ大姥佛ハ黒谷ノ東ニアリ里老ノ傳ニ寛正三年大旱ノ時人民該山ニ登リ雨ヲ祈リテ驗アリ依テ之ヲ建ルト今ニ至テ旱魃ノ年ハ村民登山シテ雨ヲ祈ルヲ例トス
藥師佛一基 高サ一尺七寸
大姥佛一基 仝上
裏ニ
願主 權大僧都眞海 釆?初 和尚位
寛正七(年)丙戌五月日ト刻シ
アリ
富士山村誌(明治14 1881)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1246422/1/572
『小県郡史 余篇』(大正12 1923) 603頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/965787/1/315
二一二六 寛正七年丙戌五月日 石 大姥佛 富士山村富士嶽の中峰 願主大僧都眞海釆初和尚位。
上田情報蔵 解説石造大姥(おおば)坐像(市指定文化財)
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668031
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668033
(背面の写真)
願主
権大僧都真海法印和尚位
寛?七??五月日
「権大僧都~法印」は修験道でよくある名称のようです。
佐加神社に人が集まって大姥仏に雨を祈ったという話もあって、修験道の儀礼の名残りなのでしょうか…
https://kotobank.jp/word/法印-627033
>先達であれば法印権大僧都を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。