2023年12月5日火曜日

上田地域千曲川自然電子図鑑が見つからない?

上田地域千曲川自然電子図鑑
上田地域千曲川自然電子図鑑のトップページ

「上田地域千曲川自然電子図鑑」が見つからず… 消えている?(旧URL http://edu.umic.jp/zukan/)
変更はリニューアル時でしょうか? 「ウェブサイト 34点」とありますが、現状は29? (上田市景観マップとロケ地探訪マップは一覧にはないですが、ページはありました。黙って変更・終了? デジタルアーカイブ事業を担っている所が?)

ホームページ「上田市デジタルアーカイブポータルサイト」をリニューアルしました(2023.6.16)
https://www.umic.jp/umic/topics/2023/post-1740616.html
上田市景観マップ
https://map.umic.jp/
信州上田 ロケ地探訪マップ
https://map.umic.jp/location/


デジタルアーカイブの評価方法、基準、指標 等について、長期利用はもちろん、他にも不十分に感じる点は多いです。 実験的な取り組みを抑制しすぎるのはよくないですが…

致命的になりそうな問題
・最大データ量での運用テストは行っている?(件数増加で利用困難になる?)
・誤情報が非常に多く、"他人まかせ"では訂正が追い付かず、必要な品質を確保できない?

デジタルアーカイブ推進に当たってのガイドライン等
デジタルアーカイブアセスメントツール(ver3.0)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/digitalarchive_suisiniinkai/index.html


2023年11月29日水曜日

大姥石仏の謎

薬師仏・大姥仏の記事(富士山村誌 明治14 1881)
薬師仏・大姥仏の記事(富士山村誌 明治14 1881)


奈良尾石造大姥坐像の銘文について、明治時代の富士山村誌(写し)に読めない文字があったので、実物の写真を探して見たら、普通に読めました…
以前は実物を確認していなかったのでしょうか?
もしかして、石の表面を研磨して刻字し直したという可能性もある?

富士山村誌(明治14 1881)
藥師佛 大姥佛 塔 藥師佛ハ南ノ方富士嶽ノ内字黒谷ノ嶺ニアリ大姥佛ハ黒谷ノ東ニアリ里老ノ傳ニ寛正三年大旱ノ時人民該山ニ登リ雨ヲ祈リテ驗アリ依テ之ヲ建ルト今ニ至テ旱魃ノ年ハ村民登山シテ雨ヲ祈ルヲ例トス
 藥師佛一基 高サ一尺七寸
 大姥佛一基 仝上
  裏ニ
   願主 權大僧都眞海 釆?初 和尚位
   寛正七(年)丙戌五月日ト刻シ
   アリ

富士山村誌(明治14 1881)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1246422/1/572

『小県郡史 余篇』(大正12 1923) 603頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/965787/1/315
二一二六 寛正七年丙戌五月日 石 大姥佛 富士山村富士嶽の中峰 願主大僧都眞海釆初和尚位。

上田情報蔵 解説石造大姥(おおば)坐像(市指定文化財)
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668031
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668033
(背面の写真)
願主
権大僧都真海法印和尚位
寛?七??五月日


「権大僧都~法印」は修験道でよくある名称のようです。
佐加神社に人が集まって大姥仏に雨を祈ったという話もあって、修験道の儀礼の名残りなのでしょうか…

https://kotobank.jp/word/法印-627033
>先達であれば法印権大僧都を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。


2023年10月31日火曜日

長野県地学標本 寄付金の謎

「通俗滑稽信州地質学の話 五無斎復讐心に富む事」(信濃毎日新聞 明治36年1月11日)
「通俗滑稽信州地質学の話 五無斎復讐心に富む事」(信濃毎日新聞 明治36年1月11日)


保科百助(1868-1911)「長野県地学標本」製作での"寄付金破約"の経緯は、今も未調査のまま…
避けては通れない話なので、あまり根拠のない推測ですが、書いてみます。

軍への寄付に備えるように、教員に対して指示・示唆があった可能性は考えられないでしょうか。
・日清戦争(明治27年~28年)では、学校で寄付金を取りまとめることが多く行われました。
・採集旅行(明治34年~35年)は、義和団の乱(明治33年~34年)、日英同盟(明治35年1月30日)の頃。日露戦争は明治37年2月~明治38年10月。
・明治34年5月に採集旅行を開始。夏頃(7月~9月頃?)には資金が枯渇したので、破約は5月~6月の頃でしょうか。(「二ヶ月間許りは長野市の某下宿屋に下宿籠城となりたり僅々数円の下宿料にも究するなり」『信濃毎日新聞』明治36年1月11日1面)
・寄付をしたのは師範学校同窓生等で教育関係者。明治34年4月30日の退職広告で上層部に反感を持たれ、協力しないように圧力をかけられた? そのための口実として軍への寄付の準備が利用されたとか…
・標本頒布の募集でも同様の圧力の恐れがあり、その対策として、皇室への献納を行ったのではないでしょうか。(発案が保科百助かどうかはわかりませんが。)

長野県地学標本の寄付金の謎
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/30556999


『信濃毎日新聞』明治36年1月11日1面より

通俗滑稽信州地質學の話
  五無齋保科百助述
⦅四⦆五無齋復讐心に富む事
孔子《こうし》曰《いは》く怨《うら》みをかくして其人《そのひと》を友《とも》とするは
左丘明《さきうめい》之《これ》を愧《は》づ丘《きう》も亦《また》之《これ》を愧《は》づと五無齋《ごむさい》に
至《いた》つては怨《うら》みある人《ひと》を友《とも》とする事《こと》を好《この》まざ
るのみならず面當《つらあて》に復讐的《ふくしうてき》に一と仕事《しごと》仕事《しごと》
をして見《み》せてやらんと欲《ほつ》するなり前段《ぜんだん》にも
記《しる》し置《お》きたりしが如《ごと》く予《よ》は漫遊《まんいう》の旅費《りよひ》とし
て山禎《さんてい》以下《いか》八九人《にん》の諸君《しよくん》より助力《ぢよりよく》を得《え》て四
百五十圓《ゑん》許《ばか》りの額《かく》に達《たつ》したりければ是《これ》さへ
あればとて大《おほい》に喜《よろこ》び乃《すなは》ち漫遊《まんいう》の途《と》に上《のぼ》りた
り當時《たうじ》予《よ》の心中《しんちう》には口《くち》でこそ四百五拾圓《ゑん》な
れ親子兄弟《おやこきやうだい》の關係《くわんけい》あるに非《あら》ず刎頸《ふんけい》の交《まぢは》りあ
りと言《い》ふにもあらず言《い》はゞ普通《ふつう》一偏《ぺん》の寄附《きふ》
金《きん》や草鞋錢《わろじせん》なり寄附金《きふきん》や草鞋錢《わろじせん》としては少《すこ》
しく巨額《きよがく》なるを感《かん》ず若《し》かず一日《にち》も早《はや》く漫遊《まんいう》
を終《をは》り採集《さいしう》を果《はた》して是《こ》れ等《ら》の人《ひと》に報《むく》ゆると
ころなかるべからずと日毎々々《ひごと/\/\》に金槌《かなづち》を振《ふ》
り廻《ま》はし歩《ある》きたるに標本《へうほん》は愈《いよ/\》集《あつ》まりて愈《いよ/\》
多《おほ》く百種《しゆ》位《くらゐ》にては止《とゞ》まるべくも見《み》えず三百
にも近《ち》かゝらん一日《にち》に一種《しゆ》宛《づゝ》を得《う》るとする
も三百日《にち》を要《えう》すべきに其後《そのご》寄附金《きふきん》は破約《はやく》の
緒《いとぐち》を開《ひら》きたり一昨年《さくねん》の夏頃《なつごろ》は随分《ずゐぶん》究厄《きうやく》に
陥《おちゐ》りたるなり二ヶ月間《げつかん》許《ばか》りは長野市《ながのし》の某《ぼう》下《げ》
宿屋《しゆくや》に下宿籠城《げしゆくろうじやう》となりたり僅々《きん/\》數圓《すうゑん》の下宿《げしゆく》
料《れう》にも究《きう》するなり俸給《ほうきふ》を取《と》り居《を》る身《み》にても
あらば友人《いうじん》を訪《と》ふて借《か》りもしまじを収入《しうにふ》な
き身《み》の金《かね》を借《か》りに行《ゆ》くは返《かへ》すべき目當《みあ》ても
なければ体《てい》のよき乞食《こじき》なり然《しか》らば惡《わ》るロ職《くちしよく》
を辞《じ》して還俗《けんぞく》せんか曰《い》はく否《いな》大《おほい》に否《いな》抑々《そも/\》惡《わ》
る口《くち》の職《しよく》たる何《いづ》れの官省《くわんしやう》よりも辞令《じれい》を受《う》
けたる事《こと》なければ名宛《なあて》を認《したゝ》むるによしなく
名宛《なあて》のなき辞表《じへう》は郵便集配人《いうびんしふはいにん》も大《おほい》に當惑《たうわく》せ
ん然《しか》らば漫遊《まんいう》を繼續《けいぞく》せんか旅費《りよひ》の續《つゞ》かざる
を如何《いかん》せん進退《しんたい》維《こ》れ谷《きは》まりたれども亦《また》つく
/゛\思《おも》ふやう若《も》し此儘《このまゝ》にして打過《うちす》ぎなば世《せ》
人《じん》は予《よ》を何《なん》とか評《ひやう》せん法螺百《ほらひやく》は依然《いぜん》法螺百《ほらひやく》
にして天下《てんか》亦《また》予《よ》と齒《よはひ》せざるに至《いた》らん然《しか》れど
も法螺《ほら》の豫告《よこく》に變《へん》じたる事《こと》歷史上《れきしじやう》其例《そのれい》に乏《とぼ》
しからず新言海《しんぜんかい》に曰《いは》く法螺《ほら》の責任《せきにん》を果《はた》した
るもの之《これ》を豫告《よこく》と云《い》ふ豫告《よこく》なる哉《かな》豫告《よこく》なる
哉《かな》若《し》かず如何《いか》にもして漫遊《まんいう》を終《をは》り採集《さいしふ》を果《はた》
さんにはと例《れい》の山禎《さんてい》に泣《な》き付《つ》き旅費《りよひ》を整《とゝの》え
玆《こゝ》に芽出度《めでたく》二ヶ年《ねん》の漫遊《まんいう》を果《はた》し四百餘種《よしゆ》三
萬餘塊《よくわい》の標本《へうほん》を採集《さいしふ》し終《をは》るに至《いた》りたるなり
是《こ》れ予《よ》が破約者《はやくしや》に對《たい》しての復讐心《ふくしうしん》なり面當《つらあて》
的《てき》行為《かうゐ》なり然《しか》れども予《よ》は今後《こんごは》是等《これら》の諸君《しよくん》に
對《たい》しては感謝《かんしや》の意《い》を表《へう》せねばならぬなり。
そは是《これ》にて寄附金《きふきん》の募集《ぼしふ》すべからざるもの
なること人心《じんしん》の賴《たの》むに足《た》らざるものなる事《こと》と
の眞理《しんり》を發見《はつけん》したり今後《こんご》何等《なんら》の事業《じげふ》を經營《けいえい》
するに當《あた》つても予《よ》はチビ/\したる細《こま》かき
寄附金《きふきん》は募集《ぼしふ》せざるべし他人《たにん》の御影《おかげ》は蒙《かふむ》ら
ざるべし即《すなは》ち今回《こんくわい》破約者《はやくしや》に對《むか》つて發見《はつけん》した
る眞理《しんり》は挙々服膺《けん/\ふくやう》して終生《しうせい》忘却《ぼうきゃく》せざらんこと
を期《き》するものなり然《しか》れども讀者諸君《どくしやしよくん》怨《うら》みも
面當《つらあて》も漫遊《まんいう》を終《をは》り採集《さいしふ》を果《はた》すと同時《どうじ》消滅《せうめつ》し
て跡形《あとかた》もなし五無齋《ごむさい》の心事《しんじ》光風晴月《くわうふうせいげつ》の如《ごと》し

2023年9月29日金曜日

飯島雪堂と飯島寅次郎

『上田案内』(明治40)「飯島雪堂著」「著者兼発行者 飯島寅次郎」
『上田案内』(明治40)「飯島雪堂著」「著者兼発行者 飯島寅次郎」

明治時代の本の『上田案内』(明治40)、『別所温泉誌』(明治33)は、表題に「飯島雪堂 著」「上田 雪堂主人 著」とある一方で、奥付は「著者兼発行者 飯島寅次郎」「著作者兼発行者 飯島寅次郎」となっています。
この「雪堂」は、どうも飯島保作(茂経 花月 等)のことのようです。例えば『別所温泉誌』の「詩歌」に「雪堂 飯島茂経」の名前がありました。
奥付の「著者」とは、飯島寅次郎が書いた部分もあるという意味でしょうか。
あるいは、ここでは、二人で一つの名前を使っているということでしょうか…
誤解しないための説明は何か必要かも。

『上田案内』(明治40)「飯島雪堂著」「著者兼発行者 飯島寅次郎」
https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh043800


『別所温泉誌』(明治33)「上田 雪堂主人著」「著作者兼発行者 飯島寅次郎」
https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh055500

飯島保作(茂経 雪堂 花月 1863-1931)
飯島寅次郎(嬉笑 1866-1909)
※上田情報ライブラリー「地域の文化を支えた人々Part1~Part9」の飯島寅次郎の生年はもちろん誤り。
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/jlib-tosho/4514.html

上田市立図書館 令和5年度貴重資料紹介展
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/ueda-tosho/52191.html

「塩」の地名と塩田庄の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2023/08/blog-post.html
主峰と脇峰?
https://kengaku2.blogspot.com/2023/07/blog-post.html
醤油久保橋の謎
https://kengaku2.blogspot.com/2023/06/blog-post.html

2023年8月30日水曜日

「塩」の地名と塩田庄の謎

青木村当郷塩之入
青木村当郷塩之入(八木貞助「長野縣小縣郡浦里村産の化石哺乳類」(1942)より)

「塩」が付く地名はいろいろありますが、由来も複数あるのではないかと思っています。

以下は、『小県郡史』にある、塩田の地名起源説話です。
前山に例が多くあるようにも読めますが、直接的な「塩」地名は一所だけ。「故に此地を「塩田」と云ふ」という理由付けは曖昧。「伝説構成の時代は極めて新しきを覚ゆ」とも。

『小県郡史 余篇』(大正12 1923) 74頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/965787/1/50

塩田の海。
昔々、神様の代に塩土翁《シホツチノオキナ》が奥州塩釜に往かれて、塩のこしらひ方をお授けになり、お帰りのみぎり塩田に立寄り、和世田神とお二方で又塩のこしらひ方をお授けになった。其頃は塩田平は一面の海で水はまん/\としてゐた。潮水を汲んだ所を「浜場」といって、塩を焼いた所を「釜屋敷」と云ふた。其後に地主の神が多くあらはれて来て、御手洗を「塩野井」と云ひ、其あたりを「塩野間」又は「塩沼」又は「塩野はさま」と云ふて、今に西塩田村の前山に残ってゐる。故に此地を「塩田」と云ふので、中塩田村の小島は其頃中島であって、岩鼻が切れて海の水がひけるに従ひ、だんだん乾いて陸地となった。其荒れ水が埴科郡の坂木の横まくりに打ちあたって其地を壊した。(里伝、塩野神社縁起)

此伝説は地名説名の習俗より出でたるものにして、伝説構成の時代は極めて新しきを覚ゆ。今尚塩に関する類似の地名を求むれば、富士山村字塩の入・中塩田村保野区字塩野・及び塩吹・別所村字塩水・泉田村小泉区字塩野・塩田川原・浦里村越戸区字塩の入・同村浦野区字塩の入等あり、此地方田圃に出づることを今に「沖へ行く」若くは「浦へ行く」といへり。


解説文では「塩の入」(3所)が目立ちます。他に「塩野入」が前山(同書486頁)と舞田にありました。前山以外は、隣接した「塩野」はないようです。
「塩の入」の「塩」は、単純に、山麓でしみ出す水のことを言っているような気もしますが、どうでしょうか… 実際に旱魃でも乾きにくい所かどうかは未確認ですが。


他の可能性としては、牧の関係で、馬が好む場所・水を「塩野」「塩野井」と呼んだという可能性はないでしょうか。
(前山は独鈷山と産川に囲まれているので、草地にして北東をふさげば牧場にできた?)

ちなみに、「天正六年二月 上諏訪造宮帳」(1578)に「三御柱 小縣郡 塩田拾二郷 ~ 魔(前)山郷」とあるのは、「厩山」の誤写の可能性もありそうな…

信濃史料 巻十四(3)
https://adeac.jp/npmh/catalog/mp000014
https://adeac.jp/npmh/viewer/mp000014/1403/?pagecode=75


「塩田庄」の名前の由来はまた別で、外来の可能性もあるように思います。
平安時代に甲斐の三枝氏が別所の常楽寺の別当をしていたらしく(『上田市誌 総説 上田の歴史』(2004))、同じく甲斐の有力氏族に降矢氏がいて、その拠点が甲斐国一宮 浅間神社近くの「塩田」という所。降矢氏か三枝氏の関係者が塩田庄を開発し塩田氏を名乗ったのではないか、という仮説です。(富士山の北30kmの所で、平安時代に何度もあった噴火の影響で各地へ移住する人達もいた?) 産川水系を支配する手塚氏がいたとすれば、塩田庄は湯川水系または尾根川水系で始まったのかも。あるいは最初から諏訪経由で手塚氏とは一体化していた?
(ちなみに「手塚」の由来は大伴氏の拠点の帝塚山(てづかやま)の可能性がある?)

甲斐國志 卷之五 十八
神社部 第四 八代郡大石和筋
一 國立明神 塩田村 黒印神領二石八斗社地 東西十六間 南北三十間 證文ハ上萬力村神主藏ム 社記ニ云所祀國造鹽海ノ足尼ナリ 社中ニ神代杉ノ古株アリ 傍ニ建石或ハ矢石ト稱スルアリ 土人相傳テ曰古天ヨリ矢降リ化シテ石トナル故ニ此ノ邊降矢ヲ氏族トスル者多シト云リ 又一説ニ昔鹽田ノ長者降矢對馬ノ守二金亀ヲ藏ム 一ハ此ニ瘞メ石ヲ立テ金亀明神ト稱シ 一ハ金川ノ上流ニ沈ム 其處ヲ亀淵ト稱ス 藤木ノ域内ナリ 凡旱年ニハ近鄕五拾餘村盡ク蜂城山ニ雩ス然ルニ本村獨リ金川ニ遡リテ亀淵ニ雩スルハ盖此故ナリト云リ

https://www.digital.archives.go.jp/file/1257083.html
https://www.digital.archives.go.jp/img/4393671/17


八木貞助(1879-1951)「長野縣小縣郡浦里村産の化石哺乳類」
地学雑誌 1942 vol.54 (635) p.30-34
https://doi.org/10.5026/jgeography.54.30
(昭和初め、工事中に地下5mから発見されたナウマンゾウ化石等の報告)