2021年3月2日火曜日

要石の謎

要石と石碑
要石。鹿島社・香取社とは異なり上に出ている。歌の中山 清閑寺の要石のイメージに近い?

要石
細い方を下にして立てた?

石碑と要石の表面
石碑(左)と要石(右)の表面

解説板
解説板

要石の石碑
石碑(明治26年) 

新田義徳の文字
新田純(左)と新田義徳(右)の文字比較。不明瞭ですが同じ特徴。

武高国(たけたかくに)神社の要石(かなめいし)の資料を探してみましたが、今のところあまり見つかっていません。この石をどこで、誰が、どんな理由で選んだのか、上田藩への届出内容、費用等。歌人の斎藤真蔭(まかげ 1799-1875)も関係したのかも。(善光寺地震は弘化4年3月(1847))

当時、塩田平の地理的な中心は本郷と考えられていた?(生島足島神社や五加八幡社ではなく。生島足島神社は日本中央とPRしますが、塩田平の中では東部または鬼門の方角。)
(日本遺産ストーリーでは武高国神社も"1本の直線状"の中? 科野大宮社、五加八幡社、保野塩野神社、塩野入神社、八木沢天満宮 等々 どれも"1本の直線状"?)

要石は見た感じは千曲川の転石、輝石安山岩でしょうか。石碑や柵柱の石材も似ていて、もしかしたら矢沢石かも。石碑の台石は弘法山・安曽岡山付近の流紋岩。(鶏岩と同じ石)

以下、碑文です。(『上本郷のあゆみ』(第二次改訂版 2020)には奇妙な誤り多数。)
「久米由」は久米由太郎(1853?-1898)。「新田純」は新田義徳(子純? 1842-?)だと思います。(久米由太郎の生年月日は、嘉永5年2月24日、嘉永6年2月15日、嘉永6年2月25日などがありました。各出所は未確認。)
書き下し文は誤りがあるかもしれません。

修要石周柵碑
弘化丁未春三月諸圀地大震信中特甚矣當
此時塩田鄉居民畏怖驚駭不安其堵如斯者
數十日父老相議禱于常陸鹿島社且合祀神
位於郷内武高國神社而置片石於祠畔以擬
𫝂謂要石者至誠感孚果有應驗焉後災異既
熄閲年又久焄蒿之典白茅之薦知其由来者
漸将少矣鄉之善士憂焉乃移檄當時各邨醵
貲鳩工以修頺柵其木則換之以石且欲録往
事以告将来是固敦風厚俗之擧有足最善者
也故畧叙其顛末係之以銘其辭曰
   一片之石 曾安斯民
   追往諗来 郷俗維新
 明治二十六年四月中澣
  東都 久米由撰文 信濃 新田純書

要石《かなめいし》周柵《しゅうさく》を修《おさ》むる碑
弘化《こうか》丁未《ひのとひつじ》春三月 諸圀《しょこく》の地《ち》大《おおい》に震《ふる》い信中《しんちゅう》特に甚《はなはだ》し。此時《このとき》に當《あた》り塩田鄉《しおだごう》居民《きょみん》畏怖《いふ》驚駭《きょうがい》して其《その》堵《と》に安《やす》んぜず。斯《かく》の如《ごと》き者 數十日《すうじゅうにち》。父老《ふろう》相《あい》議《ぎ》し常陸《ひたち》鹿島社《かしましゃ》に禱《いの》り、且《かつ》神位《しんい》を郷内《ごうない》武高國神社《たけたかくにじんじゃ》に合祀《ごうし》し而《しか》して片石《へげいし》を祠《ほこら》の畔《ほとり》に置き以《もっ》て𫝂謂《いわゆる》要石《かなめいし》という者に擬《ぎ》す。至誠《しせい》感孚《かんぷ》し果《はた》して應驗《おうけん》有り。後《のち》に災異《さいい》既《すで》に熄《や》み閲年《えつねん》又《また》久《ひさ》し。焄蒿《くんこう》の典《てん》、白茅《はくぼう・ちがや》の薦《せん・こも》、其《その》由来《ゆらい》を知る者 漸《ようやく》将《まさ》に少《すく》なからん。鄉《ごう》の善士《ぜんし》憂《うれ》う。 乃《すなわ》ち當時《とうじ》の各邨《かくむら》に檄《げき》を移《うつ》し貲《し》を醵《つの》り工《こう》を鳩《あつ》め以《もっ》て頺柵《たいさく》を修《おさ》め其《その》木《き》は則《すなわ》ち之《これ》を換《か》うるに石を以《もっ》てし 且《かつ》往事《おうじ》を録《ろく》し以《もっ》て将来《しょうらい》に告《つ》げんと欲す。是《これ》固《まことに》敦風《とんぷう》厚俗《こうぞく》の擧《きょ》、最善《さいぜん》の者に足《た》る有り。故《ゆえ》に其《その》顛末《てんまつ》を畧叙《りゃくじょ》す。之《これ》に係《かか》るに銘《めい》を以《もっ》てす。其《その》辭《じ》に曰《いわ》く
   一片之石《いっぺんのいし》 曾《かつて》安斯民《しみんをやすんず》
   追往《ゆくをおい》諗来《くるをいさむ》 郷俗《きょうぞく》維新《これあらたなり》
 明治二十六年四月中澣《ちゅうかん》
  東都 久米由撰文 信濃 新田純書

(「追往諗来」は「往者は諫めず来者は追うべし」(論語)の逆になっていて、急激に変化する現代では過去を忘れないことも大切、というウィットでしょうか。)

ちなみに武高国神社の向きは南やや西寄りで、鳥居前に立つと正面に弘法山(塩田城)・独鈷山が見えます。起源は不明ですが、塩田北条氏や村上・福沢氏の時代も同じなら、領主の本拠を向いた(北やや東寄りで鬼門に近い方角にある)八幡神社だったことになります。

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