信濃毎日新聞 明治39年5月14日号外 より |
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より |
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より |
明治39年5月13日、長野市での三将軍(伊東元帥、東郷大将、上村中将)歓迎会で保科百助が短歌三首朗詠したという話は、大澤茂樹(同窓の大澤茂十郎の子)が「土地の長老先輩」から聞いた話として、『信濃教育 昭和4年1月』(保科五無斎号)に寄稿したものです。
当時の信濃毎日新聞を見ると、近くで控えている保科百助を見た上村中将と新聞記者の牛山清四郎(雪鞋)、川崎三郎との会話が書かれていますが、三首朗詠については何の記述もありません。
信濃毎日新聞 明治39年5月14日号外 より
(同じ記事が15日朝刊にも掲載)
(六)大分怖い人ぢや
上村中將は密かに我等の後に扣えたる保科百助氏を指し、聲をひそめて問ふて曰『あれは誰ぢや大分怖い人ぢやの』余即ち保科氏を紹介し其人物を説明して曰『閣下是れは我信州の名物男五無齋保科百助と申すものにて、頗る地質學及礦物學に詳しく、其資産は悉く斯學研究の爲めに費し數年間山野に跋渉して諸種の礦物を採集し之を整理して悉く諸方の學校に寄附し、少しも自身の爲めに殘さず、現今は當市下に私塾を開いて熱心に諸生を敎育して居ります』と 中將は聽き了りて川崎氏を顧み『信州は中々に奇傑が多い、此培養をしたのは一体誰だらう』『左樣矢張佐久間象山などで御座いませう』『其象山を用ゐた大名は誰ぢや』『眞田侯です』『夫れぢや/\夫が多くの奇傑を出す手本を拵えたのぢや、英雄も豪傑も種がなくては生えぬ』。
※「余」は信濃毎日新聞記者 牛山清四郎(雪鞋 せつあい1865-1939)(信濃公論にも参加)
※「川崎氏」は信濃毎日新聞主筆 川崎三郎(紫山 1864-1943)
東郷大将が保科百助を「こわい人」と言ったという話がありますが(荒木茂平『人間 保科五無斎』等)、新聞記事では東郷大将ではなく上村中将です。
大澤茂樹の文中の、保科百助が「長野県人として三将軍の印象に停つたものは我輩だけである」と言ったという話は、この新聞記事を読んで自慢したのかも。
実はこの「三首」は、明治39年8月(9日?)、長野市で開かれた南信探勝隊歓迎会で、小川平吉を批判する演説の中で語られました。演説内容は信濃毎日新聞(明治39年8月14日)と長野新聞に寄稿。衆議院選挙の新聞広告(信濃毎日新聞 明治41年5月6日)でも触れられています。
6月に家鴨の仕入れに新潟へ出張したとき、汽車の中で「五無斎主人に生写し」の老壮士から、講和反対運動を批反する話を聞いた、という内容です。「三首」は、誰の歌というわけでもなく、老壮士の話の中で唐突に出てきます。日露戦争の後「日本勝った ロシヤ負けた」などの歌が作られ、流行したそうで、「三首」はそれらの流行歌を模して作ったものかもしれません。
演説最後の「万歳」の歌は小川平吉に対するもので、明らかに嫌味です。
三将軍歓迎会で三首朗詠が無かったかどうかは未確定です。
もしも小川平吉を三将軍に置き換えたとすると、誰がなぜこんな話を作ったのか(記憶違いか意図的か)、また、事実ではないことを指摘する人はいなかったのか。
「世界敵なり」は国際社会で孤立するという意味ではなく、演説の中の「今後世の中は頗る物騷となりたり。十年目十年目位には何れかの國と戰端を開く事とならん」に対応する言葉のようです。(日露戦争当時、今後も戦争が続くという見方が広くあり、保科百助もそのように思っていたことがわかります。対外的な戦争が日常の一部という時代であったことを改めて気付かされました。)
各「三首」を比較すると、異なる部分はあるものの、よく似てもいるので、南信探勝隊歓迎会とは別のバージョンが何かあったのかもしれません。(例えば、短冊とか、信濃公論の記事とか。)
大澤茂樹の文(昭和4年)では「世界敵」の歌がありません。荒木茂平『人間 保科五無斎』(昭和31年・37年)でも同じです。ところが、三石勝五郎『詩伝 保科五無斎』(昭和42年)にはこれがあります。三石勝五郎は何を参照したのでしょう?
南信探勝隊歓迎会のオリジナルでは「ロシヤは負けたり」なので「ロシヤ」は2音(ロシャ)のはずです。他のものは「ロシヤ(ロシア)負けたり」なので「ロシヤ」は3音です。
また、「万歳万歳 万々歳 万々歳々 万々と歳」が、他のものはどれも「万々歳々万々歳 万々歳々 万々の歳」となっています。
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より
寄書
南信探勝隊 歡迎會席上
五無齋 保科 百助
諸君。余《よ》は當市妻なし《◎◎》の里に住居する獨身ものゝ保科百助《ほしなひやくすけ》と申すものなり。先頃迄は私立學校經營の傍ら養禽《やうきん》事業を營み居りたるものゝ經濟上の事情や其外《そのほか》の原因にて去る四日斷然閉塾して今や純粹の養禽家となりたり。雅號は六無齋マイナス一即ち五無齋とは申すなり。爾來御見知り置かるゝやう御願申上げ奉るなり。
偖《さて》諸君余は去る六月上旬中越後國三條町附近へ家鴨《あひる》の仕入に出向きたる事ありたり。當時四日町や三條一の木戸邊《きどへん》には大竹《おほだけ》代議士歡迎會何々代議士も出席といふ張札《はりふだ》を見たる事ありたり。只々如何にも不可思議に堪えざりしは大竹代議士のみは貳號活字のやうに大書《たいしよ》し殊更赤インキにて三重圈點《 ぢうけんてん》の着けありたるにも拘らず何々代議士の方は普通六號活字の如く書きつけ無圈點《むけんてん》なりし事なり。依て余は歸途の際汽車中にて去る越後者のチヨン髷親仁《まげおやぢ》に抑《そ》も大竹代議士とは如何《いか》なる人物なるやを質問せり。件《くだん》の老人は頗る得意なるものあり。晏氏《あんし》の御者の夫《それ》の如く鼻うごめかしつゝあの人こそ越後第一等の豪《えら》き人物なれ。大竹の旦那とて以前は頗る財産家なりしも今は殆どすべ/\となられたり。然れども親類が親類なれば吾々の如く三度の食物《しよくもつ》にまごつくやうなる事はなし。昨年の何時頃《いつごろ》なりしか今はよくも記臆し居らざれども江戸村に於て非講和大會とか言ふものゝ開かれたる折大竹の旦那が本家本元なりし由《よし》なり。其時には江戸村は愚か日本中の大騷ぎとなりたる樣聞き及ぶなり。あのやうに大きな文字にて書かれて紅《あか》の丸をつけらるも素《もと》より其所《そのところ》なり。大竹の旦那は日本の三人男なりとの評判なり。又來年の選擧の時は數《かず》ならぬ此親仁《このおやぢ》なども御盡力を申し上ぐる積りなり。あの旦那の爲めならば三圓や五圓は持ち出しても國會に出て御貰ひ申さねばならぬと越後中にて申合せ居るなり。南無阿彌陀佛々々々々々々とて此老人は次ぎの停車塲にて下車せり。
茲《こゝ》に又最も愉快なりしは予《よ》が筋向《すぢむかひ》に着座して柏崎日報を閲讀し居たる巣鴨式《すがもしき》の一人物あり。年齡は四十前後ならん。長髮を梳《くしけづ》らず粗髯《そぜん》を撫《ぶ》し慷慨悲憤《かうがいひふん》時事を痛論するの風体《ふうたい》は鏡にて見たる五無齋主人に生寫しなり。此《この》老人の下車するや否や此老壯士は予に一揖《 いつ》して御得意の政治論を擔《かつ》ぎ出せり。曰はく貴下《きか》は何國《いづく》の人又如何《いか》なる人なるかは知らざれども旅は道連れといふ事あり。昔人《せきじん》の如く無闇に沈默を守り居らんも如何《いかゞ》 偖《さて》今の老人の話によつて思ひ出せる事あり 河野廣中《かうのひろなか》や大竹貫一《おほだけくわん 》及び外《◎》一名の如きは明治十三四年頃の政治家也。今時《いまどき》となりては既に骨董的老政治家の好標品《かうへうひん》となりたり。彈劾的奉答文とは抑《そ》も何等《なんら》の失態ぞ。如何《いか》に當時の内閣員が氣に喰はぬとは言ひながら開院式の敕語奉答文中に彈劾的の文句を書き加ふるとは何等《なんら》の戲言《たはこと》ぞ。是《こ》は田中式の栃鎭漢《とつちんかん》と謂ふものなり。三百餘の代議士が揃ひも揃うて立ちそこない各《おの/\》壹貳萬兩の運動費を棒に振りたるなどは近頃以つて笑止の至りなり。又昨年の非講和大會の如きは何等《なんら》の惡戲《あくぎ》ぞ。償金《しやうきん》三十億バイカル湖以東の取れなかつ(た)のが不平なりとの意ならんかなれどもソハ書生の空想論といふものなり。老政治家の容易に口にすべきには非るなり。當時我國の經濟事情を察するに戰爭の繼續は殆んど覺束なし。一時休戰するの止むを得さること屁を見るより明らかなる道理なり。講和條約とは言ふものゝ其實は一種の休戰條約に外ならず。今後世の中は頗る物騷となりたり。十年目十年目位には何れかの國と戰端を開く事とならん。
ロシヤ負けた ロシヤは負けたり ロシヤまけた ロシヤはまけたり ロシヤは負けたり
されど又 世界は敵ぞ 世界てき 世界敵なり 世界てきなり
故《ゆゑ》に又 金《かね》をたむ可し 金ためよ 金をたむ可し 金をたむ可し
表面丈ケは講和條約とせねば一億五千も取れぬなり。樺太半分も取れぬなり。休戰條約によつて一億五千の償金《しやうきん》が取れ樺太半分と旅順大連もお手のものとなり鐵道も砲臺も戸籍が此方《こつち》のものとなり朝鮮の宗主權も確定したりとすれば小村全權の外交は先以《まづも》つて小成効を奏《そう》したるものと謂ふ可し。當時帝國に使用の途《みち》なくよく/\遊び居る金の三十億もあらば三十億の償金は取れん。五十億の遊び金あらば五十億の償金は受合なり。金を借りるとしても一萬の財産ある者ならでは一萬の借金は出來ぬなり。吾人《ごじん》の如き無一物《む ぶつ》の素寒貧《すかんぴん》には百圓の借金も出來ぬなり。演説でもする積りにて貴宅《こちら》のお猫さんは太つて居らしやるなり。貴宅《おたく》のお狗さんは大兵肥滿《たいへうひまん》に渡《わた》らせらるゝなりなど其外《そのほか》床の間の軸物《ぢくもの》より勝手元《かつてもと》のお鍋殿《なべどの》迄をも襃めそやして偖《さて》其後《そのゝち》に時に閣下金子拾圓時借《ときがり》など申出でゝは見たれども何時《いつ》も謝絶の運命に接すること殆んど千遍一律《 べん りつ》なり。之《これ》を要するに外交の懸け引きなどいふことは無き事なり。最後の談判は必竟《ひつきやう》○《るま》問題なり。吾人《ごじん》が全權大臣としても此位《このくらゐ》の外《ほか》は出來ず。然らば河野や大竹に此位な理屈がわからぬかと言ふに夫《そ》れ程な馬鹿でもなし。此位な事は知りぬいて居《を》れども實は他《た》に一つ爲めにする所あるが爲めなり。ソハ言ふまでもなく運動費なしに何回となく永久に代議士となるか國務大臣とでもなりたしとの野心《のごゝろ》に外《ほか》ならず。代議士としての外《ほか》三が月《つき》に二千圓の月俸の取れぬ大馬鹿者なることは彼等《かれら》の深く自覺する所ならん。凡《およ》そ代議士には歳費二千圓の外《ほか》汽車只乘法《きしやたゞのりはふ》の特典あり。行々《ゆく/\》は汽船の只乘も出來ん。女郞《ぢよろ》や藝者もロハとならん。運動費なしに出られるとすれば吾人《ごじん》も出て見たきものなり。但し代議士としての抱負などは一ツもなし。帝國憲法は發布の翌日半分許《ばか》り讀みさしにして偖《さて》止《や》みたり。然れども汽車汽船にロハ乘りが出來女郞《ぢよろ》や藝者が只買へるとすれば百圓や二百圓位ならば借金を質《しち》に置いても出て見度《みた》きものなり。然れども其百圓か二百圓の金でも出來ぬとは何《なん》ぼう悲しき事ならず哉《や》と言はざるを得ず。
江戸といふ所は大分《だいぶ》利口な人も居《ゐ》る代りに馬鹿な人も隨分澤山ある樣子なり。騷擾事件の時の人出《ひとで》は實に夥《おびたゞ》しきものなり。是《これ》は大竹や河野の爲めに助練《すけね》りとか附《つ》け練《ね》りとかいふものを出したるなり。助練りとは譬《たと》へは御地《おんち》の妻科の祭禮に城山《じやうやま》や權堂邊《ごんだうへん》からも練り物《もの》を練り出すなり。肝腎要《かんじんかなめ》の大竹や河野や其外《その◎》の人達が無罪で助練りに出たものが有罪とは頗《すこぶ》る御目出度《おめでた》きものなり。さすが法官《はふくわん》は獨立など言へども少《すこ》しく受取れぬ話なり。百四十餘の辨護士の助練りも大したものなり。併《しか》し是《これ》も例の辨護士連の廣告の一種なりとすれば左程に惡《に》くゝもなし 廣告なる哉《かな》。廣告なる哉。
汽車の長野に着《ちやく》するや車掌の長野々々《ながの/\》三十分停車の聲に打ち驚かされつゝ倉皇《さうくわう》下車すれば忽《たちま》ちにして此《この》老壯氏を見失ひ其《その》南柯《なんか》の一夢《 ばう》たりしに心づきたり。
偖諸君。諏訪明神樣や御嶽山《おんたけさん》座王大權現殿《ざわうだいごんげんどの》は江戸村附近に於ては大分《だいぶ》靈驗まします樣持《も》て囃され居《を》れども我《わが》信州地方にては實は夫《そ》れ程でもなし。是《これ》は豫言者故鄕《こきやう》に名あらずといふものならん。大宰春臺や佐久間象山でさへも諸人渇仰《しよじんかつかう》の本尊《ほんぞん》とはならず。渡邊兄弟《わたなべけいてい》の如き實は何でもなし。故に其外《その◎》のヘボ代議士の如きは況《いは》んやに於てをやと言はざるを得ず。
偖諸君。今回は江戸村の新聞屋が其數を盡して各代表者を御出し被下《くだされ》諏訪明神樣への助練《すけね》りの御寄附何とも痛み入つたる次第なり。御禮の申上樣《まをしあげやう》は萬々《まん/\》なし。然り而《しかう》して赤貧洗ふが如き家鴨屋《あひるや》の五無齋までが助け練りの又其助け練りの爲めに大枚金三圓の會費を出して出席致す事如何に義理人情にて固めたる娑婆お附き合なら火事にでもといふ浮世とは申せ若し神樣佛樣よりコを見給はゞ如何に棒腹絶倒し給ふらん。是れが何《なん》ぼう芽出度事《めでたきこと》ならずや。
少しく酩泥《めいでい》の餘り何を云ふた事やら自分にも絶えて分らぬ事もあるやうなり。終りに臨み予は謹んで名譽ある野心《のごゝろ》深き靑年政治家小川平吉君《をがはへいきちくん》の爲に萬歳を祝《しゆく》せざるを得ず
小川君 萬歳々々《ばんざい/\》 萬々歳《ばん/゛\ざい》
萬々歳々《ばん/゛\さい/\》 萬々と歳《ばん/゛\さい/\》
失敬多罪《しつけいたざい》