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産川の蛇骨石(沸石等の塊 とっこ館 2016年) |
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産川の蛇骨石(沸石等の塊 とっこ館 2016年) |
現在の小泉小太郎伝説は『小県郡史 余篇』(大正12 1933) の小山真夫(1882-1937)の記述が主流で、前半が鞍が淵伝説(産川(さんがわ)上流の前山村・手塚村)、後半が小泉山伝説(浦野川下流の小泉村)という構成になっています。
『小県郡史 余篇』小泉小太郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965787/36
鞍が淵伝説は明治初めの前山村誌、手塚村誌にあるので、江戸時代末には鞍が淵周辺にあったと思われます。古事記、日本書紀、平家物語、吾妻鏡、沙石集、信府統記、本草学等の書籍の影響がある一方で、信仰・習俗(寺社、行事、制度、帰属、禁忌等)との関係はほとんど見られないので、文化的サロンや寺子屋等を中心に広まった可能性があるように思います。
『俚言考 巻之一』(嘉永5年10月29日 1852)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0622101700
里人譚 小縣郡部
産川 附 虵骨石の話 塩田野倉村の奥より出て上田原にて浦能川へ落る塩田川をよへり 里人云 上古此奥に白龍住り犀と契りて一男子を生む 是泉小次郎なりと 其住る地は手塚の上の窟なりと 今虵骨石とて此川の石に白き骨の如きもの付てあるは此故なり 此子を生しより産川とよふとそ
『管見録』(嘉永5年10月29日 1852)
(上野尚志『信濃国小県郡年表』原稿と同じ筆跡か?)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0622106200
塩田川 塩田組野倉村ヨリ出ル 又産川ト云 土俗伝云 此川ニ往昔大龍住テ一子ヲ生ム 是泉小次郎也ト 不詳
天テツキ 同組西前山村ノ上ノ山ナリ 土俗云 此山ニ龍在テ子ヲ産ム 是産川ナリ 其子泉小次郎ナリト 不詳
一方、小泉山伝説は、「いつ」「どこで」伝承され、「いつ」「どこで」「誰が」採話したのか、よくわかりません。
明治初めの町村誌には無く、明治末に小山真夫が書いたものが、知る限りでは最初の記録です。もしかしたら『小県郡史』の調査野帳に何か記録があるかもしれませんが、中身を見たことはありません。
小山真夫
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/033.html
小山真夫調査野帳
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=636&seq=0
出典については、『小県郡史 余篇』(大正12 1923)では「里傳」、『小県郡民譚集』(昭和8 1933)では「母、宮越文彌、村誌」となっています。小山真夫の母親は東塩田の柳沢村(前山村の東隣)の出身。宮越文弥という方については詳細はわかりませんが、西塩田村出身、明治10年代頃の生まれ、明治40年に教員として中塩田小学校に勤務、ここで小山真夫と同僚となり、41年から西塩田小学校に勤務しています。小泉山伝説は村誌には見あたらないので、小山真夫の母親か宮越文弥氏が提供したと考えられます。(直接小泉村で採話されていない可能性があります。)また、大正9年に「塩田に生まれた老人から聞いた話」として残っているものがありますが、この「老人」は母親か宮越文弥氏(当時40歳前後)か他の人か不明です。
鞍が淵から小泉村までの距離は直線で7kmほど。小泉村は塩田地域ではなく、古くは、小泉庄、小泉組、泉田村、川西村、現在は上田市川西地域。水系が異なり、小泉村を流れているのは産川ではなく浦野川です。
つまり、小太郎は産川を下っても単純には小泉村には行けません。武石村出身の小山真夫や産川上流の人達は気にならなかったのかもしれませんが、小泉村や産川下流の人達には違和感があったはずで、たぶんそのために、辻褄合わせの追加や変更が見られます。
『信州の鎌倉 塩田平の民話』(平成5 1993)では、小太郎は産川下流の小島(地名)で拾われ、その後小泉村へ行っています。
昭和に入って小泉地区(当時は泉田村小泉)で採話されたと思われる話では、鞍が淵の大蛇が自分の子を投げ、それが小泉村に落ちた、としています。(上田中学校『郷土の伝説』(昭和9 1934) 101頁「大蛇は我が身のあさましさを見られた悔しさと黑鐵の針の毒とによりて産兒を遠く投げ捨てゝ遂に悶死しました。其産兒は小泉村(今の泉田村小泉)の一人の婆さんに救はれました。」)
(西塩田村の鞍が淵伝説では「古寺屋敷(僧)」「鞍が淵」「産川」「蛇骨石(じゃこついし・じゃこつせき)」が固定的なアンカー要素ですが、小泉地区ではこれらはオマケ要素に近くなり、変更・省略されることもあります。
浦野川流域で蛇骨・龍骨と言えばクジラ類や魚類の骨化石なので、産川の蛇骨石(沸石等)の実物を知らずに、骨化石をイメージした人もいたかもしれません。)
小泉山伝説の主な要素は、怪力伝説、「小泉山に萩なし」という言葉の由来、体のアザの由来等です。
怪力伝説は各地に様々なものがあります。山中の萩を根こぎにする話は他には見つかりませんでしたが、薪一束をほどいたら九束分になった話が武石村の「しつこう加右衛門」(『小県郡民譚集』)にありました。
怪力伝説は複数の話の集合であることが多いので、小泉小太郎の怪力話も複数あったのかもしれません。また、怪談ではない、史談寄りの小泉小太郎伝説があった可能性も。
「小泉山に萩なし」という言葉は実際に言われていたのかどうか確かではないです。小山真夫は、今は萩があるとも書いています。
萩もないほどの禿山との意味か、隅々まで開発されていたということか、あるいは樹木の採取を一般には制限していたということか。(例えば、毎年許可された日に山へ行っても、優先者が取り尽くした後で、残っていなかったとか。)
体のアザ(横腹の蛇紋の斑、等)の話は、異所性蒙古斑、あばた等の由来話でしょうか。平家物語に類似の話(胝、あかがり)があります。(平家物語 巻第八 緒環)
ただし、この話は小泉地区(小泉姓の人がいる)では好まれなかったのか、上田中学校『郷土の伝説』等では削除されています。
ものぐさ属性も話によって差異があります。『小県郡史 余篇』では「十四五歳の頃」「日々大食して遊び過し、かつて仕事といふことを為したことが無ければ」と、ものぐさを強調していますが、小山真夫のそれ以前のバージョンには「十歳頃」「婆のために小泉山に薪切りに行き」というものもあります。上田中学校『郷土の伝説』でも「孝行者の小太郞」としています。『泉田村誌』(昭和38 1963)では「七、八才頃」としています。
民俗学で各地の伝説が収集され研究されるようになると、その成果を語り手が話に取り入れるようにもなります。怪力伝説へのものぐさ属性の付加はそうした作用の結果である可能性も。
鞍が淵伝説の小泉小太郎は、泉小次郎親衡(吾妻鏡等)や泉小太郎(信府統記)と同一視され、怪力の豪傑として、伝説の固定的要素ではあったと思います。しかし、前山村誌では名前だけ、手塚村誌では名前もない、という扱いを見ると、固定の度合いは中程度で、明治初期には漠然としていたのかもしれません。その後、補足された話の一つが小泉山伝説(小泉村由来または翻案)だった、という可能性も考えられないでしょうか。
小泉山伝説に対する小泉村の反応も不明です。ちなみに、近隣の浦里村では「口碑と郡史とは違つている」(浦里村報 大正12年8月)のような反応もありました。
伝説は今も変化し続けているようです。
小泉地区の民話「小泉小太郎物語」「大日堂の蜘蛛」
https://www.uedakawanishi.com/blog/minwa
「大日堂の蜘蛛」の類話は全国に分布していて、賢淵(かしこぶち)の話が有名です。
蜘蛛淵 くもんぶち
http://www3.town.minobu.lg.jp/lib/shiryou/minwa/whatsminwa_c03.html
(小山真夫がこの伝説を何度か採り上げ考察を加えた背景には、鳥居龍蔵(1870-1953)や高木敏雄(1876-1922)の三輪山式伝説についての議論があり、また、民族の起源に関する当時の社会的な「ニーズ」があったのかも。
伝承には、古い部分、新しい部分、起源は古いけれど時々で変化してきた部分等、さまざまな要素が混在しているはずで、自己都合で、古いとか、変化したとか推定し(自分の願望に沿った)辻褄合わせが可能であることを理由に、妥当性を主張する、というのは、避けられない考察のあり方でしょうか。)
新しい鞍が淵伝説
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