2019年5月28日火曜日

三将軍歓迎会での保科百助

保科百助 三将軍歓迎会の記事
信濃毎日新聞 明治39年5月14日号外 より

保科百助 三首朗詠
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より

保科百助 三首朗詠
信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より

明治39年5月13日、長野市での三将軍(伊東元帥、東郷大将、上村中将)歓迎会で保科百助が短歌三首朗詠したという話は、大澤茂樹(同窓の大澤茂十郎の子)が「土地の長老先輩」から聞いた話として、『信濃教育 昭和4年1月』(保科五無斎号)に寄稿したものです。

当時の信濃毎日新聞を見ると、近くで控えている保科百助を見た上村中将と新聞記者の牛山清四郎(雪鞋)、川崎三郎との会話が書かれていますが、三首朗詠については何の記述もありません。

信濃毎日新聞 明治39年5月14日号外 より
(同じ記事が15日朝刊にも掲載)

(六)大分怖い人ぢや
上村中將は密かに我等の後に扣えたる保科百助氏を指し、聲をひそめて問ふて曰『あれは誰ぢや大分怖い人ぢやの』余即ち保科氏を紹介し其人物を説明して曰『閣下是れは我信州の名物男五無齋保科百助と申すものにて、頗る地質學及礦物學に詳しく、其資産は悉く斯學研究の爲めに費し數年間山野に跋渉して諸種の礦物を採集し之を整理して悉く諸方の學校に寄附し、少しも自身の爲めに殘さず、現今は當市下に私塾を開いて熱心に諸生を敎育して居ります』と 中將は聽き了りて川崎氏を顧み『信州は中々に奇傑が多い、此培養をしたのは一体誰だらう』『左樣矢張佐久間象山などで御座いませう』『其象山を用ゐた大名は誰ぢや』『眞田侯です』『夫れぢや/\夫が多くの奇傑を出す手本を拵えたのぢや、英雄も豪傑も種がなくては生えぬ』。


※「余」は信濃毎日新聞記者 牛山清四郎(雪鞋 せつあい1865-1939)(信濃公論にも参加)
※「川崎氏」は信濃毎日新聞主筆 川崎三郎(紫山 1864-1943)


東郷大将が保科百助を「こわい人」と言ったという話がありますが(荒木茂平『人間 保科五無斎』等)、新聞記事では東郷大将ではなく上村中将です。
大澤茂樹の文中の、保科百助が「長野県人として三将軍の印象に停つたものは我輩だけである」と言ったという話は、この新聞記事を読んで自慢したのかも。


実はこの「三首」は、明治39年8月(9日?)、長野市で開かれた南信探勝隊歓迎会で、小川平吉を批判する演説の中で語られました。演説内容は信濃毎日新聞(明治39年8月14日)と長野新聞に寄稿。衆議院選挙の新聞広告(信濃毎日新聞 明治41年5月6日)でも触れられています。

6月に家鴨の仕入れに新潟へ出張したとき、汽車の中で「五無斎主人に生写し」の老壮士から、講和反対運動を批反する話を聞いた、という内容です。「三首」は、誰の歌というわけでもなく、老壮士の話の中で唐突に出てきます。日露戦争の後「日本勝った ロシヤ負けた」などの歌が作られ、流行したそうで、「三首」はそれらの流行歌を模して作ったものかもしれません。
演説最後の「万歳」の歌は小川平吉に対するもので、明らかに嫌味です。


三将軍歓迎会で三首朗詠が無かったかどうかは未確定です。
もしも小川平吉を三将軍に置き換えたとすると、誰がなぜこんな話を作ったのか(記憶違いか意図的か)、また、事実ではないことを指摘する人はいなかったのか。

「世界敵なり」は国際社会で孤立するという意味ではなく、演説の中の「今後世の中は頗る物騷となりたり。十年目十年目位には何れかの國と戰端を開く事とならん」に対応する言葉のようです。(日露戦争当時、今後も戦争が続くという見方が広くあり、保科百助もそのように思っていたことがわかります。対外的な戦争が日常の一部という時代であったことを改めて気付かされました。)

各「三首」を比較すると、異なる部分はあるものの、よく似てもいるので、南信探勝隊歓迎会とは別のバージョンが何かあったのかもしれません。(例えば、短冊とか、信濃公論の記事とか。)

大澤茂樹の文(昭和4年)では「世界敵」の歌がありません。荒木茂平『人間 保科五無斎』(昭和31年・37年)でも同じです。ところが、三石勝五郎『詩伝 保科五無斎』(昭和42年)にはこれがあります。三石勝五郎は何を参照したのでしょう?

南信探勝隊歓迎会のオリジナルでは「ロシヤは負けたり」なので「ロシヤ」は2音(ロシャ)のはずです。他のものは「ロシヤ(ロシア)負けたり」なので「ロシヤ」は3音です。
また、「万歳万歳 万々歳 万々歳々 万々と歳」が、他のものはどれも「万々歳々万々歳 万々歳々 万々の歳」となっています。


信濃毎日新聞 明治39年8月14日 より

寄書
南信探勝隊 歡迎會席上
  五無齋 保科 百助
諸君。余《よ》は當市妻なし《◎◎》の里に住居する獨身ものゝ保科百助《ほしなひやくすけ》と申すものなり。先頃迄は私立學校經營の傍ら養禽《やうきん》事業を營み居りたるものゝ經濟上の事情や其外《そのほか》の原因にて去る四日斷然閉塾して今や純粹の養禽家となりたり。雅號は六無齋マイナス一即ち五無齋とは申すなり。爾來御見知り置かるゝやう御願申上げ奉るなり。
偖《さて》諸君余は去る六月上旬中越後國三條町附近へ家鴨《あひる》の仕入に出向きたる事ありたり。當時四日町や三條一の木戸邊《きどへん》には大竹《おほだけ》代議士歡迎會何々代議士も出席といふ張札《はりふだ》を見たる事ありたり。只々如何にも不可思議に堪えざりしは大竹代議士のみは貳號活字のやうに大書《たいしよ》し殊更赤インキにて三重圈點《 ぢうけんてん》の着けありたるにも拘らず何々代議士の方は普通六號活字の如く書きつけ無圈點《むけんてん》なりし事なり。依て余は歸途の際汽車中にて去る越後者のチヨン髷親仁《まげおやぢ》に抑《そ》も大竹代議士とは如何《いか》なる人物なるやを質問せり。件《くだん》の老人は頗る得意なるものあり。晏氏《あんし》の御者の夫《それ》の如く鼻うごめかしつゝあの人こそ越後第一等の豪《えら》き人物なれ。大竹の旦那とて以前は頗る財産家なりしも今は殆どすべ/\となられたり。然れども親類が親類なれば吾々の如く三度の食物《しよくもつ》にまごつくやうなる事はなし。昨年の何時頃《いつごろ》なりしか今はよくも記臆し居らざれども江戸村に於て非講和大會とか言ふものゝ開かれたる折大竹の旦那が本家本元なりし由《よし》なり。其時には江戸村は愚か日本中の大騷ぎとなりたる樣聞き及ぶなり。あのやうに大きな文字にて書かれて紅《あか》の丸をつけらるも素《もと》より其所《そのところ》なり。大竹の旦那は日本の三人男なりとの評判なり。又來年の選擧の時は數《かず》ならぬ此親仁《このおやぢ》なども御盡力を申し上ぐる積りなり。あの旦那の爲めならば三圓や五圓は持ち出しても國會に出て御貰ひ申さねばならぬと越後中にて申合せ居るなり。南無阿彌陀佛々々々々々々とて此老人は次ぎの停車塲にて下車せり。
茲《こゝ》に又最も愉快なりしは予《よ》が筋向《すぢむかひ》に着座して柏崎日報を閲讀し居たる巣鴨式《すがもしき》の一人物あり。年齡は四十前後ならん。長髮を梳《くしけづ》らず粗髯《そぜん》を撫《ぶ》し慷慨悲憤《かうがいひふん》時事を痛論するの風体《ふうたい》は鏡にて見たる五無齋主人に生寫しなり。此《この》老人の下車するや否や此老壯士は予に一揖《 いつ》して御得意の政治論を擔《かつ》ぎ出せり。曰はく貴下《きか》は何國《いづく》の人又如何《いか》なる人なるかは知らざれども旅は道連れといふ事あり。昔人《せきじん》の如く無闇に沈默を守り居らんも如何《いかゞ》 偖《さて》今の老人の話によつて思ひ出せる事あり 河野廣中《かうのひろなか》や大竹貫一《おほだけくわん 》及び外《◎》一名の如きは明治十三四年頃の政治家也。今時《いまどき》となりては既に骨董的老政治家の好標品《かうへうひん》となりたり。彈劾的奉答文とは抑《そ》も何等《なんら》の失態ぞ。如何《いか》に當時の内閣員が氣に喰はぬとは言ひながら開院式の敕語奉答文中に彈劾的の文句を書き加ふるとは何等《なんら》の戲言《たはこと》ぞ。是《こ》は田中式の栃鎭漢《とつちんかん》と謂ふものなり。三百餘の代議士が揃ひも揃うて立ちそこない各《おの/\》壹貳萬兩の運動費を棒に振りたるなどは近頃以つて笑止の至りなり。又昨年の非講和大會の如きは何等《なんら》の惡戲《あくぎ》ぞ。償金《しやうきん》三十億バイカル湖以東の取れなかつ(た)のが不平なりとの意ならんかなれどもソハ書生の空想論といふものなり。老政治家の容易に口にすべきには非るなり。當時我國の經濟事情を察するに戰爭の繼續は殆んど覺束なし。一時休戰するの止むを得さること屁を見るより明らかなる道理なり。講和條約とは言ふものゝ其實は一種の休戰條約に外ならず。今後世の中は頗る物騷となりたり。十年目十年目位には何れかの國と戰端を開く事とならん。

 ロシヤ負けた ロシヤは負けたり ロシヤまけた ロシヤはまけたり ロシヤは負けたり
 されど又 世界は敵ぞ 世界てき 世界敵なり 世界てきなり
 故《ゆゑ》に又 金《かね》をたむ可し 金ためよ 金をたむ可し 金をたむ可し

表面丈ケは講和條約とせねば一億五千も取れぬなり。樺太半分も取れぬなり。休戰條約によつて一億五千の償金《しやうきん》が取れ樺太半分と旅順大連もお手のものとなり鐵道も砲臺も戸籍が此方《こつち》のものとなり朝鮮の宗主權も確定したりとすれば小村全權の外交は先以《まづも》つて小成効を奏《そう》したるものと謂ふ可し。當時帝國に使用の途《みち》なくよく/\遊び居る金の三十億もあらば三十億の償金は取れん。五十億の遊び金あらば五十億の償金は受合なり。金を借りるとしても一萬の財産ある者ならでは一萬の借金は出來ぬなり。吾人《ごじん》の如き無一物《む ぶつ》の素寒貧《すかんぴん》には百圓の借金も出來ぬなり。演説でもする積りにて貴宅《こちら》のお猫さんは太つて居らしやるなり。貴宅《おたく》のお狗さんは大兵肥滿《たいへうひまん》に渡《わた》らせらるゝなりなど其外《そのほか》床の間の軸物《ぢくもの》より勝手元《かつてもと》のお鍋殿《なべどの》迄をも襃めそやして偖《さて》其後《そのゝち》に時に閣下金子拾圓時借《ときがり》など申出でゝは見たれども何時《いつ》も謝絶の運命に接すること殆んど千遍一律《 べん りつ》なり。之《これ》を要するに外交の懸け引きなどいふことは無き事なり。最後の談判は必竟《ひつきやう》○《るま》問題なり。吾人《ごじん》が全權大臣としても此位《このくらゐ》の外《ほか》は出來ず。然らば河野や大竹に此位な理屈がわからぬかと言ふに夫《そ》れ程な馬鹿でもなし。此位な事は知りぬいて居《を》れども實は他《た》に一つ爲めにする所あるが爲めなり。ソハ言ふまでもなく運動費なしに何回となく永久に代議士となるか國務大臣とでもなりたしとの野心《のごゝろ》に外《ほか》ならず。代議士としての外《ほか》三が月《つき》に二千圓の月俸の取れぬ大馬鹿者なることは彼等《かれら》の深く自覺する所ならん。凡《およ》そ代議士には歳費二千圓の外《ほか》汽車只乘法《きしやたゞのりはふ》の特典あり。行々《ゆく/\》は汽船の只乘も出來ん。女郞《ぢよろ》や藝者もロハとならん。運動費なしに出られるとすれば吾人《ごじん》も出て見たきものなり。但し代議士としての抱負などは一ツもなし。帝國憲法は發布の翌日半分許《ばか》り讀みさしにして偖《さて》止《や》みたり。然れども汽車汽船にロハ乘りが出來女郞《ぢよろ》や藝者が只買へるとすれば百圓や二百圓位ならば借金を質《しち》に置いても出て見度《みた》きものなり。然れども其百圓か二百圓の金でも出來ぬとは何《なん》ぼう悲しき事ならず哉《や》と言はざるを得ず。

江戸といふ所は大分《だいぶ》利口な人も居《ゐ》る代りに馬鹿な人も隨分澤山ある樣子なり。騷擾事件の時の人出《ひとで》は實に夥《おびたゞ》しきものなり。是《これ》は大竹や河野の爲めに助練《すけね》りとか附《つ》け練《ね》りとかいふものを出したるなり。助練りとは譬《たと》へは御地《おんち》の妻科の祭禮に城山《じやうやま》や權堂邊《ごんだうへん》からも練り物《もの》を練り出すなり。肝腎要《かんじんかなめ》の大竹や河野や其外《その◎》の人達が無罪で助練りに出たものが有罪とは頗《すこぶ》る御目出度《おめでた》きものなり。さすが法官《はふくわん》は獨立など言へども少《すこ》しく受取れぬ話なり。百四十餘の辨護士の助練りも大したものなり。併《しか》し是《これ》も例の辨護士連の廣告の一種なりとすれば左程に惡《に》くゝもなし 廣告なる哉《かな》。廣告なる哉。

汽車の長野に着《ちやく》するや車掌の長野々々《ながの/\》三十分停車の聲に打ち驚かされつゝ倉皇《さうくわう》下車すれば忽《たちま》ちにして此《この》老壯氏を見失ひ其《その》南柯《なんか》の一夢《 ばう》たりしに心づきたり。

偖諸君。諏訪明神樣や御嶽山《おんたけさん》座王大權現殿《ざわうだいごんげんどの》は江戸村附近に於ては大分《だいぶ》靈驗まします樣持《も》て囃され居《を》れども我《わが》信州地方にては實は夫《そ》れ程でもなし。是《これ》は豫言者故鄕《こきやう》に名あらずといふものならん。大宰春臺や佐久間象山でさへも諸人渇仰《しよじんかつかう》の本尊《ほんぞん》とはならず。渡邊兄弟《わたなべけいてい》の如き實は何でもなし。故に其外《その◎》のヘボ代議士の如きは況《いは》んやに於てをやと言はざるを得ず。

偖諸君。今回は江戸村の新聞屋が其數を盡して各代表者を御出し被下《くだされ》諏訪明神樣への助練《すけね》りの御寄附何とも痛み入つたる次第なり。御禮の申上樣《まをしあげやう》は萬々《まん/\》なし。然り而《しかう》して赤貧洗ふが如き家鴨屋《あひるや》の五無齋までが助け練りの又其助け練りの爲めに大枚金三圓の會費を出して出席致す事如何に義理人情にて固めたる娑婆お附き合なら火事にでもといふ浮世とは申せ若し神樣佛樣よりコを見給はゞ如何に棒腹絶倒し給ふらん。是れが何《なん》ぼう芽出度事《めでたきこと》ならずや。

少しく酩泥《めいでい》の餘り何を云ふた事やら自分にも絶えて分らぬ事もあるやうなり。終りに臨み予は謹んで名譽ある野心《のごゝろ》深き靑年政治家小川平吉君《をがはへいきちくん》の爲に萬歳を祝《しゆく》せざるを得ず

 小川君 萬歳々々《ばんざい/\》 萬々歳《ばん/゛\ざい》
  萬々歳々《ばん/゛\さい/\》 萬々と歳《ばん/゛\さい/\》

失敬多罪《しつけいたざい》

2019年5月25日土曜日

保科塾と満韓旅行

保科百助 満韓視察 新聞広告
明治38年3月2日 信濃毎日新聞 広告

信濃教育会雑誌 明治39年7月25日 33頁
『信濃教育会雑誌 明治39年7月25日』33頁より

保科百助(ほしな ひゃくすけ 1868-1911)が保科塾を閉塾(明治39年8月4日)した理由については諸説ありますが、その時、行われていた学生・教員の満韓視察旅行が影響したことも考えられると思います。

明治38年3月2日(日露戦争 奉天会戦中)、保科百助は、7月から3か月間の満韓視察をしたいので「萬般の便宣を與へられ度」という内容の新聞広告を出しました。結局「萬般の便宣」は得られなかったようで、渡航は実現しませんでした。

日露戦争終戦の翌年、明治39年7月、陸軍省と文部省は学生・教員を対象に満韓旅行を企画しました。参加者は全国で3600名余り。長野県は学生85名、教員135名、合計220名。
保科百助はこの旅行に参加していません。人と同じことをするのを好まなかったので、大勢の教員と一緒の団体旅行には不満足だったかもしれませんが、望んでも視察に行けずにいる自分と比べて、強い苛立ち(または失望)を感じていたのではないでしょうか。

『信濃教育会雑誌』によると長野県の視察団の日程は、7月25日宇品港出発、29日大連、31日旅順、8月2日奉天。
信濃毎日新聞にはこの旅行に関する記事や、参加していた太田水穂の報告記事が度々掲載されました。それらを目にして、悔しく、塾が足かせのように感じられて、どうにも嫌になってしまった、というのが閉塾(8月4日)の一つの動機だった可能性もあるのではないでしょうか。


信濃毎日新聞 明治38年3月2日 広告記事

小生儀赤貧洗ふが如くなるにも不拘聊か時
局に鑑みる所あり來る七月上旬當地出發凡
そ三が月の豫定を以て滿韓地方に於ける敎
育實業視察の爲め渡航仕候間視察上心得と
なるべき事其他萬般の便宣を與へられ度尚
何々の事項を視察し來れとの御下命をも蒙
り度此段略儀ながら新聞紙上を以て御願申
上候敬具
明治卅八年三月 在長野市
五無齋事 保科百助


『信濃教育会雑誌 明治39年7月25日』33頁より

滿韓旅行者と本縣人
今回文部省が陸軍省等に交渉して敎育者並學生等の團体滿韓旅行に關し非常なる便宜を與へられ從て本縣にても夫々奨勵され尚信濃敎育會にても殊に該會員の便宜を企圖したるが右旅行者渡航の爲め 甲班《●●》は樺太丸六百人を定員とし七月十五日宇品發仝十九日大連着歸航は八月五日大連發同九日宇品着 乙班《●●》は雛丸六百五十人を定員とし七月十九日宇品發同二十三日大連着歸航は八月八日大連發同十二日宇品着 丙班《●●》は神宮丸六百五十人を定員とし七月二十二日宇品發同二十六日大連着歸航は八月十二日大連發同十六日宇品着 丁班《●●》は御吉野丸一千四十二人を定員とし七月二十五日宇品發同二十九日大連着 戊班《●●》は樺太丸六百人を定員とし七月二十九日宇品發八月二日大連着歸航は八月十八日大連發同二十二日宇品着の豫定なりと云ふ今丁班たる御吉野丸便乘者團体の詳細を記せば左の如し

丁班御吉丸便乘滿韓旅行者團体配属人員
船名 御吉野
乘船月日 七月廾五日
總人員 一、〇四二
府縣又  配當人員 人員計 團体數 團体監督者氏名(※略)
學校名
 東京府   三五  九六   一
 神奈川縣   五
●埼玉縣   二四
 千葉縣    三
●栃木縣   二八
●群馬縣   四五 一〇九   一
●靜岡縣   五八
●山梨縣    六
●茨木縣   八〇  八〇   一
●長野縣  二二〇 二二〇   二
 宮城縣   三〇 一四三   一
 仙臺醫學   一
 專門學校
 福島縣    七
●岩手縣   三九
 盛岡高等  一〇
 農學校
 靑森縣    一
●山形縣   一二
 北海道   一六
 秋田縣   二七
●兵庫縣  一二二 一二二   一
 石川縣   二九  八四   一
 奈良縣   一八
 和歌山縣  一八
●富山縣   一九
●三重縣   八八 一〇二   一
 愛知縣   一四
●德島縣   一四  八五   一
●愛媛縣   七一

右表中配當人員は中等以上の諸學校職員生徒及小學校敎員並に附添醫師を通しての數とす又其經路は大連上陸々軍官憲に恊議して定むべしとのこと府縣名の上に●印を付したるは醫師の附添あるものゝ符號なり醫師の附添ある府縣と恊議するを要すへしとのことなり
次に又本縣旅行團体者中敎員出身者各郡市別人員數を聞くに南佐久一、北佐久五、小縣七、諏訪二七、上伊那六 下伊那二二、西筑摩四、東筑摩二三、南安曇四、更級一〇 埴科一、下高井六、上水内一〇、下水内二、長野八計一三五外に學生八五にて合計二二〇人なり

(※東京府等の配当人員の合計は95で、人員計96とは不一致。)

2019年5月11日土曜日

戌の満水 盆月1日の墓参りと八間石

八間石
八間石(『東部町誌 自然編』(1988) 51頁より)

8月1日のお墓参りの風習は戌の満水で亡くなった先祖を供養するため始まったという話を聞くことがありますが、「違うよ」と聞くことも度々あります。盆月1日の行事(釜蓋朔日、石の戸 等)が起源であって、戌の満水供養が始まりというわけではないとのこと。

旧暦では7月が盆月で、盆月の1日(7月1日)を釜蓋朔日、石の戸などと呼んで、お墓掃除等のお盆の最初の行事をするところが少なくありませんでした。(1日以外の日にお墓掃除をする地域・家もありました。また、旧暦8月が盆月の地域もあったそうです。)
戌の満水供養は旧暦8月1日頃か、お盆やお彼岸に行っていたのではないでしょうか。(例えば、7月1日墓掃除、7月13日頃お盆、8月1日戌の満水供養、等)
新暦に変わったとき、盆月を新暦8月にして、戌の満水供養を新暦8月1日にすると、盆月1日と戌の満水供養の日が重なります。それで、それまで盆月1日にお墓掃除をしていた家だけでなく、1日以外にお墓掃除をしていた家でも、戌の満水供養を兼ねて、盆月1日(新暦8月1日)にお墓掃除、お墓参りをするようになった、ということではないでしょうか。

丸子町誌と青木村誌の八月一日のお墓掃除についての記述です。(※信州で言う「やきもち」は「おやき」のこと。携帯食でもあるので、旅の食事の意味でお供えするという話も聞いたことがあります。)

『丸子町誌 民俗編』(平成4 1992) 332頁より
仏様を迎えるお墓そうじ  八月一日の朝飯前仕事《あさはんまえしごと》としてお墓そうじがあった。この頃は、農事の忙しいときでもあり、朝のすずしいうちにひと仕事というところであった。
 これはおもに男衆の仕事であり、鎌で墓地への通路や、お墓のまわりの草を刈り、草かきでのびた雑草をけずった。
 女衆は、朝飯に食べるやきもちづくりをした。できたやきもちは先ず仏壇にそなえ、お墓そうじからの帰りを待った。
 この日は、石の戸、または釜のふたがあく日で、石の戸を打ち破って仏様が来るのでやきもちは、かたい方がよいといわれていた。
 仏様は、この日から七日間旅をしてまずお寺につき、そして十三日めにはそれぞれの家について盆を迎えるのだと考えられていた。
 お墓そうじの日は必ずしも八月一日ではなく、西内地区では八月七日に行うというところが多い。塩川の石井では、現在は七月の末日に多く行われているが、ここもかつては八月一日だったという。(以下略)

『青木村誌 民俗・文化財編』(平成6 1994) 36頁より
一 盆の準備
八月一日  盆祭りの朔日といい(入田沢)、盆の開始日としている。また八月一日は石の戸ともよび(全村)やき餅を地獄の石の戸にぶつけて開け、盆に仏様が出かけられるようにする日(夫神)とか、地獄の釜のふたの開く日(沓掛)とかいわれ、石のトオといって朝、焼餅・おやき・まんじゅうをこしらえて仏様に供える。また墓掃除をおこなう。なかには、八月九日に石の戸の焼餅をつくって仏壇に供え、墓掃除をする家、八月一日に焼き餅をつくって仏様に供え、墓掃除は十二日にする(入田沢)家もある。


八間石(はちけんいし はっけんいし)については異論ではないですが、当時の記録はなく、伝承のみのようです。(大雨・土石流しか考えないと盲点になる可能性も。)
今も記録等の材料は見つかっていないようで、以下のページでも「寛保2年(1742)の大洪水で流れついたとの伝承もある」となっていました。

八間石 ハチケンイシ
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=3514


小山真夫『小県郡民譚集』(昭和8 1933)では「この石は寛保二年戌の満水に山ぬけがして字ざざめきより十町余も押し流されてきたものだといっている。(里老)」となっています。

以下は上田中学校『郷土の伝説』の記述です。

上田中学校郷土研究部『郷土の伝説』(昭和9年3月) 62頁より
八間石
禰津村金井區にある。一見五六間の平な石にして、寛保二年の山崩れの時に洪水と共に流れて現地に留まつたと言ふ。此の石の爲縣村加澤部落のみが助かつたと言ふ。事實この洪水に多くの物が流されたとのことである。尚厩尻善福寺の如き部落は禰津村の分なれど、此時流されしもので、後住民は舊に歸り再び彼の地に厩尻部落を興したと傳へてをる


後になって八間石を見て、この石のおかげで自分は助かった?と思う人もいたのかもしれません。(直後は土石だらけで意識しなかったかも)
年月をかけて耕地にして行く中で、八間石も(一部または全部)壊して取り除くこともできたと思うのですが、この石だけ残したのは、堤防になった(なる)と考えたからでしょうか。(流路を狭めたり、せき止めの原因になったり、一概には言えませんが。)

戌の満水の動画です。東御市の所沢川(しょざわがわ)土石流跡地の様子も少し出てきます。(八間石(伝承)が割愛されているのはタイトルに「史実」とあるからでしょうか…)
「戌の満水」の史実を歩く (2017)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2000515100/topg/eizou_inu/inu-mansui.html

2019年5月7日火曜日

吉沢民部について

信濃国小県郡年表より 吉沢民部
『信濃国小県郡年表』(明治17)原稿より

鳥居岩・鶏岩の話に出てくる吉沢氏の名前の変化を本等で調べてみました。
(吉沢、吉澤、芳沢、芳澤は吉澤にまとめ、民部之介、民部介は民部之介にまとめました。)

吉澤民部(古安曽村誌(明治14)、小県郡史(大正11)326,356)
吉澤民部之介光義(小県郡史余編(大正12)485)
同 光綱(村々の歴史 一(昭和62)98、安曽神社現地案内板)
同 第綱(昭和五年 史蹟名勝天然紀念物調査報告 第拾壹輯 小縣郡東鹽田村通稱「地頭木」に就て)
同 義綱(上田小県誌自然編(昭和38)660、村々の歴史 一(昭和62)99、大六のけやき現地案内板)

(子)
義広(上田小県誌自然編(昭和38)660、村々の歴史 一(昭和62)99)
第廣(昭和五年 史蹟名勝天然紀念物調査報告 第拾壹輯 小縣郡東鹽田村通稱「地頭木」に就て)


光義、光綱、第綱、義綱、義広、第廣の各出所は不明です。
光、義、第の略字・崩し字は似ることがあるので誤写がある可能性も。

『小県郡史』(356頁)には、吉澤城について「里傳に弘長年間吉澤民部之に居ると 村誌 又北條陸奥守の子鹽田民部大夫俊時據るとも傳ふ 鹽田古老談」とありました。吉沢民部は元は北条俊時(太平記巻第十「民部大輔俊時」)のことだった可能性も。例えば、館が吉沢にあって「吉沢民部」と呼ばれた時期があったとか。

『信濃国小県郡年表』にも「吉沢民部」がありましたが、永禄11年(10年?)で、吉沢城との関係は不明。出典も未確認です。
上の写真(活字本では53頁)
永禄十一年 海野ヘ出張軍議防戦スヘキ達書ニ渡辺隼人正吉沢民部小山玄蕃佐藤兵庫助宮坂和泉守井出対馬守アリ

同書144頁より
田中 小田中佐太夫(慶長  元和三左平次判物を領)仝左太夫(延宝)
 其家永禄十年八月小田中與七郎直久起請文写ありと云。同年十月小田中若狹守、小宮山丹後守より吉沢民部、渡部隼人、小山玄蕃、佐藤兵庫助、宮坂和泉守、井出対馬守への達書、工藤美作藏此小田中にや

『信濃国小県郡年表』(活字本32頁)には、塩田北条家が福沢、吉沢、工藤、宮沢、幸田の五氏となったという話もあります。関連資料等は不明。前山寺古記?

2019年5月2日木曜日

狐玉(きつねったま)

狐玉(きつねったま) キツネ玉
狐玉(きつねったま)

とっこ館で見た、きつね玉(きつねったま)です。青木層の砂岩ノジュールだと思いますが、このタイプを露頭で見たことはまだありません。

安曽神社の鶏石と鶏岩の祟りの話を書きましたが、きつねっ玉にも由来話や祟り話があって、石の名前と一緒にお年寄りから聞いたことがあります。
由来話は名称から連想される素直?なもの。祟りの話は「山の石を持ち出すと山の神が怒る」「川の石には死者の霊が宿るので持ち帰るのは不吉」と言った話のバリエーションでしょうか。
ただし、青木層の砂岩ノジュールの丸石を祀っているのは見たことがなく、祟りの話は他の種類の石(球状節理の火成岩、ポットホールのドリルストーン等)で、多くの神社にある、御霊代石、子産石、イボ取り石などのイメージを重ねているのかも。(伝承の多元性・不整合の一例?)

きつねっ玉の由来話
山の土の中から、砂を固めて作ったような丸い玉が見つかることがある。これは「きつねっ玉」というもので、昔、お稲荷さんのお使いの狐が、いろいろな術をするときに使った玉だそうだ。真ん丸なものは大人の狐の玉で、小さなものや、いびつなものは子供の狐の玉だそうだ。

きつねっ玉のたたりの話
昔、旅人が山道できつねっ玉を見つけて家に持ち帰った。するとその家では、事故や火事など、悪いことが続いて起きた。これは石のたたりに違いないと、見つけた場所に祠を建てて、きつねっ玉をお祀りすると、悪いことは起きなくなった。ところが、その後も、きつねっ玉はいつの間にか外に転がり出ていて、それを持ち帰ってたたりにあう人がいたということだ。


丸石信仰としては少し特異な、怪異寄りの話でしょうか。狐を連想させる色、形に変化があること、比較的軟らかいため野外では風化して、見る機会がそれほど多くはないことなどが影響しているのかも。

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