2021年2月17日水曜日

志賀溶結凝灰岩(佐久石)、渋沢栄一、力石

内山峡 肬水の志賀溶結凝灰岩
内山峡 肬水(いぼみず)の志賀溶結凝灰岩

渋沢青淵先生内山峡之詩 碑
渋沢青淵先生内山峡之詩 碑より(石材は仙台石(稲井石 井内石))

伝説の力石?
伝説の力石?(加美畑神社)

NHK大河ドラマ「青天を衝け」では内山峡や香坂峠のエピソードもありそうで、楽しみです。(聖地巡礼で「青天を衝いてみたい」という人もいるでしょうか…)
勢衝青天攘臂躋(勢《いきおい》青天《せいてん》を衝《つ》き 臂《ひじ》を攘《はら》い躋《のぼ》る)
「攘臂」は着物の袂をたすき掛けで縛ったという意味でしょうか。(攘は「はらう」と読んだ可能性が高いかも。) 内山峠を勢いよく登り、しかし、険しさと美しさは一つのもので、人も理想と現実の一方だけでなく両方を思うのが良いというような大人っぽい思索をしたり…
もしも渋沢栄一(1840-1931)の没後の内山峡詩碑(昭和15)まであれば、三石勝五郎も大河に登場? 保科百助もちょっとだけエピソードはありますが可能性はないでしょうね。今回は松平忠優(忠固)(開国派のリーダー。日米和親条約・修好通商条約締結時の老中。徳川斉昭の敵?)、それと田中芳男(1838-1916 幕末パリ万博派遣 「日本の博物館の父」と言われる)はどうでしょう…

上田市付近では藍玉販売、般若経奉納、力石 などの話がありました。(事実かどうか疑問点も。藍を敲く石を持ち上げたという話もあるようですが、藍を叩く石(石臼のこと?)に力石ほど大きなものが本当にあったのでしょうか? 藍を叩く石は他にも残っている?)

塩田町教育委員会『塩田歴史年表』(昭和35 1960) 73頁 より
安政5(1858) この年より四ヵ年渋沢栄一藍玉を小県地方に販売にくる。(八木沢資料)

清水利雄編『小県上田歴史年表』(昭和35 1960) 57頁 より
安政5(1858) 此の年より四ヶ年渋沢栄一藍玉を小県地方に販売に来る矢沢とか丸子神畑にその資料現存する
安政6(1859) 8.18 岩下観音堂盤(※般?)若経の一部渋沢栄一寄進 百日咳祈願とした

『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.208-209 より
上田毎日新聞 第三六四六号〔昭和一三年三月一〇日〕
丁度その時この観音様へ六百巻の大般若経奉納の計画があつたので功徳に感じた栄一氏は父市郎左衛門氏《(市郎右衛門)》の名前で一巻を寄進し巻頭に祖父市郎左衛門安知《(市郎右衛門安知)》の戒名を書いて納めた

『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.101 より
雨夜譚会談話筆記 上・第六―八頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
先生「そう云ふ記憶がない、観音様を信仰する様なこともなかつたが――(中略)由来私は無信心で寧ろ排仏論者である。神様の方はそうでもないが、(以下略)」

(※渋沢栄一に覚えが無く、父、市郎右衛門の名前があるということは、市郎右衛門が奉納し、その話が変化した?)

『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.123 より
上田郷友会月報 第六二〇号・第一五―一七頁〔昭和一三年九月〕
旧幕時代には村々に若者連の集まる場所に力試をする力石と称するものがあつて、今日尚処々に残されて居るものがある、神畑の伝ふる所によれば、翁、青年の際御得意廻りに来られ、村の若者連に参加し此の力石を試みたが、群を抜き若者連一人として翁に及ぶものがなかつたとのことだ。

『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.97 より
御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一二頁〔昭和五―六年〕
「よく若い同志で下肥かつぎの競争をしたが、わしは力があつたのだが、どうも肩が弱くて、いつも残念乍らかなはなかつたよ。」

『渋沢栄一伝記資料』第1巻 第1巻 p.181 より
渋沢栄一伝稿本 第二章・第三〇―三二頁〔大正八―一二年〕
先生は生来の健康に加ふるに筋骨逞しく、膂力人に過ぐ、故に剣道の仕合にも、最後には得物を打捨てゝ敵と組打し、遂に勝を得るを常とせり、然れども相撲には極めて弱かりしといふ。又物を担ふの力は、村中にても一二を争ひ、他人の持て余したる俵などを、如何にも軽ろげに運びしこと屡々なりき、又畠を耕し畦を起すに「進さく」と唱へ、五人程同列にて之に従ふことあり、其折にも先生が先に立ちて働けば他の者は容易ならざる苦痛を感じ「若旦那は強力に任せ無理なる仕事のみして困る」とは、彼等が常に訴へたる繰言なりき。


神畑(かばたけ)村の力石の話は昭和13年(幕末から約70年後)上田郷友会月報の記事で事実かどうかは不明。他に記録がなければ創作や誇張の可能性も。
体力の記録は ちくはぐ? 本人の言葉を信じるなら、力は人並み以上。村で一二というのは誇張(お世辞?)で、力くらべや相撲では順当に勝ち、負けたということ? 明治~昭和の神畑の人にとっては一種の英雄譚?(お世辞や皮肉もあった?)
「神畑のお宮(加美畑(かみはた)神社?)に小泉小太郎力験しの石というのがあったそう」という話を聞いて見に行ったことがありますが、わかりませんでした。石垣や台などに転用された? 上の写真の石は少しそれっぽい感じがして、もしかしたら渋沢栄一も抱えたりしたのかもしれませんが、どうでしょうか…
大河ドラマで力石を担ぐ場面があり、「かわべむら」と言っているようでしたが、もし上田郷友会月報の話なら、小県郡川辺村は明治22年発足で、江戸時代から明治前期は神畑(かばたけ)村のはず。

あの大きさの力石でどれくらいの重さなのでしょう。
山形県庄内地方の「5俵かつぎ」について
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000254061
(観光用写真で2俵はもみ殻だったという話。米3俵でも180キロ…)

上田市誌に江戸時代から昭和まで盛んだった草相撲や力比べの話が少しありました。(石久摩神社近くの川辺小学校でも力石のような石を見たことがありますが未確認です。)

『上田市誌 民俗編(3) 信仰と芸能』(平成14 2002) 176-177頁より引用
二 力石など
一人前を示す力比べ
 機械化が進む以前の人力による農耕や山仕事をしていた時代は、力のあることが一人前であることの条件で、それがまた自慢にもなったのです。
 築地には、堂庭や火の見櫓《やぐら》の下などに、力石《ちからいし》が残っていますが、大正のころ祭りの夜に若者が集まって、これを持ち上げて力比べをしたといわれています。
 上田原の石久摩神社の境内にも、球形に近い一抱えもある石があって、若い衆が力比べに使った石といわれ、何回持ち上げられるか、地面からどこまで持ち上げられるか、大勢で互いに競ったもので、石の表面がつるつるになっています。
 石神には、かなり豪傑の若者がいて、石地蔵を抱き上げてお地蔵さんの首を欠いてしまったとか、日向小泉では、道祖神の碑を担いで力比べをしたと伝えられています。
 俵を持ち上げる力比べは、上田原で六〇kgの米俵を地面に置いて、続けて何回肩にのせることができるかを競いました。
 上塩尻や別所でも、一定の規格の俵を持ち上げたり背負ったりしたようです。越戸では、土を詰めた俵を担いで走り比べをしたといわれます。上本郷では、棹秤《さおばかり》の分銅《ふんどう》上げをしました。
 越戸では、大正のころにムラの辻などの広い場所で、天秤棒《てんびんぼう》を押し合って棒押しをしたといわれます。小井田でも、地面に描いた円の中で二人が向き合い、三尺(約九〇cm)ぐらいの長さでやや太目の棒で押し合い、相手を円の外に押し出す勝負をしたとのことです。


上田民俗研究会『上田盆地 第18号』(昭和54.6 1979) 19頁より引用
石雑題  酒井 侅
(中略)
 石久摩神社の境内に「力石」というものがある。これは球形に近いひとかかえもある石で、若い衆の力くらべの石であった。
 遊びのなかった昔は、若い衆が、お宮へ集った時など、この石を持ち上げて、それぞれの力を競い合った。
 何回持ち上げられたとか、どこまで持ち上げられた、など大勢で遊んだので、石の表面が、つるつるになっている。
 同じような石が、東部町本海野の白鳥神社にもある。ここの石は四二貫とかで、かんたんには持ち上げることはできない。(以下略)

(※『上田市誌』(2002)の石久摩神社の記述は『上田盆地 第18号』(1979)を基にしたものでしょうか。現状は未確認。文脈から、白鳥神社の力石に似て、それよりは小さいと思われます。)

ちなみに、鎌倉殿の13人 には畠山重忠の他、泉親衡と安念も登場する?(3人は鞍が淵伝説(小泉小太郎伝説)の関係者)

関連して荒船山、内山~下仁田のブラタモリとかもどうでしょうか。例えば、裏街道はなぜ"裏"だったのか? みたいな。(北部より古い火山噴出物で浸食のため険しい?) ただ、地史は難解で不確実な話になるのかもしれませんが。

たび重なる火山活動「本宿陥没」と「妙義火山」
https://www.shimonita-geopark.jp/geosite/geo04.html
兜岩層の化石から日本で初めてのホタル化石が発見されました
https://www.shimonita-geopark.jp/news/press%20relese20210127.html
下仁田町自然史館 研究報告
https://www.shimonita-geopark.jp/shizenshikan/

五郎兵衛記念館 館長の豆知識(2) 渋沢栄一を守り育てた佐久と古文書の世界
https://www.city.saku.nagano.jp/shisetsu/sakubun/gorobekinenkan/mamechisiki/mamechisiki02.html
https://www.city.saku.nagano.jp/shisetsu/sakubun/gorobekinenkan/mamechisiki/mamechishiki10.html
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?01
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK010003k_text
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK010008k_text

田中芳男-『虫捕御用』の明治維新(長野県立歴史館 2017年度 冬季展)
https://www.npmh.net/exhibition/2020/02/-.php

地質ニュース509号(1997.1)
神津俶祐先生の故郷を訪ねて 八木健三
https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1997-01.html

『信濃教育 昭和4年1月』90頁より
五無齋の片鱗 德永晁岷
時は忘れたが、澁澤子爵と成瀬仁藏氏とが、女子大學の基金募集にやつて來た時の事である。例によつて歡迎會が催された。席上に突立つた五無齋は、長野市がかたをつけねばならぬのに其の儘放置して居る事業の幾つかを列擧した。それは長野市が如何に財政上窮迫して居るかを暗示するが爲である。二氏は募集の口を開かずに、倉皇として長野を去つたと云ふ。之を五無齋一世一代の演説と云ふさうである。(以下略)

(※渋沢栄一の歓迎会は明治43年8月長野市でのこと。『信濃公論』明治43年8月20日、9月15日に「渋沢男爵一行 歓迎会席上」の記事があります。)

(※五無斎関係の未公開資料で「公表しないでね」と言われることがあって、たいていは個人情報・権利関係(入手経緯不明品とか)か裏付けがないケース(ガセっぽい とは言いにくそうだったり)なのですが、ある件を研究者の方が記事に書かれたので、裏が取れたのかと思ってその方に問い合わせてみたら未確認だったようで(歓喜バイアスで検証無し?)、後で「伝」が追加されました。伝かどうかも疑わしい話でしたが… 誰がいつ何を伝えたのか、対象物の伝来経路等、できる限りの事実確認が必要で、考察はそれから。不確かな話を公表するのは、関係者には苦痛になるケースも。
新聞等の断片的・一方的な情報から憶測が大量発生。真面目に考えているとしても、自分が憶測で批判される側になったらどうか、想像できない? 全公開が不可なのはお互い様。「当たり前」の押し付け合いと情報不足で、相互に不信感を与えて、個々に都合の良い話を選択していたり…)

(以前からお世話になっている方が実は事情があって遠方に転居中とのこと… 知らずにメールで面倒なことをお願いして甘えていました。相手の状況を確認せず勝手な思い込みによる言動を反省)

信州レイライン
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別所神社、縁結びの謎
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日本遺産ストーリー、子供銀行券、ハーメルンの笛吹き男 (日本遺産スペシャル)
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新しい鞍が淵伝説
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夕日いろいろ 信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
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曲がった直線、裸の王様、袈裟供養
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日本遺産 レイラインの幅
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日本遺産 ストーリーのデパートメント化
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バーチャル別所線ガイドの動画
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2021年2月12日金曜日

信州レイライン

生島足島神社 東鳥居
生島足島神社東鳥居。正面の朝日の写真は1枚もなく、どれも斜めから?

生島足島神社西鳥居・参道
西鳥居正面。烏帽子岳の北の方角。夏至の太陽は烏帽子岳の南に出る?

東鳥居での夏至の日の出の位置
東鳥居での夏至の日の出の位置(推定。写真は冬)

泥宮 夏至の日の出
泥宮での夏至(翌日)の日の出。烏帽子岳山頂よりも南(UCV「太陽の線 夏至編」1994)

泥宮鳥居 夏至の日の出
夏至の太陽が中央に出るのは生島足島神社ではなく泥宮?(UCV「太陽の線 夏至編」1994)

月刊ムー3月号に信州レイラインの記事があると教えて頂き、ウェブにある地図を見たら、生島足島神社、信濃国分寺跡、別所温泉の位置は良いのですが、その他は(主に南側に)ずれているようでした。生島足島神社はもう少しだけ西。大日孁神社は図の線よりも北。(図のレイラインの角度は約24度)
上田市の資料でも、BS-TBS 日本遺産スペシャルでもそうでしたが、レイラインの話なのに、正確な位置を誰も確認していない?(レイラインの話だから?)
(※2月24日 BS-TBS 彩~日本遺産~ でも12月27日と同様のアバウト地図でした。地元施設や上田市行政チャンネルで同様の動画を流しているそうで、中身を気にする人はいないのかも。ガイドも観光客も知れば知るほど気付くと思うのですが、フェイクも含めて楽しむということが本当にできるのでしょうか。インチキは恥でしかないのでは…)

どうしても日本遺産の看板がほしかった?
本当に郷土をオカルト聖地にしたい?
いざとなれば、知らなかった、だまされた、自分たちも被害者、で責任回避?(デジャブ…)

月刊ムーの記事には別所温泉の内容は無く、名前が冒頭と地図(別所温泉を通らないレイライン)と展望写真の3か所にあるだけ、とのこと。

上田市の日本遺産ストーリーの資料には「約30度」のような具体的な数字はなかったと思います。別所温泉がレイライン上にあるという設定?なので、位置・方位は曖昧にして、相手に補完させる手法? (別所温泉ウェブサイトの文章では「直線」ではなく「導く」等の言葉でレイラインを表現?していました。もしかして「直線」は迷惑?)

最近見た別所温泉や塩田地域の資料でも、生島足島神社の線が別所温泉を通らない図を使っていました。日本遺産ストーリーの文章だけが宙に浮いた(梯子を外された)ような状態?


アバウト地図(もし意図的な印象操作ならインチキ地図)は上田市公認?(上田市行政チャンネル 動画 2021.3.17)
(鳥居と夕日の映像は日付が不明。夕日が北寄りで、冬至の約3~4週も前か後?)
(生島足島神社を大地や太陽信仰の「中心」とするのは直観とは矛盾します。平野の端の方にあって、朝日を見るには東側の山に近すぎ。日の出は塩田平では遅い方。例えば「東方の標識」の方が感覚的には自然。)
the Ray Lines も公式? 別所温泉活性化プロジェクトのウェブサイトでは ley line でしたし、昨年の講演会でも RAY LINE ではない とのことでしたので、変更された? あるいは Ley Line との併用? あるいは「Ley Line ではない、独自概念だから曲がった直線でも問題ない」という理屈にまでなる?(twitterアカウントは leyline にしたようで… これも、こまけぇこたぁいいんだよ?)

地図も正確に示せないのに、日の出・日の入位置を実証的に説明できる?
(正確な部分を示すと、曖昧な部分を否定してしまうというジレンマ。)
シンボルのように使われる"斜め鳥居"(斜めから見た鳥居と朝日の写真)は、鳥居を朝日に向ける意図が無かったことの証拠なのでは?
おおよそ東の方に信濃国分寺、西の方に別所温泉があるというだけなら、何が特別?

追記:今年は曇りが多かったので、これまでの観察も合わせて、生島足島神社の夏至の日の出の位置を推定してみました。(上の写真)
東鳥居では右の柱近くの鉄塔の左。落葉樹の丸いシルエットが2つ並んで間に松?が見える付近のようです。(※位置を訂正しました。地図: 鉄塔 日の出位置の松? ウェブの写真:道と川の駅事務局の方 市議の方 山稜が底辺、太陽の中心が頂上、頂上の角度が約36度、右が直角の三角形の左の頂点の位置)
鳥居から西へ離れると太陽は右へ移動して十数m?で鳥居の外へ。反対に鳥居に近付くと太陽は右から中央へ寄ってきますが、鳥居が視界からはみ出します。
前提無しに素直に見れば「鳥居の中の右から上がる」等が妥当で、「鳥居の真ん中から上がり」(日本遺産ストーリー)が正しいとは言えないかと。(これと斜め鳥居の組み合わせは、誤解・不快感を与えるリスクもあるのでは…)


上田市の日本遺産の問題点
1. 信濃国分寺-生島足島神社-別所温泉は一本の直線状に配置されてはいない。地図を見れば明白。(「この地が"特別"であると伝えるために"おおよそ"直線状に配置した」という、矛盾したヘンテコなストーリー?)
2. パンフレットの地図では位置と線の幅・角度を曖昧にしてごまかしている。PR動画では位置を動かして、直線状に偽装している。(嘘の連鎖は今後も続く?)
3. 夏至の朝日が生島足島神社の東鳥居の真ん中から上がるというのは、斜めから見ればの話で、鳥居は朝日に向けられてはいない? また、生島足島神社に夏至の朝日が届くのは塩田平では最後の方で、信濃国分寺はさらにその後。別所温泉の日の出の時刻にはどちらもまだ山の影の中で朝日は届いていない。「朝日が照らす光の線」「レイラインがつなぐ」の意味が不明。(日の出が遅い所からやってきて「この光は(アバウトに見れば)こちらの方角から来た特別な光だからありがたく思え」と要求する変な人?)
4. 根拠を示さずに、大日如来像とレイラインの関係を繰り返し強調。(大日如来像を見つけたらすべてレイラインに結び付けようとする。仏教からも離れた新たな教義に近いのでは? 大日如来像が各地に存在することは、大日如来像とレイラインの関係性が低いことを示唆します…)
5. 日本遺産関係の誤りを訂正する制度・体制が不明確。(現状は無検証で、誤情報を放置・拡散中。誰も内容に責任を持たない? 日本遺産制度には品質保証の規定はある? 審査・認定された件なので、誤解を招く表現があったから(問題になる前に)一部修正したい、と言えば、簡単には切り捨てにくい気もしますが… 文化庁の審査も不思議で、誰がどんな審査・評価をしたのか、資料があるなら見てみたいです… (認定されなかった所はどうやって納得している?))


上田市の2つのレイライン
1つは 信濃国分寺跡-生島足島神社-泥宮-女神岳 のライン。(東西の傾き約25度) 部分的には古くから考えられていたと思いますが、仮説の最初のまとめはたぶん相原文哉氏の「太陽の線」(昭和58 1983)。(ただし、日の出・日の入や社殿・参道の方向と単純に一致するわけではなく、不明確な部分も。)
2つめのラインは、この「太陽の線」に別所温泉を加えたもの。別所温泉活性化プロジェクト(2014~)が考案。別所温泉は「太陽の線」の上には無いので関連付けが必要。以下の手法の混合か?
(1)近さによる関連付け。(同じ塩田平にある温泉地) 妥当性〇 訴求力△
(2)直線以外の関連付け。(風水、龍穴等) 妥当性△ 訴求力△(一部には高評価?)
(3)太陽の線を帯状に変更し別所温泉を含める。(日本遺産ストーリーのレイライン) 妥当性△(×に近い?) 訴求力?

※別所温泉活性化プロジェクト(別所温泉観光協会、別所温泉旅館組合、別所温泉自治会連合会、長野大学、上田市 観光課・交通政策課、上田観光コンベンション協会、㈲信州観光バス、上田電鉄㈱)

上田市の別所温泉観光協会や上田電鉄などがつくる「別所温泉活性化プロジェクト」と長野大学が「信州の魅力発見シンポジウム」を開催 (2015年07月27日記事)
https://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000475976.html
(上記記事より引用)
同プロジェクトは別所温泉に新たな顧客層を呼び込もうーと早朝ヨガや太極拳、護摩体験など、苦を祓う「デトックス」と気や光のパワーを取り込む「チャージ」をキーワードに旅行商品を開発している。


令和元年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果の発表及び認定証の交付について(令和元 2019年5月20日)
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1416977.html
(※認定されなかった上田市のテーマ「青空と蚕が紡いだ「映画のまち」信州上田 ~大正浪漫を守り伝える真田の「表裏比興」の精神~」)

令和元年度上田市教育委員会定例会
https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/kyoiku/2517.html
令和元年12月18日 定例会「今年、これからの日本遺産のストーリーについて組立をしているところである。」
令和2年1月22日 定例会
(※令和2年1月24日が申請受付最終日。1か月前に作成中という報告、2日前の会議で資料差し替え(テーマが現在と異なり、この後も変更した?)、というあわただしい状況。レイライン自体の検証を十分に行える状況になかった? もしかして推敲の過程で、曖昧にしていた部分が単純化されて明確な虚偽になった?)

『週刊うえだ 令和2年9月26日』5頁より引用(『信濃路 昭和58年7月』相原文哉氏「太陽の線」の記事について)
二か月前、五月に発行された「信濃路」の塩田平の特集のために書かれた原稿でしたが郷土史家の反対で次の号に。当時まだ塩田平の研究は、この説を受け入れるほど進んでいませんでした。

(※38年前、太陽の線の仮説に懐疑的な人が少なからずいたようです。7年前、別所温泉活性化プロジェクトが旅行商品に取り入れるまで地域では特に進展は無かった? 現在はどうなのでしょう? ウェブでは6月の認定直後に批判的な反応があり、11月に批判記事が出て、擁護は無く、公式周辺は無対応、認知度・評価を調査して報告は無し?  … ウィルス禍でそれどころではなく、関心も危機感も低迷中?)


朝日いろいろ、信州上田・塩田平の日本遺産ストーリー
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別所神社、縁結びの謎
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日本遺産ストーリー、子供銀行券、ハーメルンの笛吹き男 (日本遺産スペシャル)
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新しい鞍が淵伝説
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Japan Heritage fake ley line
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2021年2月5日金曜日

別所神社、縁結びの謎

別所神社鳥居の扁額「本朝縁結大神」
別所神社鳥居「本朝縁結大神」(元は「正一位熊野三社大権現」)

本殿背面の3つの祠 飛宮社?
本殿背面の祠は飛宮社?

中央の祠の文字板「賀茂御祖大明神 飛宮大明神 賀茂別雷大明神」?
中央の祠の文字板「賀茂御祖大明神 飛宮大明神 賀茂別雷大明神」?

飛宮御玉石
飛宮御玉石(甲田三男著『上田盆地1600万年をめぐる』(2005) 31頁)

左の祠の柱の文字
左の祠の柱の文字「疱瘡之守」?

本殿階段下の男石?
本殿階段下の男石?(もしかして北向観音 男石明神から?)

別所神社(上田市)の本殿背面の祠について質問を頂き、調べてみたら、どうも謎な話が流通しているようです… (上のカラー写真は頂きもの。冬期や雨後は境内は泥でぬかるむので足元に注意。周辺は雑木で荒れている所もあって景観は期待しすぎないで、とのこと。)
(※露出度を上げるならもっと整備しないと、訪れて怒り出す人がいないか心配になるレベル…)

・本朝縁結大神は別所神社(熊野神社)のことです。(つまり、本朝縁結大神の祠=別所神社本殿。) ただし明確な一次史料は見つからず。
・本殿背面の祠は、おそらく、飛宮(とびのみや・とんびのみや)社。(または中央1つだけ? しかし複数社とすると中央だけ祠の形が異なるのは不自然…)
・本殿背面の中央の祠に文字板があり、不明瞭ですが、右から
賀茂御祖大明神(かも みおや だいみょうじん 下賀茂神社)
飛宮 大明神(とびのみや・とんびのみや だいみょうじん)
賀茂別雷大明神(かも わけいかづち だいみょうじん 上賀茂神社)
と読めます。丸石(少し扁平?)に「飛宮御玉石」の文字があります。祠の柱にも文字が見えて、左の祠の右柱「疱瘡(之守?)」、他の柱は判読できず。
賀茂祠から飛宮社になり、明治32年別所神社境内に移した、という話があります。(『別所村誌』(明治14年)、飯島寅次郎『別所温泉誌』(明治33年))
※『上田市誌 文化財編』や「日本遺産 構成文化財一覧」で本殿背面の祠を本朝縁結大神としているのは根拠が不明、不合理?(岳の幟の調査報告書等を否定するだけの根拠がある?)

・別所神社境内の祠に男石、女石、子種石があるという話は、観光案内の他には見つけられず、具体的にどこにあるのか、わかりませんでした。陰陽石があっても不思議はないですが、確認・報告されているでしょうか? (陰陽石・石棒等は古代に限らず、近世のものも多いのかも。)
・本殿の垣根の中に自然石の男石が立てられている、という話は聞いたことがありますが、現在は見当たらず。本殿の階段の下にある石がその男石ではないか、とのこと。

・別所神社(熊野神社)は「相染川 結神社」とも呼ばれたとの伝承があります。しかし、陰陽石の話は見当たらず、石が由緒かどうか不明。男(夫)神岳・女神岳からの川の合流点にあったこと、祭神がイザナミ・イザナギであることが、縁結びの神社と言われた主な理由ではないでしょうか。
(別所は「別れる所」という風評があるそうで、その対策として「結神社」「本朝縁結大神」のような別名が作られてきた?(江戸時代から現代まで?))
毘蘭樹(びらんじゅ 表記は美欄樹など)は、結の神社の神木が洪水で流されてきたものと言われています。その後、サイカチに替わり、願掛けの木とされ、現在は比蘭樹という地名が残っています。(瀬下敬忠『塩田の道草』(明和4年 1767)、『信濃国小県郡出浦郷別所七久里温泉並名所畧記』『信濃奇勝録』等)

『岳の幟の祭礼調査報告書(改訂版)』(昭和57 1982) より引用
Ⅱ 歴史的考察
(中略 ※14頁)
 次に「岳の幟」の最後の収め所として、現在は別所神社を充当しているので、このことについて、少し触れてみることにしよう。
 長野県町村誌(明治14年5月)によれば、別所神社(村社)
 社地東西37間、南北35間
 面積 4反3畝5歩
 祭神、伊弉諾尊
    伊弉冊尊
    速玉之男命
    泉津事解男命
  相殿 素盞鳴尊
 里伝、建久年間、紀伊国熊野より遷し創建と云ふ。永享年中、本殿を再建し、神殿等造営すと 確証なし。明治11年熊野神社の称号を廃し、更に官に乞うて別所神社と改称す。社地中老松 1株、周囲1丈2尺3寸、長さ8間半、祭日、4月16日。9月28日、素盞鳴尊、祭日7月12日よよ(※より?)14日まで。
 境内雑社 (省略)
建久年間(1190~1198)と言えば、鎌倉初期であり、それから240余年を経て永享年中に本殿を再建し、神楽殿を造営したというが確証ないと書いているので、伝言の程度と解すべきであろう。
 なお、このことについては、昭和30年10月、「別所村史略年表稿」としての別所村誌資料編纂委員会の記事によれば、「熊野神社(別所神社)本殿は昔から現在の位置にあったものではなく、江戸時代の天和2年(1682)に「下」の位置にあった同社を現在の位置に上げて社殿を造営して祀ったという記録が見えるので(西島義雅氏所蔵「万覚帳」)社殿は移動していると思われる。
 その「下の位置」とは、水帳に「みやのまえ」 "みやのわき" "みやのうえ" 等の地名があるので、その辺りであろうことは想像に難くない とあるが、果してその通りであろうか!。
 享保20年の「宗源宣旨」によれば、
 信州小県郡別所村
   正一位熊野三社大権現
 と書かれており、時の願主山極政之奉納の銅鏡にも「信州別所邑、正一位熊野宮広前」と刻み込まれていて、裏面には「享保二十年六月吉日」と書かれている。
 以前鳥居に掲げられていた神社の額には、「正一位熊野三社大権現」と書かれていたのであるが、これは常楽寺に預けられて、現在は鳥居の額に「本朝縁結大神」と記されている所をみると このお宮も時勢の影響を受け、主たる効能は「縁結び」となったもののごとくである。
 さて別所神社に保存される最近の記録を掲げてその全貌を見ることにしよう。

 別所神社
一、鎮座地 別所内大門 2338番
一、境内面積 1923坪(昭和31年国より無償交附)
一、建物 本殿   3坪
     拝殿   8坪
     神楽殿 45坪、間口9間、奥行5間
一、祭神
  伊弉諾、伊弉冊尊
  速玉男命
  泉事解男命
 相殿素盞鳴尊
一、由来 建久年間、熊野大権現を勧請し、創建す。熊野権現、又は本朝縁結神社と号す。
 明治11年、別所神社と改称す。
 永享年中、本殿を再建し神楽殿を造営す。
 明治42年諏訪社、三島、山の神社、住吉神社、八幡社、日月社、愛宕社、温泉社を合祀す。
一、祭日、1月12日新年祭、4月15日祈年祭、5月3日三島祭、7月14日祇園祭、7月15日(岳の幟祭)九頭龍社祭、9月28日例祭、11月28日神甞祭、12月20日大祓祭、
一、宝物 宝剣 一振
一、山林 1反7畝17歩
  三嶋神社旧境内地全部
一、氏子 別所地域現住の人、及び氏子にして他出中の人。
一、運営 神社総代3人
     祭典委員12人
  昭和37年7月23日記録
 と記されているので神社の概要はこれによって知ることができたと思われる。

3.「獅子舞及びささら踊り」の行事と別所神社の関係
 先にも記したように、「岳の幟」の行事は、永正年間に、九頭龍神の加護によって、与水があって以来、その奉賽として、三丈余の長幟を毎年献納して、今日に及んでいるのであるが、これにまつわる獅子舞と、さゝら踊りは何時頃からこの行事に附加されて、最後は別所神社に収められるようになったのであろうか。これについて倉沢美徳氏は「別所温泉の記録」中「岳の幟りと祇園祭」の項で下記の様に説明されている。
 「今日では、岳の幟り、さゝら踊り、獅子舞との三者を一括して "岳の幟りの祭礼" といわれるようになっている。しかし、ささら踊りと三頭獅子とは祇園祭の出し物であって、岳の幟りとは別個の祭りである。むかしは別々に行なわれていた。
 大正10年、小学校舎が増築された際、その祝典にこのさゝら踊りと三頭獅子が奉納された。その後、一両回出演したことがあったが、獅子面が大分破損したので、昭和9年になって資金を募集し、三頭の獅子面を新調した、その際、岳の幟と祇園祭の期日が接近しているので、この二祭を合せて同月日に施行したのがはじまりで、爾来今日に至るまで毎年同時に行なうのが慣例になってしまった。正式にいえば二つに分けて考えなくてはならない。」と書かれているので同時に行なわれるようになった理由も解る訳である。尚この記事の中に獅子面が破損しているので昭和9年に之を新調したと書かれている。獅子面が破損するほどそれ以前に舞い続けたことを想像せずにはいられない。別所には院内に立派な「市神」のお旅所が設けられてあり、三頭獅子舞が以前から行なわれていたことが想像に難くない。(別所の外に、前山、保野等いずれも三頭獅子舞の行なわれた所であるが、共に "市神" を今に伝えている。)
(※以下略)

郡村誌 小県郡(別所村 他)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35230
別所村誌(明治14 1881) 65コマ
飛宮社(中略)祭神 天太玉命 天児屋根命 大雷命 里俗傳に永享元年の創立にして 始めは加茂祠(※かものやしろ?)と称す 故あつて飛ノ宮と改めたりと云ふ 祭日十月廿九日

飯島寅次郎『別所温泉誌』(明治33 1900)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765305/20
飛宮社 祭神天太玉命、天兒屋根命、大雷命、永享元年の創立といふ祭日十月二十九日
明治三十二年本社を別所神社境内に移したり


井出道貞『信濃奇勝録 巻之三』
(男(夫)神岳 女神岳 相染川 結神祠(むすぶのじんし) 美欄樹)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765066/35

(※参考)
箱山貴太郎編『上田市付近の伝承』(昭和48 1973) 17頁より
小玉にある峯の七ツ石の一ツ、われ石というのは約二百貫位の石が真中から二ツに割れていて、此の割れた間に小さな祠があって諏訪明神が祀ってあって、その祠の中には、小豆粒ぐらいの小石が一面に敷いてあって、その上に丸い石や卵形の石が十四五入っている、石は安山岩が川の中の滝壺などで水にもまれているうちに自然と丸くなったもので、川から拾って来たものである。此の地方では、神社の本殿の中には殆んど、このような丸い石が収められている場合が多い。

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2021年2月2日火曜日

鉱物の世界、大人のつきあい

発泡した流紋岩の粒状の黒曜石
発泡した流紋岩の粒状の黒曜石

安山岩の変質した輝石
安山岩の変質した輝石(緑と青黒の部分)

石英閃緑岩表面の角閃石、輝石
石英閃緑岩表面の角閃石、輝石(小粒)

緑色凝灰岩の斜長石の斑晶
緑色凝灰岩の斜長石の斑晶(中央)

流紋岩の斜長石の斑晶
流紋岩の斜長石の斑晶(中央)

植物化石が分解してできた霜柱状鉱物
植物化石が分解してできた霜柱状鉱物(緑礬?)


NHK 所さん!大変ですよ「ブーム到来!?不思議な鉱物の世界」の配信(TVer)を教えて頂いて、見ました。
スピリチュアル、パワーストーンの話はほとんどなく。鉱物標本の擬人化はありました。系統や宗派のようなものもあるのでしょうか…

見立て遊びで、生チョコが「武石」でした。レーズンの黒曜石はアパッチの涙でしょうか。卵は珪乳石、きざみ葱は孔雀石のさざれ?
ケーキは「珪乳石」との表示でしたが、たぶん同じ品物のウェブの写真では「ラピスラズリのオペラ」になっていました。

大きさや珍品にこだわらないなら、身近な石ころの中の鉱物も、拡大して観察するといろいろ特徴があって楽しめるかも。(人とは繋がりにくいかもしれませんが…)

石好きは石と深く関わっているように見えても、その石がいつどこで、どんな環境で生まれ、どんな経緯で今ここにあるのか等の具体的なことは、調べてもよくわからなかったり、知ろうともしていないこともあります。あまり詮索はしない、大人のつきあい方?

雲や空の光も気象の仕組みと関係付けて楽しみたくなりますが、理屈を好まない方向性もあるのかも…

ヒスイハンターの取材では「絶対 売らない」「絶対 売らない」「お金には代えられない魅力がヒスイにはあるという」とのストーリーでした。「注意点」が影響している?(販売目的の採集は違法? ハンターの執拗な採集は常識的範囲内? 穴を掘るのは範囲内?)

ヒスイ拾いの注意点(新潟県糸魚川地域振興局地域整備部より)
 個人の趣味の範ちゅうで常識的な範囲で行う
 高波に十分注意する


黒曜石といえば、隠岐の産地の映像が、少しですが、NHKの番組でありました。
新日本風土記「隠岐諸島」(2021年1月29日 2月5日)
https://www.nhk.jp/p/fudoki/

スピリチュアル系図鑑 辛酸なめ子 第1回 パワーストーン系
http://webheibon.jp/spiritualkei-zukan/2017/04/post.html

石拾い・土砂の持ち帰りが違法になるケース
https://yoi-net.com/archives/3157

ナショナルジオグラフィック日本版
研究室に行ってみた。気象庁 気象研究所 雲の科学 荒木健太郎
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/18/013100002/