内山峡 肬水(いぼみず)の志賀溶結凝灰岩 |
渋沢青淵先生内山峡之詩 碑より(石材は仙台石(稲井石 井内石)) |
伝説の力石?(加美畑神社) |
NHK大河ドラマ「青天を衝け」では内山峡や香坂峠のエピソードもありそうで、楽しみです。(聖地巡礼で「青天を衝いてみたい」という人もいるでしょうか…)
勢衝青天攘臂躋(勢《いきおい》青天《せいてん》を衝《つ》き 臂《ひじ》を攘《はら》い躋《のぼ》る)
「攘臂」は着物の袂をたすき掛けで縛ったという意味でしょうか。(攘は「はらう」と読んだ可能性が高いかも。) 内山峠を勢いよく登り、しかし、険しさと美しさは一つのもので、人も理想と現実の一方だけでなく両方を思うのが良いというような大人っぽい思索をしたり…
もしも渋沢栄一(1840-1931)の没後の内山峡詩碑(昭和15)まであれば、三石勝五郎も大河に登場? 保科百助もちょっとだけエピソードはありますが可能性はないでしょうね。今回は松平忠優(忠固)(開国派のリーダー。日米和親条約・修好通商条約締結時の老中。徳川斉昭の敵?)、それと田中芳男(1838-1916 幕末パリ万博派遣 「日本の博物館の父」と言われる)はどうでしょう…
上田市付近では藍玉販売、般若経奉納、力石 などの話がありました。(事実かどうか疑問点も。藍を敲く石を持ち上げたという話もあるようですが、藍を叩く石(石臼のこと?)に力石ほど大きなものが本当にあったのでしょうか? 藍を叩く石は他にも残っている?)
塩田町教育委員会『塩田歴史年表』(昭和35 1960) 73頁 より
安政5(1858) この年より四ヵ年渋沢栄一藍玉を小県地方に販売にくる。(八木沢資料)
清水利雄編『小県上田歴史年表』(昭和35 1960) 57頁 より
安政5(1858) 此の年より四ヶ年渋沢栄一藍玉を小県地方に販売に来る矢沢とか丸子神畑にその資料現存する
安政6(1859) 8.18 岩下観音堂盤(※般?)若経の一部渋沢栄一寄進 百日咳祈願とした
『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.208-209 より
上田毎日新聞 第三六四六号〔昭和一三年三月一〇日〕
丁度その時この観音様へ六百巻の大般若経奉納の計画があつたので功徳に感じた栄一氏は父市郎左衛門氏《(市郎右衛門)》の名前で一巻を寄進し巻頭に祖父市郎左衛門安知《(市郎右衛門安知)》の戒名を書いて納めた
『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.101 より
雨夜譚会談話筆記 上・第六―八頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
先生「そう云ふ記憶がない、観音様を信仰する様なこともなかつたが――(中略)由来私は無信心で寧ろ排仏論者である。神様の方はそうでもないが、(以下略)」
(※渋沢栄一に覚えが無く、父、市郎右衛門の名前があるということは、市郎右衛門が奉納し、その話が変化した?)
『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.123 より
上田郷友会月報 第六二〇号・第一五―一七頁〔昭和一三年九月〕
旧幕時代には村々に若者連の集まる場所に力試をする力石と称するものがあつて、今日尚処々に残されて居るものがある、神畑の伝ふる所によれば、翁、青年の際御得意廻りに来られ、村の若者連に参加し此の力石を試みたが、群を抜き若者連一人として翁に及ぶものがなかつたとのことだ。
『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.97 より
御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一二頁〔昭和五―六年〕
「よく若い同志で下肥かつぎの競争をしたが、わしは力があつたのだが、どうも肩が弱くて、いつも残念乍らかなはなかつたよ。」
『渋沢栄一伝記資料』第1巻 第1巻 p.181 より
渋沢栄一伝稿本 第二章・第三〇―三二頁〔大正八―一二年〕
先生は生来の健康に加ふるに筋骨逞しく、膂力人に過ぐ、故に剣道の仕合にも、最後には得物を打捨てゝ敵と組打し、遂に勝を得るを常とせり、然れども相撲には極めて弱かりしといふ。又物を担ふの力は、村中にても一二を争ひ、他人の持て余したる俵などを、如何にも軽ろげに運びしこと屡々なりき、又畠を耕し畦を起すに「進さく」と唱へ、五人程同列にて之に従ふことあり、其折にも先生が先に立ちて働けば他の者は容易ならざる苦痛を感じ「若旦那は強力に任せ無理なる仕事のみして困る」とは、彼等が常に訴へたる繰言なりき。
神畑(かばたけ)村の力石の話は昭和13年(幕末から約70年後)上田郷友会月報の記事で事実かどうかは不明。他に記録がなければ創作や誇張の可能性も。
体力の記録は ちくはぐ? 本人の言葉を信じるなら、力は人並み以上。村で一二というのは誇張(お世辞?)で、力くらべや相撲では順当に勝ち、負けたということ? 明治~昭和の神畑の人にとっては一種の英雄譚?(お世辞や皮肉もあった?)
「神畑のお宮(加美畑(かみはた)神社?)に小泉小太郎力験しの石というのがあったそう」という話を聞いて見に行ったことがありますが、わかりませんでした。石垣や台などに転用された? 上の写真の石は少しそれっぽい感じがして、もしかしたら渋沢栄一も抱えたりしたのかもしれませんが、どうでしょうか…
大河ドラマで力石を担ぐ場面があり、「かわべむら」と言っているようでしたが、もし上田郷友会月報の話なら、小県郡川辺村は明治22年発足で、江戸時代から明治前期は神畑(かばたけ)村のはず。
あの大きさの力石でどれくらいの重さなのでしょう。
山形県庄内地方の「5俵かつぎ」について
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000254061
(観光用写真で2俵はもみ殻だったという話。米3俵でも180キロ…)
上田市誌に江戸時代から昭和まで盛んだった草相撲や力比べの話が少しありました。(石久摩神社近くの川辺小学校でも力石のような石を見たことがありますが未確認です。)
『上田市誌 民俗編(3) 信仰と芸能』(平成14 2002) 176-177頁より引用
二 力石など
一人前を示す力比べ
機械化が進む以前の人力による農耕や山仕事をしていた時代は、力のあることが一人前であることの条件で、それがまた自慢にもなったのです。
築地には、堂庭や火の見櫓《やぐら》の下などに、力石《ちからいし》が残っていますが、大正のころ祭りの夜に若者が集まって、これを持ち上げて力比べをしたといわれています。
上田原の石久摩神社の境内にも、球形に近い一抱えもある石があって、若い衆が力比べに使った石といわれ、何回持ち上げられるか、地面からどこまで持ち上げられるか、大勢で互いに競ったもので、石の表面がつるつるになっています。
石神には、かなり豪傑の若者がいて、石地蔵を抱き上げてお地蔵さんの首を欠いてしまったとか、日向小泉では、道祖神の碑を担いで力比べをしたと伝えられています。
俵を持ち上げる力比べは、上田原で六〇kgの米俵を地面に置いて、続けて何回肩にのせることができるかを競いました。
上塩尻や別所でも、一定の規格の俵を持ち上げたり背負ったりしたようです。越戸では、土を詰めた俵を担いで走り比べをしたといわれます。上本郷では、棹秤《さおばかり》の分銅《ふんどう》上げをしました。
越戸では、大正のころにムラの辻などの広い場所で、天秤棒《てんびんぼう》を押し合って棒押しをしたといわれます。小井田でも、地面に描いた円の中で二人が向き合い、三尺(約九〇cm)ぐらいの長さでやや太目の棒で押し合い、相手を円の外に押し出す勝負をしたとのことです。
上田民俗研究会『上田盆地 第18号』(昭和54.6 1979) 19頁より引用
石雑題 酒井 侅
(中略)
石久摩神社の境内に「力石」というものがある。これは球形に近いひとかかえもある石で、若い衆の力くらべの石であった。
遊びのなかった昔は、若い衆が、お宮へ集った時など、この石を持ち上げて、それぞれの力を競い合った。
何回持ち上げられたとか、どこまで持ち上げられた、など大勢で遊んだので、石の表面が、つるつるになっている。
同じような石が、東部町本海野の白鳥神社にもある。ここの石は四二貫とかで、かんたんには持ち上げることはできない。(以下略)
(※『上田市誌』(2002)の石久摩神社の記述は『上田盆地 第18号』(1979)を基にしたものでしょうか。現状は未確認。文脈から、白鳥神社の力石に似て、それよりは小さいと思われます。)
ちなみに、鎌倉殿の13人 には畠山重忠の他、泉親衡と安念も登場する?(3人は鞍が淵伝説(小泉小太郎伝説)の関係者)
関連して荒船山、内山~下仁田のブラタモリとかもどうでしょうか。例えば、裏街道はなぜ"裏"だったのか? みたいな。(北部より古い火山噴出物で浸食のため険しい?) ただ、地史は難解で不確実な話になるのかもしれませんが。
たび重なる火山活動「本宿陥没」と「妙義火山」
https://www.shimonita-geopark.jp/geosite/geo04.html
兜岩層の化石から日本で初めてのホタル化石が発見されました
https://www.shimonita-geopark.jp/news/press%20relese20210127.html
下仁田町自然史館 研究報告
https://www.shimonita-geopark.jp/shizenshikan/
五郎兵衛記念館 館長の豆知識(2) 渋沢栄一を守り育てた佐久と古文書の世界
https://www.city.saku.nagano.jp/shisetsu/sakubun/gorobekinenkan/mamechisiki/mamechisiki02.html
https://www.city.saku.nagano.jp/shisetsu/sakubun/gorobekinenkan/mamechisiki/mamechishiki10.html
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?01
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK010003k_text
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK010008k_text
田中芳男-『虫捕御用』の明治維新(長野県立歴史館 2017年度 冬季展)
https://www.npmh.net/exhibition/2020/02/-.php
地質ニュース509号(1997.1)
神津俶祐先生の故郷を訪ねて 八木健三
https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1997-01.html
『信濃教育 昭和4年1月』90頁より
五無齋の片鱗 德永晁岷
時は忘れたが、澁澤子爵と成瀬仁藏氏とが、女子大學の基金募集にやつて來た時の事である。例によつて歡迎會が催された。席上に突立つた五無齋は、長野市がかたをつけねばならぬのに其の儘放置して居る事業の幾つかを列擧した。それは長野市が如何に財政上窮迫して居るかを暗示するが爲である。二氏は募集の口を開かずに、倉皇として長野を去つたと云ふ。之を五無齋一世一代の演説と云ふさうである。(以下略)
(※渋沢栄一の歓迎会は明治43年8月長野市でのこと。『信濃公論』明治43年8月20日、9月15日に「渋沢男爵一行 歓迎会席上」の記事があります。)
(※五無斎関係の未公開資料で「公表しないでね」と言われることがあって、たいていは個人情報・権利関係(入手経緯不明品とか)か裏付けがないケース(ガセっぽい とは言いにくそうだったり)なのですが、ある件を研究者の方が記事に書かれたので、裏が取れたのかと思ってその方に問い合わせてみたら未確認だったようで(歓喜バイアスで検証無し?)、後で「伝」が追加されました。伝かどうかも疑わしい話でしたが… 誰がいつ何を伝えたのか、対象物の伝来経路等、できる限りの事実確認が必要で、考察はそれから。不確かな話を公表するのは、関係者には苦痛になるケースも。
新聞等の断片的・一方的な情報から憶測が大量発生。真面目に考えているとしても、自分が憶測で批判される側になったらどうか、想像できない? 全公開が不可なのはお互い様。「当たり前」の押し付け合いと情報不足で、相互に不信感を与えて、個々に都合の良い話を選択していたり…)
(以前からお世話になっている方が実は事情があって遠方に転居中とのこと… 知らずにメールで面倒なことをお願いして甘えていました。相手の状況を確認せず勝手な思い込みによる言動を反省)
信州レイライン
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別所神社、縁結びの謎
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