2020年12月31日木曜日

日本遺産ストーリー、子供銀行券、ハーメルンの笛吹き男

烏帽子岳
夕暮れの赤烏帽子

BS-TBS「2020 日本遺産スペシャル 列島104の鼓動 今こそ知りたい!日本の記憶」(2020.12.27)の上田市の分を見ました。
レイラインを紹介する地図(鳥瞰図)で、位置が正しいのは別所温泉の一部(安楽寺?)だけで、信濃国分寺は神川の東側の岩下付近へ移動(南東約1km)、生島足島神社は五加の別所線の橋の付近へ移動(北西約800m)しているようでした。
図はイメージ、ということかもしれませんが、結果的に、事実を歪曲して直線状に並んでいるように見せかけ、それで誘客しているのでは?(上田市のPR動画でも同じ図を使用。JARO通報案件?)

地図を見れば、直線でないことは明白ですが… あちこちで絶賛フィルター中?

自治体のブランドイメージが悪化すれば地域全体に影響。計画の精査と受容性調査は、希望的観測は厳禁で、徹底すべきことなのでは。
水源地の不安も影響は大きく、知名度が上がれば悪影響はさらに増大。これも繰り返し検証が必要ではないかと。

主に生島足島神社、別所温泉、信濃国分寺の紹介で、構成文化財以外では、登録有形文化財(建造物)(2006年登録)の旅館花屋が紹介されていました。(南条吉左衛門 等の蚕種業の話は省略。)

別所温泉に限らず、この機会に地元の温泉巡りも良いのではないでしょうか。
安心してというわけには行かないかもしれませんが、地元観光は、今行かないなら、今後も行くことは多分無く、実は今しかないのかも…
(初詣等、年末年始の集まりはさすがに怖いです。時間と場所が限定なので、少しの人出でも集中するのは当然。危機意識少な目になっているかもしれませんし…)

その他、疑問点、不明点など。
「ジエンダイシ」とは?
安楽寺の惟仙・恵仁和尚と常楽寺との関係を示す史料は?(惟仙和尚が幼時常楽寺で学んだという話があり、関係はあったと思いますが)
「中国にも名声の届く」の根拠の史料は?
大日如来像が(密教系の)本堂や塔にあることは特徴的と言える?
常楽寺本尊の妙観察智弥陀如来について「妙観察智とは大日如来の五つの知恵の一つとされる如来」と解説していましたが、常楽寺では同じ説明をしている?(真言宗の概念で天台宗を解釈? 『常楽寺総攬』には「阿弥陀仏の智徳を表す」(26頁)という表現もありました。ちなみに以下の解説も。「天台宗には独特の法冠阿弥陀如来像があり、四種三昧のひとつ、常行三昧を行う道場、つまり常行堂の本尊がそれである。」(78頁))
福田(川辺・泉田地域)の宝池から西の方、川西地域方面の映像に「信州上田 塩田平」と表示されていました。上田市には含まれますし、観光客にとっては区別の必要はないのでしょうけど。塩田地域の池の映像もありました。倉保根池、共有池(ともいけ・きょうゆういけ。ハート池とも。上空からの映像と地上で太郎山方向の映像)など。
岳の幟の紹介のときに夫神岳の映像が無く、独鈷山が表示されていました。(女神岳の三角のような影もありました。)

夕日いろいろ 信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
https://kengaku2.blogspot.com/2020/12/blog-post_19.html

2020年12月25日金曜日

論社と偽因果

科野大宮社 棟札「大宮 生嶋足嶋神社」
科野大宮社 棟札「大宮 生嶋足嶋神社」(UCV「科野大宮社 収蔵品のお披露目」(2019)より)

日本遺産 構成文化財一覧の生島足島神社の解説にある「生島大神と足島大神を祀る神社は全国的にも珍しく」から連想されるのは、江戸時代の社号争いの話です。このときの結果によっては、社号・祭神が入れ替わったり、今も論社が複数あった可能性も。(塩野神社みたいに)
(下之郷明神が生島足島神社の名称を許可されたのが寛政11年(1799)、上本郷の諏訪大明神(明和2年棟札)が泥宮(寛政2年棟札)になったのも同時期で、もしかして一連の動き?)

上田市の科野大宮社が「秋季大祭」2019を開く!
https://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000586745.html

『上田市史 上』(昭和15 1940) 133-134頁より
若し臆測を馳するならば、武田信玄が天文廿二年、下之郷の地に来たりし時、其所に鎮座する神社の名を尋ねた時、下之郷明神と聞き、諏訪神勧請の社と合点して、自分信仰の神なるより、直に社領安堵の状を出したものか、さもなくば、此社人等が、信玄の諏訪神信仰の篤きを知り、諏訪神勧進の社と称して社領の安堵を図りし者か、若し又然らざれば、此当時土地の人は勿論、神主等も何神を祭れるやも知らざるに至り、下之郷名神を下之郷明神と称して奉祀し終に、諏訪明神と誤るに至ったものか、若し延喜の頃より生島足島神社と正しく伝はり来たものならば、寛政の頃に至て神号に就て、他の喙(くちばし)を容るゝ余地のあるべき筈が無いと考へられる。信玄祈願状中の下之郷諏訪法性大明神を、生島足島神社を指した者と為す時は、願状中の下之郷両社とは、諏訪神社の上社下社の両社と云ふ事に成り、生島足島神社は存在を失ふことになる。

生島足島の神社号
 此社の重大儀たる、御遷り神事に拠り、上宮を生島足島二神の社殿、下宮を諏訪神の社殿と為すこと、穏当なるべしと思ふ。此社は、藩政時代の寛政以前の頃は、唯下之郷明神とのみ呼んで居たのであるが、寛政十一年正月十九日、京都吉田家より、生島足島神社の旧号に復する許可を得て、茲に生島足島神社と称する事となった。此時の上田原町問屋日記に
 一、下之郷明神生島足島之神社に相成り、信州二ノ宮小県惣社と唱へ神事有之由に候事
とあれば、此時には、信州二ノ宮で、小県総社と云ふたのである。

神社号の異議
 此神社号に就ては、常田村 今上田市内 大宮神主、川上対馬の故障申立てありしも、寛政十一年、下之郷明神は、生島足島神と認められた。後文化六年再び川上対馬、神社号に就て異議を唱へ、京都表に於て、下之郷神主工藤近江と論争の末、訳《ワケ》(分)社号と為す事となり、常田大宮を生国大明神と称するに協定したが、近江帰村の後、村人社人悉く之に反対し、訳社号を承認せず大騒となった。依て近江は出奔し、訳社号の件は中止と成った。此後天保四年三たび社号の儀に就き、常田大宮神主川上将監が争ふことがあったが、下之郷生島足島神社の社号は、依然変ることは、無かったのである。(生島足島神社史料)


『広報うえだ 令和2年11月』「知ってる?上田市の日本遺産③」等で令和元年10月の百八手に触れていました。このイベント(10月5日)は不都合な偽因果の事例で注目しています。
鳥居の方位にパワーを感じる人達は、不都合な偽因果をどう見るのでしょう。
良いことは信じて悪いことは信じないとか、認知フィルターによって自然に完全スルーできるとか。
多少は気になって、この時期は避けようという話が出てくるとか。

広報うえだ 令和2年 12月(生島足島神社) 11月(百八手)
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/koho/12263.html

安曽神社社叢越しの安曽岡山の写真を独鈷山と呼ぶのはどうなのでしょう。続いてはいますが…

2020年12月19日土曜日

夕日いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー

女神岳に沈む夕日
女神岳に沈む夕日(冬期。Leylineとは無関係)

女神岳に沈む夕日
女神岳に沈む夕日(右は夫神岳)

夫神岳に沈む夕日
夫神岳に沈む夕日(川西地域)

安曽岡山に沈む夕日
安曽岡山に沈む夕日

大六のケヤキに沈む夕日
大六のケヤキ(上田市天然記念物)に沈む夕日

半過岩鼻に沈む夕日?
半過岩鼻(長野県天然記念物)に沈む夕日?(千曲川)

生島足島神社 冬至
生島足島神社西鳥居。冬至日没は女神岳よりも南。この方向に別所温泉は無い(UCV「太陽の線」(1993)より)

生島足島神社参道と泥宮
生島足島神社参道の先は、泥宮よりも南、手塚八幡社付近を通る

21日が冬至で、1週間前後なら夕日の位置は大きくは違わないので(約0.3度の範囲内。太陽の見かけの大きさの約半分)そろそろ生島足島神社の鳥居を見に行こうかと思っています。(結局、行けないかもしれませんが…)

※田んぼ中の道路は、交差車両が見えにくく、ノーブレーキの大事故も起きています。優先側でも身を守るために厳重な注意が必要。

このイベントは直接的には、1年に2日、というか、1年に合計1時間ほど。人数に上限があるかもしれず、もしも盛況ならお稲荷さんみたいに鳥居を増やしてみるとか…

地図を見ても、現実の風景を見ても、この参道の先に別所温泉があるとか、女神岳があるとか、言われた通りに信じて疑わない人も本当にいるのかも…


UCVアーカイブ「太陽の線」(1993 相原文哉氏出演)の録画を見せて頂きました。
それによると、
・国分神社(八幡社)と金堂跡を結ぶ方角は真西より30度南方向
・生島足島神社の参道は真西より約27,8度南向き
・泥宮の本殿の向きは真東より北へ25度 (※実際は26度前後? 本殿と鳥居にズレ?)

国分神社30度、生島足島神社27.5度、泥宮25度で、これらが並ぶ直線の角度は約25度。
つまり、だいたい直線的に並んでいますが、生島足島神社と国分神社の向きは別々で、泥宮だけが生島足島神社と国分神社の方を向いているという状態。(信濃国分寺跡-生島足島神社-泥宮のレイライン(ley line) と、生島足島神社参道のレイライン(夏至冬至の太陽の線(疑似))はズレていて、同じものではないということ。)

このことから考えると、例えば、生島足島神社(参道)と国分神社・国分寺はそれぞれ夏至冬至の太陽を意識して(他の寺社・女神岳とは無関係に)作られた。泥宮は生島足島神社に向けて建立(または再配置)された。3つが直線状に並んだのは偶然。という可能性もあるのではないかと。(立地を決定するほど重要な要因なら、神社内にも影響があるはずですが、信濃国分寺と生島足島神社にはそれが見られません。)


日本遺産はインバウンド向けの観光案内とのことで外国語版があると思いますが(そちらが主?)、「レイライン」は ley line と ray line どちらなのでしょう?
例えば Along the sunray-lines (with a distance of 1 mile or more) とか?

最近の資料で、レイラインを(前置きなしに)「夏至の朝日が照らす光の線」と説明していますが、ley line の元々の意味は土地の(線的な)並びで、言葉に夏至や冬至の意味はなく、厳密に言えば嘘。レイラインを知らない市民や観光客への説明としては不誠実では? 顧客に誤解を与えないように気を配るのは最低限のルールのはず。言葉のプロであるはずのメディア関係者も黙認?

朝日いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
https://kengaku2.blogspot.com/2021/06/blog-post.html

2020年12月11日金曜日

岳の幟、昇り龍と下り龍

岳の幟 神事
岳の幟 神事(布等をお供えする)(UCVレポート2017年7月17日)

『岳の幟の祭礼調査報告書(改訂版)』(昭和57 1982) より引用
Ⅱ 歴史的考察
(中略 ※16頁)
 最後に昭和33年7月15日、県文化財専門委員中村浩氏が「岳の幟」調査のために来町された当時の模様についてお伝えすることにしよう。
 「岳の幟」の行事は7月15日に行なわれるので、中村浩氏はその前夜来町されて柏屋別荘に一泊された、当夜は別荘の主人斉藤房雄氏(当時の氏子総代)から細々と「岳の幟」行事について話を聞かれ、翌15日には午前4時起床、5時には出発された、もうその頃山登りの人達は三々五々、幟を巻いて持参しつゝ登山する姿が見られた。それらの人々は足早に登って行ったが観光課の職員と中村氏一行は2時間余を費して登山した。頂上は相当に拡かった。塩田平を越えて鳥帽子岳、菅平に続く高原が一堂の中に収め得る1.250メートルの頂上は、すばらしい眺めであった。ここには「九頭龍社」の祠があって先ずその神に参拝した 7時を過ぎた頃祭典係の指示に従って参拝の儀式が行なわれ、布幟は二本だけ立てられた。終って神酒が開かれたがこれから山を下り、行列もあるというのでこの神酒開きは2、30分で閉じた。
 一同は祭典係の指示に従って下山したが"幟"は巻いた儘で持って下るものが多かった。然し勢揃いする塩水地籍に到着する頃は竹に幟を巻きつけて、高く掲げて、その場に到着して待ち合わせるのであった。塩水には神主及び氏子総代、祭典係等、登山しなかった一同が待っていて、「岳の幟」の捧持者もこゝで交代した。これからが行列である。(以下略)


山頂では幟は2本だけ立てられた(儀式中?後?)とのこと。もしかして、この2本は「昇り龍」「下り龍」(降り龍)でしょうか。

UCV「岳の幟」(2016年, 2017年)等によると、行列では先頭が昇り龍、最後尾が下り龍の幟。40年ほど昔の写真でも前方に昇り龍の幟が見えました。
それが、日本遺産 構成文化財一覧では「降り龍の幟を先頭に」としている?
(固定化している部分と、していない部分があり、その時々の人の考えで変わる儀礼もあると思いますが、この行列の件はどうなのでしょう…
伝承が不変というのは無理な思い込み。最近変えた部分を安易に文字化すると、固定化・偽史化に繋がるので要注意。)

◆雨乞い祭事「岳の幟」2013 鮮やかな反物で作った幟の行列が、昇り龍の幟を先頭、降り龍をしんがりに温泉街を練り歩く! 長野県 上田市
https://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000420229.html

当時は布を竹に付けずに下山? 現在は山頂の祠に布をお供えして神事を行い、その後、布を竹に付けて下山しているようです。汚れや破損に注意しながら山道を下るのは大変。

「山頂にある九頭竜権現に、竹に反物を付けて幟にしたものを数十本奉納し雨ごい祈願を行う」という解説を見たのですが、出典は何でしょうか?(岳の幟は、布を奉納して神事を行い、その後、幟にして行列するという手順。もしかして夫神地区と混同?)

2020年12月5日土曜日

バーチャル別所線ガイドの動画

上窪池 養魚管理棟
上窪池 養魚管理棟(しおだ町報 昭和33年4月5日)

上田女子短期大学のバーチャル別所線ガイドの動画を見せて頂きました。
対象物をいつどこで見ることができるか曖昧だと、もやもや感が残ることがあるので、案内のどこかに一つ(最後にでも)具体的な場所や時期を入れると良い感じになるかと。例えば、真田氏の品物がこの博物館で見られる、とか、リンゴの花が4月末から5月初め頃に満開になる、とか。
実際に自分の目で見て思ったことを付け加えるのは、印象的でとても良いと思いました。
子供の心に残るような内容(会話、楽器、パペットとか。運行・安全に支障がない範囲で)を増やしてみるのもどうでしょうか。
ものまねをする必要は無く、試行錯誤を楽しんで良いのではないかと。

案内時間は数十秒~1分程度で、質問対応をする余裕はたぶん無く、そういう雰囲気でもなさそう。勉強するのはもちろん良いことですが、資料には誤りや不正確な表現も多いので、結果的に嘘を伝えることにならないようにご注意を。(日本遺産ストーリーの資料にも誤りはあります。出典御無用、メンテナンスの仕組みも体力も無い現状… 地元の記事だから(体験者の証言だから)間違いないだろうと思うのは間違いで、歪曲や誤伝も山ほど。)

塩田平の現在の主なため池の数は41とされています。塩田地域外の池や小さな池も調べれば増えますが。旧塩田町の範囲では、昭和31年128(名前のある池)、38年103(上小地方事務所の調査)、平成11年41(長野県統計資料)。(『農業の文化財 ため池をたずねる』(2000) 94頁、『長野県土地改良史 資料編』(1999) 428-429頁)
とっこ館のホームページで、昭和50年代の溜池施設台帳に「東塩田112、富士山5、中塩田13、西塩田10、別所1の141池」とありますが東塩田だけ極端に多いのは不自然で、もしかしたら112は12の誤り(合計41)かもしれません。(12も誤りかもしれません。) こんなことが普通にある分野です。

レイラインの説明文は破綻していますが… 誤りを妄信されるよりはまだ良いのかも… (「神社仏閣をはじめとする多くの文化財」とは?)
日本遺産ストーリーはタイトルだけ紹介して、中身の説明は(難解すぎて短時間では理解不能なので)省略で良いのでは。
「上田市から塩田平、別所温泉の間」も不思議な表現で、たぶん言葉の意味と意図する範囲は合致していないのでは。

(子供たちに嘘を言わせることがこれからも繰り返されるのでしょうか…
大事なのは自分の目で見て自分の頭で考えること。だまされないで。)

塩田鯉はちょっとユニークな歴史で、高度経済成長の時代(オイルショックまで)、短い間ですが生産量全国一の養鯉産地でした。
初めは理解されず、写真の養魚施設も、鯉つりのお座敷作りではないかと、うたがわれたそうです。(しおだ町報 昭和39年9月5日)

『しおだ町報 昭和33年4月5日』より
上窪池に養魚施設完成 新農事業で
 新農建設事業の一つとして、此頃上窪池に養鯉施設が出来た。塩田町では始めてで施設費は三十一万円、小さな仔鯉から飼育を始め 秋には約三、四寸位にする目的で飼育数は十万匹という。番人小屋、舟、給飼所と施設も全く出来上り、あとは仔鯉を放すのみとなつた。始めての事でもあるので、その成果が、期待されている。

バーチャル別所線ガイド動画配信のご案内
http://www.uedawjc.ac.jp/news_from_jc/2020/news_from_jc2020-05.html
春の花
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/17440.html
農業用ため池データベース
https://www.pref.nagano.lg.jp/nochi/tameike/tameike-database.html
塩田地域合計41 東塩田13(下之郷9 古安曽4) 富士山5 中塩田13(本郷3 小島1 保野2 五加3 舞田2 中野1 八木沢1(※山田池)) 西塩田9(十人2 前山2 山田2 手塚3) 別所温泉1

塩田鯉
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34583135
日本遺産ストーリー 子供銀行券 (日本遺産スペシャル)
https://kengaku2.blogspot.com/2020/12/blog-post_31.html
曲がった直線、裸の王様、袈裟供養
https://kengaku2.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html
日本遺産 ストーリーのデパートメント化
https://kengaku2.blogspot.com/2020/11/blog-post_12.html
日本遺産 レイラインの幅
https://kengaku2.blogspot.com/2020/10/blog-post_15.html
新しい鞍が淵伝説
https://kengaku2.blogspot.com/2020/10/blog-post_27.html

2020年12月1日火曜日

蚕都上田の鉄道遺産、青緑色のペンキ、プテラノドン

昭和初期の上田地域の鉄道(UCV『地図に見る上田地域の変化 道と鉄道はどう変わったか』(2017)より)

日本遺産ストーリーでの名称は「別所線の鉄道施設」ですが、内容的には他の線も含めて「蚕都上田の鉄道遺産」(地域遺産ストーリーまたはサブストーリー?)としてPRしても良いのではないかと。
別所線(上図では黄色の線)は国鉄以外で現存する最後の一本。
全体では龍というより鳥とか翼竜?

上田古地図・絵図デジタルアーカイブ 「上田市及其附近名所図絵」(昭和3 1928)
https://museum.umic.jp/ezukochizu/kingendai/

行ちゃんと辿る日本遺産のストーリー③「未来への懸け橋」
https://www.youtube.com/watch?v=JvRarWgzZgc
(動画中の「かつて、青木村方面との分岐点となった駅。」(下之郷駅)は「丸子方面」?)
※追記:「動画内表記の一部訂正について」で訂正後の文章が明示されていません。(誤りがあると表明しただけで訂正がない? 駅名を訂正しても辻褄が合わないのでは?) また、文字情報だけでなく音声にも同じ誤りがあるのでこれも訂正すべきなのでは?

ストーリー中の「レイライン」「龍」に注目するより、「信州上田」だけ使って、地域遺産ストーリー(広域)とのリンクの整備・充実に注力する方向もあるかも。
(日本遺産ストーリーのレイラインは、生島足島神社の鳥居(昔のレイライン)と別所線(近現代の心のレイライン?)のイメージに限定、極小化して、近隣の地域遺産ストーリーを整備。日本遺産ストーリーのメニューを、極小化したメインストーリーと、多彩なサブストーリー(中身は地域遺産ストーリー)で構成。)

ところで、駅舎や洋館で青緑色の塗装を多く見ますが、あの塗料・顔料の種類や歴史はどうなのでしょうね。文化財の修復はできるだけオリジナルの原材料を使うので、ペンキの研究もあると思いますが、具体的にどこで製造したどういう塗料かという話は、難しいのか、なかなか見つかりません…
幕末の築地ホテル館(丸子の吉池泰助が共同経営者・社長)も緑色の塗装があった?

「蚕都上田」の輝きと未来
23  生糸輸出のはじまり⑬
http://www.weekly-ueda.co.jp/santo/index.html
清水建設 Column
https://www.shimz.co.jp/heritage/column/

未来につなぐ人類の技 Conservation of Industrial Heritage
https://www.tobunken.go.jp/image-gallery/conservation/index.html

2021.6.17 上田電鉄「百載無窮」の新聞全面広告(通常とは別枠?)を見せて頂きました。
丸子線(大正7)、青木線(大正10)、別所線(大正10)、西丸子線(大正15)、北東線(昭和3)の路線図は感慨深いですね。(国鉄路線も(薄くでも)描いても良かったも。人も物も連絡してきたので。鳥がはばたく(踊っている?)姿にも見えて面白さもあると思うのですが、どうでしょうか…)


日本遺産 レイラインの幅
https://kengaku2.blogspot.com/2020/10/blog-post_15.html
新しい鞍が淵伝説
https://kengaku2.blogspot.com/2020/10/blog-post_27.html
日本遺産 ストーリーのデパートメント化
https://kengaku2.blogspot.com/2020/11/blog-post_12.html
曲がった直線、裸の王様、袈裟供養
https://kengaku2.blogspot.com/2020/11/blog-post_15.html
日本遺産ストーリー 子供銀行券 (日本遺産スペシャル)
https://kengaku2.blogspot.com/2020/12/blog-post_31.html