2022年2月16日水曜日

義仲願状、三島社

義仲願状(偽書?)
前山村誌(明治14)の義仲願状(挙兵時に左馬頭?)

前山村誌(明治14)にある義仲願状です。偽書でしょうか?

言帰命頂礼前山塩野神社曰木曽左馬頭源義仲
丸子城出張 令属信陽士卒義仲幕下 哉否存分得勢力令防戦者
皈家安泰之日 法楽之能於神前可致 依願状如件
治承四季三月朔日 冠者義仲 (花押)

郡村誌 小県郡 前山村 245コマ
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35220

『玉葉』寿永2年7月30日 8月11日(1183年 左馬頭)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920201/313
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920201/316


弘法山・塩田城の三島社について質問があったのですが、北条氏とは関係なく、江戸時代末に蚕神として創建されたと聞いています。(昭和57年修理時、天保13年(1842)3月28日棟札による)
上田藩村明細帳(宝永3 1706)、信州小県郡前山寺奥院獨股山図(寛政5 1793 以降?)に記載はなく、前山村誌(明治14 1881)や前山村絵図にも三島社は見つからず。(ただし、山中の道沿いに山神社が4社あり(水源および山林管理と関係?) すべて「祭神大山祇命 里俗伝 正安三年正月(十七日) 伊予国越智郡一の宮 三島社より勧請」とされています。『郡村誌 小県郡』前山村(237))


疑いを何度も重ねて、それでも正しいとは言い切れず、真偽の判定が今どうしても必要だとしても、それで確定して終わるわけもなく。まして、不十分な知見を根拠に断定なんてあり得ない話。(ロジカルエラーも多数… 根拠のない話を根拠のある話の中に混ぜて、間違いないと主張? 対立するA説B説のA説は誤りだからB説が正しいと主張? 実際はどちらも誤りまたは不確実…)

実は近現代の文化でもあるので、話の出所も気にした方が、より楽しめるかも。
(ここでも出典御無用? 歴史とサブカルチャーをミックスするのは楽しいかもしれませんが、信じ込んだり不確かな願望を教義化するのは危険…)
義仲・鎌倉 Year
https://kengaku2.blogspot.com/2022/01/year.html
鎌倉殿と信州上田
https://kengaku2.blogspot.com/2021/12/blog-post.html

脱日本遺産、泥宮の朝日、レイラインの競合
https://kengaku2.blogspot.com/2021/11/blog-post.html
看板いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
https://kengaku2.blogspot.com/2021/07/blog-post.html
Japan Heritage fake ley-line
https://kengaku2.blogspot.com/2022/02/japan-heritage-fake-ley-line.html

2022年1月20日木曜日

義仲・鎌倉 Year

義仲古城
儀仲古城(中丸子村図 明治時代) ここが最有力候補地ですが…

タイトルだけでも「義仲・鎌倉」の方が良さそうな気もしますが(義仲は平安時代ですが)、どうでしょうか…
記録は少なくて、平家物語、源平盛衰記 等の "物語" の中の「依田(の)城」「白鳥川原」の名前くらい(「出典付年表」を参照)、歴史っぽく見えるものもほとんどは伝説雪だるま、近世近代現代の二次創作。「依田」「白鳥」は物語成立当時の地名の可能性があり、最大勢力だった滋野氏系の拠点のどこか(牧の可能性も)、ということかも。

源範頼のサインを展示しているそうで、あと3枚なんとか用意して源氏四将、義仲、頼朝、範頼、義経 を並べたら面白いかも。源氏の抗争は物語前半の一つの軸でもあり、大河ドラマファンも多いと思うので。動きにくい昨今、小規模でも分散的に各地で盛り上がるのは悪い話ではないのでは… 観光地でないところでも便乗ができないわけではなく、ちょっとしたものでも多少の人出・物販の可能性はあるかも。

上田市の丸子地域 木曽義仲ゆかりの地をPR 1月17日
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20220117/1010021240.html
「義仲が挙兵」上田市丸子地域自治センターに紹介コーナー
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022012000217

中央大学文学部 紀要 言語・文学・文化 第123号(通巻274号)(2019)
清水由美子「『平家物語』と『吾妻鏡』-横田河原合戦記事をめぐって-」
https://www.chuo-u.ac.jp/academics/faculties/letters/navigator/bulletin/

関西学院大学 文学部・文学研究科 紀要『日本文藝研究』54巻4号(2003)
武久堅「平家物語・「横田河原合戦」の木曽義仲造型 : 「武水別神社・八幡宮大本堂」からの発進」
http://hdl.handle.net/10236/10154

義仲・巴魅力発信オンライン講演会
https://www.pref.toyama.jp/1103/r03yoshinaka-tomoegozen.html
「義仲・巴」出典付年表
https://www.pref.toyama.jp/1103/kensei/kenseiunei/kouikirenkei/kj00018751.html

2021 地域連携講座 阿部勇「木曽義仲と東信濃」
https://www.youtube.com/channel/UCMQAJ-L0ovAWuuo3NGNKGWg

中丸子村(図)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP0301080390
郡村誌 小県郡 中丸子村 義仲古城(120)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35190
(講座の絵図と写しの関係?)

平家物語 巻6 (元和・寛永年間) 依田城
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570042/32
平家物語 巻7 (元和・寛永年間) 依田ノ城
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570043/3
平家物語 巻6 (元和頃) 依田城
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570062/33
平家物語 巻7 (元和頃) 依田ノ城
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570063/3
平家物語 巻6 (寛永5 1628) よたの城
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544827/39
平家物語 巻7 (寛永5 1628) よ田の城
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544828/3
源平盛衰記 巻27 (寛永年間) 白鳥川原
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544841/13

鎌倉殿と信州上田
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脱日本遺産、泥宮の朝日、レイラインの競合
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看板いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
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2021年12月31日金曜日

飾り亜炭?

亜炭の破片
亜炭の破片

雲間に少しだけ見えた大晦日の夕日
雲間に少しだけ見えた大晦日の夕日

注連飾りに木炭も使うのですが、切らしているとのこと。冗談で、亜炭で良ければ近くの山にあると言ったら、見たいという人がいて、寒中、出かけることに…
沢沿いの崖に少し露出している程度。流されて塊が集まっている場所でいくつか拾いました。
結局、木炭の都合がついて、亜炭は使いませんでしたが、石炭とか亜炭を縁起物にするような風習も、どこかにはあったりするのでしょうか。

2021年12月22日水曜日

鎌倉殿と信州上田

北向山焼討
『善光寺道名所図会 巻之五』木曽の軍勢 北向山を焼討にす (木曽義高(義隆) 手塚光盛 等)

中禅寺薬師如来像の台座の戯画
『上田市誌 文化財編』84頁 中禅寺薬師如来像の台座の戯画

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と関係がありそうな人物について書いてみました。

北条義政(1242?-1282)は北条義時(1163ー1224)と姫の前(?-1207)の子の重時(1198-1261)の4男。孫ですが義時の死後なので登場はなさそう。

木曽義仲(1154-1184)は登場するようですが、手塚光盛や塩田八郎高光はどうでしょう。一場面でもあったら感涙する人もいるかも…
例えば、義仲が立ち寄った寺で仏師が仏像を作るのを眺めていたら、手塚光盛が台座用の板に落書き、僧は困った顔、義仲と家臣は「似てる」「似てない」と面白がって、仏師も絵を見て笑い出す、みたいな。(権威よりも諸芸実力重視の新興の気風と心の繋がり。台座の戯画は実在。手塚光盛は手塚治虫の先祖という説も。手塚光盛の話は(近世の義仲伝説と同様に)根拠のない推定も多く大部分は偽史かもしれませんが)
中禅寺 木造薬師如来像
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/056.html

『善光寺道名所図会』等に木曽義仲の軍勢が上田市別所温泉の寺院を焼き討ちした話がありますが、どうも史実ではないようです。出典とされた『出浦古記』については不明。たぶん江戸時代中頃の小説か小説を基にした歴史書ではないかと思いますがわかりません。北向観音の由来話も同じルーツ?
(別所を「出浦」と呼び(出浦への帰属意識?)、先祖から代々北向観音を支え、木曽義仲とは敵対する、という意識を持った人達が江戸後期にいて、その「歴史」が現在まで継承されているということでしょうか)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087151
此上は暫時に押寄一宇も不残焼払へと其夜十万の軍勢松明を用意し油断を見すまし忍び入数ケ所の寺院に火を懸たり
折節魔風頻に吹て甍を並べし大伽藍寺院町家民家迄一端に焼上る
思ひ寄ざる事なれば上を下へと騒動す僧俗男女の焼亡いふも更なり
嗚呼今日いかなる日ぞや寿永二癸夘五月廿一日さしも東国一の大伽藍一時の灰燼と成にける
木曽の軍勢十方より鯨波《ときのこゑ》天地に響き押よする 下略

信濃国守護になった比企能員(?-1203)、その一族で塩田庄の地頭になった惟宗忠久(1179-1227 島津氏初代)
(ちなみに、明治時代に違い石など小県郡の鉱物の分析をした比企忠(1866-1927)は、比企氏の子孫として系図作りなどもしているので、信州に因縁を感じていたかも。)

小泉庄を本拠にしたと言われる泉親衡。確実な史料や遺構は少ないようですが、反乱に失敗、追っ手を撃退、逐電、後世様々に伝説化したという怪人物。映像で見てみたいです…
『新刊吾妻鏡 巻二十一』 建暦三年(1213) 二月十五日、十六日、三月二日
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599728/51
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599728/53

文禄3年(1594)(豊臣秀吉の時代)の記録の写しで、本当かどうか、出典も不明ですが、安楽寺開山の樵谷惟仙が木曽義仲の一族という話がありました。(常楽寺と手塚氏や塩田氏に親戚関係があった可能性があり、没落後に別所を頼った人がいた可能性はあるとは思います。)
信濃史料 巻五_2
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2000710100/2000710100100010/0502/?pagecode=6
塔名(銘)写
崇福山安楽禅寺開山樵谷伊遷(惟僊)禅師者、源朝臣木曽生縁也、憐(隣)寺之於常楽教寺、年齢到於拾六歳迄、成天台之学

木造惟僊(仙)和尚坐像(安楽寺)
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/059.html

藤原景清(?-1196?) 平家方の怪力の武士。伊藤景清 平景清 悪七兵衛景清 上総悪七兵衛尉景清 など。
御嶽堂の宝蔵寺(岩屋堂観音)に悪七兵衛景清の旗があるそうです。(後付けの伝説以外で)実際にいつ頃どういう縁があって作られたのか不明…
御嶽堂村誌(明治12頃? 1879?) 龍洞山宝蔵寺(72)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35190
寺宝ニ七兵衛景清ノ旗ト云フ赤絹ニ 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 ノ四句ト 治承四年八月廿一日 ノ文字アリテ 景清ノ花押アリ
同髻観音ノ小銅像 同聖徳太子ノ像アリ 又 牛ノ玉アリ

旗の言葉は妙法蓮華経で、観音を念じれば敵は退散するという意味。
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818281/30

「髻観音」は悪七兵衛景清が髻(もとどり)の中に常に入れていた千手観音菩薩像で後に伝来したものとも。
「牛の玉」は「牛玉」「牛王(ごおう)の玉」

海野小太郎幸氏。人質の木曽義高の身代わりをした話が吾妻鏡にあり、ドラマでも場面がありそう。その後は鎌倉幕府の御家人として活躍。義高と同年代とすれば、義仲に従って戦った話は他の海野氏の可能性も。(義仲を担いだ信濃の武士が鎌倉時代にも存続しているのは、当初は頼朝と義仲は一応協調していたこと(義仲にとって頼朝は父義賢のかたきの義朝・義平父子の子・弟)、義仲は旗印であって絶対に代替できないほど強固な関係ではなかったこと(義仲は河内源氏の義賢の遺児であり、信濃領有は一時的なので "信濃源氏" とするのは無理がある?)、馬の生産・運用の専門家集団でもあったこと、等が理由でしょうか。)
新刊吾妻鏡 巻第三 寿永三年 四月 廿一日
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563194/64
而海野小太郎幸氏者與志水同年也 日夜在座右 片時無立去 仍今相替之 入彼帳臺 卧宿衣之下 出髻云云

義経討伐で敗死した土佐坊昌俊(渋谷金王丸?)。土佐坊昌順が舞田の法樹院を創建したという言い伝えや、塩野入(渋之入?)に渋谷金王の墓所があったとか、金王五輪塔は土佐坊昌俊の供養塔ではないかという話があります。塩田北条氏を頼った渋谷氏の一族がいたかもしれないとか。実際に関連があるのか、いつ頃できた話か不明。近世に「金王丸信仰」のようなものがあって、その痕跡とか?(本当に鎌倉時代で古文書(嘉暦4 1329)「小泉庄内前田・罡村泉小二郎知行分」が舞田・岡村なら、泉氏が建立した可能性も。)
吾妻鏡 文治元年九月九日 十七日 二十六日
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019645/121
郡村誌 小県郡舞田村(114)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35230
法樹院(中略)寺傳ニ文治元年渋谷土佐入道昌順故有テ創建シ金玉庵ト称ス後法樹院ト号ス 字塩野入ニ渋谷金王ノ墓所有リ永禄中大破ニ及ヒ某室賀入道某室賀甚七ヲシテ之ヲ再建スト云フ確乎タラス

『檀林飯沼弘經寺志』(摂門 1782-1839) (浄土宗全書 第19巻)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226434/419
○葉蓮社秋譽紅巠は大阪人 飯沼に止錫習學し數年ののち諸國廻國し信濃國上田領鹽田庄舞田村飯繩山法樹院報應寺を中興し住務二十年
寺記云 左馬頭義朝朝臣の臣澁谷金王丸當國出生也 主君沒後賴朝卿に仕へ後落髮し土佐坊昌俊と名 文治元年義經主を討んと上京時五條河原にて誅に伏す 其臣舞田次郞首を壓炭と成し其骨幷守本尊地藏菩薩を當所へ持來土中に埋む 當郷澁之入と云地に廟所今にあり 是以地藏を本尊として一宇を建て金王寺と云 後久しく無住にて永祿年中本尊假移小堂領主室賀入道由緖同姓甚七奉行として永祿七年再興し今の寺山號に改め秋譽を中興とす
天正十一未年十一月二十五日寂

2021年11月6日土曜日

脱日本遺産、泥宮の朝日、レイラインの競合

泥宮 夏至の朝日
泥宮 夏至の朝日の写真パネル(日の出位置は頂上よりも南)

斜め鳥居と架空レイライン
日本遺産を象徴する 斜め鳥居架空レイライン? どう案内する?

泥宮に夏至の朝日の写真パネルが設置されたとのこと。
日本遺産のマークが無く、もしかして補助金対象外?

泥宮は日本遺産の構成文化財ですが、申請資料には泥宮の夏至の朝日の話はありませんでした。レイライン関係の説明は、「かつては生島足島神社の西鳥居とまっすぐな道で繋がっていたといい、御神体を同じくするこのふたつの神社は、深い関係があることを示す。神社はレイラインを構成する、聖地のひとつとして親しまれている。」
(ただし「まっすぐな道」は絵図等で確認できず、後付けの脚色という可能性も。)

日本遺産ストーリーで泥宮の扱いが小さいのは、信濃国分寺-生島足島神社-別所温泉 のラインと競合するためでしょうか。太陽の線に近いはずの、王子塚、皇子塚、無量寺、手塚八幡社、塩田水上神社などを構成文化財から外しているのも競合を隠すため?
申請時には、レイラインの競合を意識する、合理的な感覚があったのかも。(関連ログ ご当地検定)
認定後に泥宮とその先に注目するようになったのは、日本遺産レイラインが脳内絶対化して、競合を避ける必要を感じなくなったため? もしそうなら、危険度は上がりますが、事例としては興味深いです…

泥宮、生島足島神社、信濃国分寺の日の出時刻は異なるので、泥宮の日の出の方角は「信濃国分寺と生島足島神社を結ぶ、夏至の朝日が照らす光の線」(日本遺産パンフレットのレイライン。実在するか未確認)とは一致せず、必ずズレることになります。生島足島神社で約1度(太陽約2個分)、信濃国分寺で約2度(太陽約4個分) どの地点・時刻の方角を選ぶ? こまけぇこたぁいいんだよ?

写真パネルの裏に解説文があって「烏帽子岳-信濃国分寺-生島足島神社-泥宮-女神岳」をレイラインと言っています。しかし、日本遺産ストーリーのレイラインは、解説文にはない「別所温泉」を通る直線です。
では、塩田地域の人は「烏帽子岳-信濃国分寺-生島足島神社-泥宮-女神岳」の直線が「別所温泉」を通ると考えるのでしょうか? 観光客にそう案内するのでしょうか? 子供達にそう教えるのでしょうか?


日本遺産は将来像をイメージできるでしょうか? 知名度向上と(”次”を見つけるための)時間稼ぎにはなったのかも… 今が分岐点?
(前向きに考えるなら、「ワクチン」のようなものにはなるのかも… 熱狂してしまう人もいるかもしれませんが…)
(2016年真田丸のときも、チャンスを活かせず、目に見えない失敗がたくさんあったような。反省無く、形式的なアウトプットばかり?)

地域の歴史で関心が高いものは(日本遺産より優先度を下げたりせずに)応援・支援した方が良いかと。
・真田氏・上田城・山城
・別所線(上田丸子電鉄)
・赤松小三郎・松平忠固
・産都上田
・木曽義仲・手塚光盛・北条氏
・加舎白雄
・農民美術
・たけしカルタ歴史さんぽみち
等々

御朱印、鉄印の真似で、各地の古道・峠道の集印の限定企画とかもどうでしょうか。(道印? 食・歴史・地理・地質等の組み合わせで。湯坂を越えて厄除け饅頭とか、鎌倉道であんぱん&コーヒーとか…)

別所線は101周年イベント(リベンジ)を積極的にやっても良いかも。100周年もほぼ単独だったので、日本遺産抜きでも変わらない?

カルタの歌「夏至の日の」は「冬の空」に訂正されたようですね。
「うえだ乙女百人一首」を製作!オリジナルデザインのカルタを「上田女子短期大学の学生有志」がつくる
https://ameblo.jp/idem2007/entry-12664130233.html

ちなみに、「塩田」「手塚」の名前は外来(山梨 笛吹市一宮町塩田(しおだ)、大阪 帝塚山(てづかやま))という話もあるそうですが、研究等は見たことがありません。

泥宮は上窪池の上で、前が烏帽子岳、後ろが女神岳(産川の水源の方向)。前後の山の方向に配置したら、たまたま、生島足島神社に向いて、夏至の日の出方向と一致した、という感じなのかも。創建や移設のときに意識していたのか、後で気付いて手直し等もしたのか。
始まりは偶然でも、そこに関係性や意味を見つけてしまうのが人間の認知・理性で、その中で文化が成立してきたことは、史実でもあり… それを現代にやっているのがレイライン研究の一側面?

補充調査報告書に大日如来関係の調査結果がありましたが、大日如来の石碑は一般的な供養碑として墓地などにあり、また、道路沿いには(馬頭観音のように)牛の供養碑としても多く建てられたと言われます。密教系の寺院、特に真言宗ではたいてい大日如来像があります。多すぎて、特定の信仰との結び付きを明確にするのはとても難しいような…
明確に否定もできないから、こじつけて強弁するには都合が良いのかもしれませんが。

看板いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
https://kengaku2.blogspot.com/2021/07/blog-post.html
夏至の朝日と別所線の赤鉄橋
https://kengaku2.blogspot.com/2021/06/blog-post_27.html
Japan Heritage delusions
https://kengaku2.blogspot.com/2021/06/japan-heritage-delusions.html
朝日いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
https://kengaku2.blogspot.com/2021/06/blog-post.html
The pagoda where time has stopped in the Sengoku period
https://kengaku2.blogspot.com/2021/05/the-pagoda-where-time-has-stopped-in.html